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短編(過去作)

クジラの彼。

作者: あさろ

中校生時代に書いたものを、一部修正したものです。

――まるで私と目を合わせるように、そいつは私の前を通っていった。


 * * *


海に隣接した田舎の水族館、そこには幻想的な空間と直径五百メートルの水槽があった。上部は外につながっていて、そこから漏れる日の光がキラキラと反射している。

その中にそいつはいる。名前はマッコウクジラ。

何があったのか体中にある傷が、海の凄まじさを物語っている。しかし、その瞳は吸い込まれそうな漆黒で光があった。

腹がたった。

別に辛いのは海だけじゃない。

私にはそのクジラが「自分はそんな凄いところで生きていたんだぞ」と主張しているように見えた。偉そうにしないで欲しい。陸だって生きにくい所だと、きっとこいつは知らないんだろう。自慢気に泳いでるんじゃない。

などと、ことこと煮詰まっていた怒りをこのクジラへぶつけたところで、意味などない。それを分かっていてなお、私は定期的にここへストレスを発散すべくやってくる。溜めていたストレスはなんてことはなく溶けていった。

不思議なことにこの青く冷たい世界はすごく心地よく、そこで泳いでいるクジラも私の心をほろほろ解していく。現実の忙しない空気とは全く違う。

ここだけは世界の一部ではない、孤立された世界なのだ。

そこに私はひとりでいる。

田舎の水族館というのもあって来館している人間は少ないが、世にも珍しいクジラのいる水族館として有名なので全くの一人という訳でもなかった。それでも、フロアに一人ぼっちになる瞬間は多々ある。いや、泳いでいるこいつらを含めると厳密にはひとりではないか。

この静かな空間で私が孤独と寂しさを感じないのも、それが故だろう。

心地良い。肌触りが良い。


「久しぶりだね」


少しの孤独と安心に心を落としている時、それを無理やり掬い上げるように声がかけられた。そのテノールに僅かな苛立ちを含んだ生返事で返す。

そういえば、こいつもいたのだった。

見慣れた作業着にふわふわとした茶髪、名前はなんだったか、そんなことは名札を見れば分かることだ。

思えば、こいつと出会ったのも、確かこのクジラと初めて会った時だった。あの日私は運命の出会いをしたのだ。

今となっては慣れてしまったが、初めてこのクジラと会った時のインパクトは凄まじいものだった。生物の中で最大、何者も寄せ付けない圧力と威厳。こちらを見つめ返してくるその瞳に腰を抜かしかけた。当時、クジラなど興味なかった私はこいつが何と呼ばれているのかさえ知り得なかった。


「それはマッコウクジラだよ」


そんな私に対してこのクジラの知識を与えたのがこの男だ。

偉そうに、しかし気さくに、男が与えてきたその新しい知識に、ちょっとした欲を覚えたのは紛れもない私だった。私は魅せられてしまった。

このクジラとその新しい情報、そしてそれを肌で感じる快感を。


「大きいものでは二十メートルのものもいてね、この子はどちらかと言えば小さい方になるね。五百メートル水槽でも、彼にとってはまだまだ小さいのだろうね。広い水槽ならもう少し大きくなれたかもしれない。……君はクジラに興味があるのかい?」


灰色のつなぎに赤ぶちの眼鏡、そして女に好かれそうなその顔に私は少し不信感を抱いた。こういう類いの人間は信用できない。張り付けたような笑顔がそれを促進させる。


「いいえ、全く」


笑顔など遠く昔に失くしてしまったから、無表情で淡々と答える。どれほど冷たい人間に見られたことだろうか。

クジラさえも私を嘲笑うようにして得意気に泳ぎ去っていく。

目の前の男はいくらか驚いた表情だったが、すぐに仮面の笑みを被り直した。その笑顔の裏に、自分を隠すように。つくづく気持ち悪いと思う。


「きっと好きになるよ」


笑顔のままそう言ったのは、果たして私への挑発だったのか、はたまた自分への保身だったのか。とにかく、この男は気味の悪い笑みを浮かべて言った。

私に対して言ったのだろうその言葉は、まるで生きているように宙を浮遊して水の中に溶けていった。砂糖を溶かすように、涙をこぼすように。

その様子をどこかテレビの中を見ているように遠くから見ていた私。

男もそんな私の視線を追うように水槽を見る。


――クジラが游いでいる。


どこか遠くを見るその瞳にはきっと、大海原で泳ぐ自分の姿を見ているのだろう。

自分がこんな小さな世界の中にいると言うことが、許せないのだろう。自分はこんな小さな世界におさまるような小さな存在ではないと主張する、そんな風に見えた。

本当は自分がこの程度の世界で生きていることさえ知らないのかもしれない。愚かしいと思った訳ではないけれど、寂しさは確かに感じた。

このクジラがどう思おうと、私の知るところではない。

私がどう思おうと、彼の知るところではない。

私たちは結局、息の詰まるような小さな世界の中でしか生きていけないのだ。

冷たいかもしれないが、たぶんそれが世界だ。そこには鮮やかな色彩などなかったが、ただひたすら青きは広がっている。

クジラはひとりで、私もひとりだ。

きっと目の前の男もひとりなのだろう。

しかし、それでも生きている。

だから。


「きっと、好きになる」


それはクジラのこと?

それとも――。

【言い訳 (あとがき)】


みなさんは、息苦しくなりませんか?

私はいつも息苦しい。


まるで海水に放り込まれた淡水魚。

息の仕方も分からずに、ぶくぶくと溺れていくのです。


クジラを見たことはないですが、水族館で見られないのは知っています。

ゴンドウやシャチもクジラに分類されますが、やはり本物を見てみたいものです。


そして、大きな彼の小さな世界をこの目で見てみたいものです。


息のしづらいこの世界で、それでも私達は生きていくんですから。

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