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初恋の章〜後編

 ――潮の香りと錆びたトタン屋根の風景。久しぶりに港町へと帰った弟は、思い出に浸る間も無く名士の家を目指す。

 直ぐにでも兄の死について問いただしたかったのだが、町の違和感には拭えないものがあった。行き交う人々に活気がなく、港で停泊している船も以前に比べると少ない。

 一体何があったのか――変わり果てた町を歩く弟の胸の中は、不安と焦燥に満たされていった。


坊や(ボン)?」


 ひどく懐かしさのある声に呼ばれ、弟は振り返る。

 洗濯物の入った桶を持ち佇んでいたのは、名士の娘だった。相変わらず日に焼けた褐色の肌に、黒く綺麗な髪はだいぶ伸びている。驚きの表情を浮かべるその顔は、以前にも増して綺麗になっていた。


「ただいま帰りました」


 淡々とした弟の挨拶を聞いた娘は口をへの字に曲げ、眉根を寄せ上げながら目に涙を溜めた。桶を真下に落とし、走りながら弟の胸に飛び込み抱きしめる。それから、声をあげて泣きだした。

 弟はいきなり自身の胸で泣く娘に困惑しながらも、いつの間にか身長を追い越していたことに気がついた――


 兄は徴用船の乗組員として戦地に赴き戦死した、と名士から聞かされる。船は撃沈し、遺体を回収することも叶わなかった、と。

 悲痛な表情で語る名士の言葉に、弟は顔を伏せることもなく、ただ前を向いて聞いていた。涙も見せず、泣き言も言わず、冷静に起こった事実を受け止める。

 もちろん悲しくないわけではないし、気丈に振る舞っていたわけでもない。単に、現実味を感じていなかっただけ。もしかしたら兄はひょっこり現れるのではないか、皆で自分を驚かそうとしているのではないか、そんなことすら考えていた。

 しかし、名士の申し訳なさそうな顔と、奥さんの小さくすする鼻は、兄の死が事実であることを告げている。活気のない町も、少なくなった漁船も、帰ってこない人が多くいることを物語っていた。


 名士に中学を卒業したら港町へと帰ってくるよう勧められるが、弟は返事を保留する。突然いなくなってしまった兄と、戦時下という現実、自分の進むべき道がわからなくなっていたからだ。

 海外にいる父には戦争の混乱で全く連絡がつかず、兄が死んでしまったというのにどこで何をしているのかもわからないし、そもそもまだ生きているのかすら疑わしい。

 唐突な孤独感に何も考えることができず、どうしてこんな事になってしまったのか、と答えの出ない問いだけが頭の中を巡る――寂しくなった港の石段に座る弟は、夕焼けに染まる海を眺めながら物思いに耽っていた。


「――隣、座っていい?」


 澄んだ声に弟が振り向くと同時、名士の娘は返事を待たずに隣へ腰掛ける。


「座りながら声をかけるんだったら、わざわざ聞く必要がないんじゃない?」


 弟の呆れたような声音に、娘は肩を竦めて小さく笑った。どこか懐かしく、心地の良い感覚。


「ええやん、べつに減るもんでも無いし」


 その屈託の無い笑顔を見て、弟はやっと港町に帰ってきたことを実感する。ほんの少しだけ大人になってしまっていても、仕草や癖は昔と何も変わっていなかった。

 かつて淡い恋をした遠慮の無い姉さんに、小さく鼻を鳴らしてからいつも通り愛想なく接する弟。思い出話に華を咲かせる気分は無く、近況を報告するというわけでもなく、黙ったまま赤く染まった海に視線を移した。

 ――二人の間にしばしの沈黙が続いたあと、弟がポツリと口を開く。


「兄さん、最後に会った時はどうだった?」


 娘は小さく膝を抱えて、海の向こうを眺めた。


「どうもないよ、いつも通りやった。お国の為に行ってまいります、って照れ臭そうに笑っててな。すぐ帰ってくるーって、手振りながら叫んどったよ」

「……そっか」


 海の向こうに語りかけるような娘の言葉を聞いて、弟は目を瞑る。その時の兄の表情がありありと想像でき、このまま港で待ち続けていればいつか帰ってくるのではないかという気さえしていた。

 もちろん、そんな夢想じみた願いは叶うはずもなく、潮風が頬を撫でるだけ。


「好きだった? 兄さんのこと」


 現実はどうしようもなく変わらない。


「うん、結婚する思っとったから」


 そして変わらないと理解しつつも、流れに身を投じてしまうものでもあった。


「ありがとう……」


 戦争という、現実に。


「僕が、仇取ってくるよ――」



 読んだ――というより、記憶が流れ込んで来た私は、本を閉じて顔をあげた。未だ締め付けられる胸の中には苦笑するしかない。

 この本はまさに私そのものであり、内容は少年の頃に恋をした記憶だった。


「思い出せました?」


 深呼吸する私に、記憶の番人を名乗る司書は顔を伏せたまま声をかけてくる。しかし、わざわざ聞くわりにはあまり興味なさそうで、落書きに羽ペンを走らせていた。


「ええ、まあ。思い出しました」


 あの日、夕焼けに照らされた姉さんの横顔が脳裏に焼きついている。私が恋をした姉さんは、兄を愛していた。だから、戦争で奪われた兄の仇を討つことを誓った……いや、今だからこそわかるが、本当のところは仇などどうでもよかったのだろう。

 結局のところ、私も姉さんの心に残りたかったというだけだ。兄の仇を討つという建前で戦争に行って、死んで、あの海を見つめる瞳で、私を思い出して欲しかっただけ。

 仇を取ると言った後の記憶は戻っていないが、容易に想像はつく。きっと私は姉さんの顔を見ることはできなかっただろう、泣きそうな顔をして止めてくることはわかっていたから。

 本がここで終わっていたのはおそらく、私の”初恋の記憶”がここまでだった、というだけだ。これから先の私の人生は――


「私は、あれから死んでしまったんですね。戦争で……」


 そうポツリと呟くと、司書は画用紙から顔を上げて私を見つめた。表情は片眉を吊り上げ、口をあんぐりと開けて、酷く腹立たしいほど人を馬鹿にしたものだった。


「はあ? 何言ってるんですか」


 少し哀愁に満ちた気持ちだった私は、司書の理解不能なものを見たような態度に動揺する。何か間違ったのだろうか。


「あなた、人生九十年の大往生ですよ」

「あれ、兄さんの仇って戦争に行ったんじゃ……え、帰ってこれたんですか?」


 私が困惑していると、司書は大げさにため息を吐いて立ち上がった。そして、先ほどと同じように私の隣をするりと抜けて本を探し始める。こうも苛だたしげにされる覚えもないが、私は萎縮するしかない。


「あなた、そもそも戦争行ってませんからね」

「え?」

「確か健康診断のX線検査で肺に白い影が写ったとかで、兵役免除されたんですよ。それで、結局白い影もなんでもなかったそうで健康体……あ、ありました”人生の章”」


 司書はまたさらに分厚い本を手に取り私に差し出した。


「全く、老人の”書庫”は長く生きた分整理されてないから見つけるのが大変なんですよ。きちっと脳トレしとけってんです」

「はあ、そうなんですか」

「人ごとじゃなくて、あなたに言ってるんですよ? ここはあなたの部屋なんですから」

「……なんか、すみません」


 書庫、というのはこの部屋のことだろう。どうやら、ここは私の記憶の書庫であり、荒れ果てているのは私がしっかり脳トレーニングを積んでこなかったことに原因があるらしい。

 人生の章と言われた本を受け取り、再度読み始めようとすると、司書はめんどくさそうに止めた。


「さっきから言おうと思ってたんですが、それわざわざ読まなくてもいいんですよ。額に当てるだけで理解できますから、あなたの一部ですし」


 先ほどから司書が本を”読め”と言わず、”使え”と言っていた意味を理解する。流石に早く言ってくれよ、と説明不足な司書に渋面を作りながら額に本を当てた。


 ――流れるように入り込んでくる私の記憶。姉さんに戦争へ行く決意を告げたあとの事も思い出す。めちゃくちゃに殴られながら止められていた。

 それから意地になって、中学を卒業後に陸軍士官軍学校へと入り数年、いざ戦地へ赴かんという入隊前の健康診断で肺に白い影が写り込み断念する。肺結核を疑われ入念な検査を受けたが、影はなんでもなかったらしく健康に影響はなかった。

 また次の機会はあると思っていたが、国の財政は長引く戦争で限界にきており、数ヶ月後には敗戦して戦争は終結。

 国の為に役立つこともできず、恥ずかしながら帰ってきた港町でまた姉さんに殴られ、もう心配かけるな、と無理やり結婚させられる。意味がわからなかったが、どうやら私の恋は成就したらしい。

 私は名士のツテと得意の外国語を巧みに使い、海運事業を始める。戦後の波に乗り会社は急成長を遂げ、世界に名だたる貿易会社として成功を収めた。普通に順風満帆な人生だ。

 行方不明となっていた父は戦後十年の月日を経て海外で発見。金髪の新しい奥さんとよろしくやっていたことがわかる。


「親父……」

「まあ、そんなもんですよ。父親なんて」


 その後、会社は不動産、金融、保険と幅広く事業を拡大。バブル景気の後押しもあり戦後を代表する大企業となる。私の商才がすごい。

 仕事一筋でがむしゃらに働き、気がつけばもう六十二歳。子供もとうに成人して孫もできた。金を稼ぐことだけを生き甲斐に家庭を省みることはなかったが、これからは支えてくれた妻と老後の人生を楽しもうと思っていた矢先の事――妻に先立たれる。

 脳梗塞で急死というあっけない別れであった。最後の思い出は、きっかけもわからない本当に些細な喧嘩。長年連れ添い、これからもずっと一緒だと勘違いしていた私は酷く後悔した。

 生き甲斐が仕事にしかなくなり、会長となった私はその後十何年も会社に口を出し続ける。跡継ぎとなる息子とは幾度となく衝突し、次第に口もきかなくなり、ただ一人寂しく老いていく。


 一体、私の人生とは何だったのだろうか。孤独の中で答えの出ない問答をしているうちに、私は認知症を患い施設に入れられた。

 それからはただ、なんとなく生きていた。ある日はよくわからず、ある日は頭が冴えていて、ずっと夢の中にいるような気分でもある。そのうち自分が何者だったのかを忘れ、思考する力は失われていった。


 ――最後の記憶にたどり着く。

 小さな女の子がベッドの上で横になる私に語りかけるのだ、とても朗らかな笑顔で、楽しそうに。一枚の画用紙を持って、それを差し出してくる。

 下手くそな似顔絵であったが、とても愛らしいと感じることができた。誰の似顔絵かはわからないのだが、そこには『ひいおじいちゃん』と平仮名で書かれている。

 女の子の名前もわからなかったのだが、私はとても幸せな気持ちになれた。

 私の人生を、見つけた気がしたのだ――。


「――それが、あなたです」


 司書に声をかけられ、ハッと我に返る。いつの間にか手は皺だらけで、服も病衣に変わっていた。私は記憶を思い出すと同時に、本当の姿を取り戻す。


「……この部屋は一体何なんだ、私は死んでいるのだろう?」


 先ほどまでなぜこんな若者に敬語を使っていたのだろうか、と恥かしい気持ちにもなる。


「”記憶の書庫”ですよ。死んだらこの書庫を通って、あの扉の向こうに行くんです。人生を振り返ってからあの世にレッツゴーみたいな。わかりやすく言えば、走馬灯って奴ですかね」


 司書は老人に対する敬意を微塵も見せずに、漆塗りの扉を示した。軽薄そうな笑みは実に不愉快極まりない。


「そうか、なら私はもう行くよ。邪魔したな」


 長い人生だった。あの扉の向こうがどんな場所かもわからないが、怖いものなどないほど長く生きた。天国か地獄か無の世界か、なんにせよ私は生に執着や未練なんてものはない。


「でも、後悔はあるんですよね?」


 どうやら司書は心も読めるのか――いや、私の記憶の番をしているのだから、私の考えなど知り尽くしている、ということか。それでいてこの態度を取られていたと思えば、本当に憎たらしく感じてくる。

 最初に見せられた初恋の記憶のせいで、妻との別れを後悔する気持ちも抑えきれない。長い年月をかけて押し込んでいたはずなのに、諦めていたはずなのに、ありありと思い出した情景が妻を愛した気持ちを掘り起こす。司書はそれを理解した上であの本を最初に手渡したのではないか、と怒りも込み上げてきた。


「後悔の無い人生なんてあるわけない」

「まあそんなプリプリと怒らずに。そうだ、良いものあげますよ。自分からあの世へ旅立つあなたにプレゼントです」


 そう言って、机の上の画用紙をひったくると私に差し出した。その絵が何かに気がついた私は、鼻を鳴らしながらも受け取るしかない。


「人生最後にもらったプレゼントが死後最初にもらうプレゼントってのは、結構乙なものでしょう? ね、ひいおじいちゃん」


 それは紛れもなく、あの女の子から私に送られた似顔絵だった。


「再現するの大変なんですから、時間も限られてますし」


 してやったり、という笑みを浮かべる司書に苛立ちと感謝の入り混じった複雑な感情を抱きつつ、私は静かに漆塗りの扉へと向かう。気がつけば、生前は歩くこともままならなかった老体も、いつの間にか足腰がしっかりしていた年齢まで若返っていた。

 早いところ全てを忘れて楽になりたい。死してまで思い出を抱えて行くこともないだろう――もう、十分すぎるほど後悔をしながら生きたのだから。


 漆塗りの扉の前に立ち、小さく息を吐く。近くで見れば美しく荘厳で現実味のない扉は、ここで今までの私は終わり、新しい私が始まるのだと予感させた。


「あ、一つ伝え忘れてました」


 扉に手をかけ、いざこれからあの世へ、という覚悟を決めた私に、司書はわざとらしく声をかける。全く、最後の最後まで実に腹立たしい。


「――向こうで奥さん待ってますよ」


 瞬間に目の奥から込み上がってくる涙。振り向かなくても司書がいやらしい笑みを浮かべていることは想像できた。

 私は逸る気持ちを悟られないように、ゆっくりと扉を開ける――


 ――夕陽色に染まった海の懐かしい景色、初恋の人が静かに咲った。




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