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初恋の章〜前編

 少しカビ臭さの混じる、古い本の静かな香り。

 光源の見当たらない淡い灯りの中に、長い木製書棚と本が用意された部屋。広い廊下のように細長い造りに赤い絨毯が真っ直ぐ敷かれ、進むべき道を示しているのか。

 私の目視できる範囲から判断するに、この部屋は”図書室”と呼ばれるべきものだろう。だが、拭いがたい違和感がある。

 両壁に備え付けられた書棚は申し訳程度に本が並べられているだけ。本の背表紙も統一されておらず、所々歯抜けのように不揃いであり高さも厚さもバラバラ。綺麗に整頓されているわけではなく――どころか、赤い絨毯の床には大量の本がごっそりと散乱していて、誰かが暴れ狂ったか、嵐にでも晒されたあとに長年放置されていたのか、と伺わせるほど朽ち果てた様子だった。

 しかし、無人の図書室というわけではない。部屋の最奥にある場違いな漆塗りの扉、そのすぐ手前に小さな椅子と机があり、司書らしき人物が座っている。なにやら真剣な表情で机の上の画用紙に向かい、羽根のついたペンを走らせていた。

 図書室の司書なら事務仕事より先にこの部屋の片付けをするべきでは――疑問を抱きつつ、散らかった本を踏まないようにして近づいていくと、司書は顔をあげこちらを振り向いた。


「――何かお困りですか?」


 白シャツの上に黒いベストと蝶ネクタイ、ハイカった服装に身を包み、私を見つめる表情はえらく不機嫌そう。年若いということはわかるが女か男かはっきりしない曖昧な顔立ちで、かけてきた声を聞いても判断ができない。むしろ、人間以外の動物をパッと見ても雄か雌か区別できないように、わからないと言ったほうが正しいのかもしれない。

 ただ、目の前の司書よりもっとわからないことがあった。

 私は”私の状況”を全く理解できていない。気がつけば図書室の入り口に立っていたし、本の山に囲まれていのだ。


「いや、あの、お困りというか……」


 この場所がどこかもわからないし、困っている原因すらわからない。そもそも自分が何者であるのかもわからなかった。わかるのは私が男であることと、カーキ色の国民服を身につけていることだけ。もちろん、国民といってもどこの国民だったのかは思い出せないのだが……。聞きたいことがありすぎて、何から聞けば良いのかもわからずまごついてしまう。

 おたおたとする私の様子を見て、司書は訝しげに表情を曇らせた。ジロジロと私のつま先から頭へと視線を這わせ、ペンの羽根で自分の顎を撫でながら口をへの字に。そして何か得心したのか鼻を鳴らし、人を小馬鹿にしたような表情で笑う。


「はっはあ、なるほど、記憶が全部飛んじゃったんですね。良くあるんですよ、ショックで思い出せなくなったりすることって」


 記憶が飛んだ、と突飛なことを言われ、私は益々混乱する。何か大きな事故にでもあったのだろうかと自分の身体を軽く弄るが、とくに傷や治療をした様子は見当たらない。


「あ、でも大丈夫です。そんなときのためにもこの部屋はありますから、そこら辺の本でも使ってゆっくり思い出していけばいいんですよ。えっと、あの本とか、そっちの本とかだと思い出しやすいかもしれませんね。まあ、自分ちょっと忙しいので勝手にやっててください」


 司書は私の混乱に構わず、整理されていない棚や落ちている本を示しながら一息に言うと、机の上の紙に向き直り羽根ペンを走らせた。

 本は乱雑に置かれているため、”あの”とか”そっち”と曖昧に言われてもどの本を示したのか全くわからない。加えて言えば、今この状況で本を読む意味もわからない。勝手にやっててくれ、と言われても非常に困る。


「……どの本を読めば」


 私が申し訳なさそうに尋ねると、司書はあからさまな舌打ちをしてから再度顔を上げた。なにか気に触ったことを聞いてしまったのだろうか。


「わかりました、わかりましたよ。自分が持って来ればいいんですね。選んでやりますよ、ほんとこれだから素人は」


 両の頬を膨らませ、絨毯に唾でも吐きそうなくらい機嫌の悪い顔を作る司書。

 こうも邪険に対応されると若干腹も立ってくるが、司書は面倒臭そうなため息を吐いて椅子から立ち上がり、私の横をすり抜け本棚に向かう。嫌々ながらも本を選んでくれるらしい。


「……なんか、すみません」


 特に悪いことをした覚えもないが謝ってしまった。もしかしたらとても大事な仕事を中断させてしまったのかもしれない――申し訳ない気持ちを少し抱きつつ机の上に視線を送ると、画用紙には誰かの似顔絵であろう下手くそな落書きが描かれていた。

 どうやら、困っている私より落書きが大事らしい。非常に腹が立つ。


「はい、多分これ使えば大体の記憶を思い出せますので。じゃあ、頑張ってください」


 そそくさと戻ってきた司書はハードカバーの分厚い本を私に押し付けた。

 困惑しながら受け取るも、本を読んで記憶を思い出せる意味もわからないし、一体何が書かれているのかと疑問は尽きない。というか、今おざなりに本を選んでいなかっただろうか。

 羽根ペンを取り上げながら椅子に座り、また落書きに没頭しようとする司書に尋ねた。


「司書さん、これは一体なんの本ですか」

「使えばわかります。あと、自分司書じゃないので」


 下手くそな似顔絵にまた下手くそな線を書き加える司書は、顔を上げないまま簡潔に答える。


「記憶の番人です」


 図書室の聞きなれない役職に、何の番をしているのか、と素直な疑問が浮かんでしまったところで、そもそもそんな仕事はないと気がつく。

 この鬼気迫る芸術家のように落書きを描く司書に担がれているのではないかと疑念を抱くが、問いただそうという気は起きなかった。まともな返事はあまり期待できそうにはないし、本当に唾でも吐きかけてきそう。

 いくら困っても取るべき選択肢は一つしかなく、司書の助言通りに渡された本をとりあえず読んでみるしかない。

 私はその場に立ったまま分厚いカバーの表紙を開き、本を読み始めた。


 ……――。



 舞台は青々と広がる海に面した町。潮風で錆びたトタン屋根の家々が建ち並び、港には小さな漁船が所狭しと停泊している。色黒の男たちは年がら年中漁に出て、女たちが近くの町に魚を売り歩く。昔から代々続く漁業が町の人々の暮らしを支えていた。

 ここに住む二人の兄弟はまだ最近越してきたばかり。都会の貿易商の家に生まれ比較的裕福な暮らしをしていたが、母を早くに亡くし、仕事柄異国に赴くことが多い父もおらず、漁業組合の組合長である港町の名士の家へ預けられることになった。

 今年小学校を卒業する兄は明るく活発で、物事をハッキリと喋る社交的な少年。二つ下の弟は対照的、絵に描いたような都会の軟弱な子供であり、いつも部屋で本ばかりを読んでいた。

 兄の方は慣れない土地で暮らすことに抵抗はなかったのだが、弟は他人の家で暮らすことが嫌で嫌で堪らず毎晩のように涙をこぼす。


「そんなに泣いたって仕方ないだろ? 俺たちはここで暮らしてかなきゃならないんだ。ちゃんと受け入れて、前向いてくしかないんだよ」

「……うん」

「なに、どうしても嫌だってんなら軍の士官学校に入りゃいいのさ。お国の英雄にだってなれる、俺たちもあと数年で大人の仲間入りなんだから。それまでの辛抱だよ」


 兄はすすり泣く弟を毎晩励ました。

 この頃の我が国は東方の島国ながら急速な経済発展を遂げ、列強諸国と肩を並べるまでの軍事力を保持し、自信と愛国心に満ち溢れている。お国のために尽くせば輝かしい未来が待っている、と教えられていた。


 当初、色白の兄弟たちは地元の子供達に怪訝な態度をとられていたが、都会の街並みを面白おかしく話す兄に惹かれすぐに打ち解ける。しかし性格が暗く、モゴモゴと喋る陰気な弟の方はあまり馴染めず、かといって仲良くなった兄の手前虐められるようなことにもならず、一定の距離を置かれていた。というよりも、弟から避けていたという方が正しい。


 ――二ヶ月が経ち、夏が来くれば新しい生活にも慣れてくる兄弟。

 父の旧知である名士も奥さんも、自分の子供と変わらぬように接してくれる気っ風の良い人だったのが救いだろう、新しい土地で兄弟は特段の苦労もなく順調に過ごしている。

 田舎の土地でも教養を損なわないように色々な知識を教えてくれる名士と、普段は優しいが食事の行儀には鬼のようになる奥さんに感謝しながら、肩身の狭い思いもせず居候する兄弟。

 それでも弟は相変わらず家で本ばかり読み、学校では誰とも話そうとしない無愛想だった。


坊や(ボン)はなんで皆んなと仲良くやらんの? 遊ぼう言ってくれてるのに」


 今日も家の中で本を読みふける弟に声をかけたのは、名士の一人娘。日焼けした健康的な肌と短い黒髪、歳は兄と一緒で、学校に通いながらもたまに母親の仕事を港で手伝っている。

 娘は襖に寄りかかりながら切れ長の目を細め、しみったれの弟に呆れ果てた表情を浮かべていた。


「……疲れるから、外は。暑いし」

「当たり前やん、夏やし」


 手に持った団扇をパタパタと揺らす娘には目もくれず、弟はむっすりと答える。突然できた姉に気恥ずかしさがあったのかもしれないが、娘には特に愛想がない。


「子供は外で遊ぶのが仕事なんやから。こんな天気のいい日まで家ん中におったらいつかカビ生えるわ」


 しかし娘はどんなに冷たい態度を取られてもめげず、無愛想な弟に根気強く接し続けた。一人っ子だったために、兄弟ができて嬉しかったのだろう。それも、念願だった弟が。


「ほら、いくよ!」

「わ、やめて――!」

「やめへんよ!」


 こっそり近づいてきた娘に脇の下から抱きかかえられ、弟は椅子の上から引きずり降ろされる。こうやって、ズルズルと引っ張られながら外に連れ出されるのはいつものことだった。


「ほんま、でっかい弟ができて大変やわ!」


 言葉とは裏腹に楽しそうな娘、迷惑そうなふりをしつつ照れ臭い表情を浮かべる弟。少年ながら、異性のお姉さんに構ってもらえる嬉しさ、もといすけべ心もあったのかもしれない。それがいつも無愛想な態度をとっていた理由であったのだろう――。


 この夏は、我が国の軍隊が大陸の軍の襲撃を受け、租借地の自国民を保護するために戦った夏でもある。大陸では物騒な事変が度々起こるが、国内にいる人々にとっては対岸の火事であり現実味のない話であった。


 ――三年も経てば、兄はすっかり町の一員となっていた。小学校を卒業してからすぐ漁師の仕事を手伝い、船の操舵も覚えた今ではもう立派な海の男。顔つきも良かったため名士にもだいぶ気に入られてしまい、このまま家の跡取りにしてしまおうと企まれている。


「お前は頭が良いんだ。しっかり勉強して偉い人になれ」


 兄は弟に毎日同じ言葉を投げかけた。学があれば将来は偉い人間になれる、それが父や亡くなった母のためになると。

 兼ねてから勉強や本を読むことだけに時間を費やしてきた弟は、名士の勧めで中学校へと進学することになった。せっかく慣れた田舎の土地から都会へと戻り勉学に励むこととなるが、名士から学費と生活費の支援もある。勉教は好きだし、特に断る理由もなかったので了承した。

 自分の学費の工面を条件に兄を婿入りさせようとしたことはなんとなく理解できたし、お世話になった手前恥をかかせるわけにもいかない、と幼いながらに考えていたのだ。

 名士が勧めてくれたから中学校に行くと、兄や父のため勉学に励むのだと自分に言い聞かせる弟だが、早くこの港町から出て行きたい、という願望もあった。

 別に港町が嫌いだからというわけではない。今はもう他所の町という感情も無く、田舎だから出て行きたかったわけでも無く、それは幼い嫉妬心からくるものだったのか――ただ、お互いを意識し合う年頃の兄と娘を見ていられなくなったからだ。

 三年間、いつも自分を気にかけてくれた年上の娘に淡い恋心を抱いていた弟は、二人が仲睦まじくなっていく様に耐えられなかっただけ。かといって気持ちを打ち明ける勇気もなく、感情を発露する術も知らず。そのうち家の中で自分だけが異物のように感じられ、逃げるように都会へ戻ることを決めた――。


 まだ幼い顔立ちに似合わない学生帽と制服、少し照れた笑みを浮かべる弟は、駅舎で四人の家族に見送られる。


「お前の才能は俺が一番よく知ってるんだ。顔を上げしっかりと励め」


 兄が弟の被っている学帽の鍔を摘み額に押し付け、無理やり上を向かせた。


「ちゃんとご飯食べるんよ……身体大事にせなあかんで」


 泣き出しそうに眉根を寄せる娘には苦笑いを送る。

 長々とした名士の激励にうんうんと頷いてから、弟は汽車に乗り込んだ。名士と奥さんには我が子のように接してもらい、兄からは自らと違う道を歩むことに期待を込められ、娘からは頼りない弟を心配する気持ちを感じ取る。照れ臭そうに学帽を目深に被るも、皆の気持ちとは裏腹に、心の底から安堵していた。

 自分という余計な存在が抜けた四人の家族を車窓の外に眺めながら、もう辛い想いを抱えなくても良いと。


 ――弟は港町の思い出を振り切るよう勉学に励んだ。先生の教えをよく聞き、お国のために立派な人となれるよう努力する。

 一年も経てば生来の陰気さも無くなり精悍な顔つきになってきた。兄の元から離れ、一人立ちした自覚が芽生えたからかもしれない。弟は少年から青年になる道を歩み始めていた。

 しかし、新しい門出は良いことばかりではない。

 この年の寒い季節、とある日の報道が国内全土を揺るがした。


『宣戦布告の大詔渙発』


 帝国海軍が東の海の向こうの大国と戦闘を開始、敵艦を見事に撃沈したとの報せ。

 数年前に大陸で起こった暴動の鎮圧も長引く中で始まった戦争に不安の声も上がるが、弟たちは「我が国が誇るのは才知と武勇に優れた世界有数の軍隊だ。過去の戦果同様圧倒的勝利で終わる」と先生方に教えてもらった。


 父の職業柄か、弟は幼い頃から外国の言葉に触れてきた。名士の家の書斎にも外国の本がたくさんあったので学ぶ機会にも恵まれる。音楽も好きだったし、文化への憧れもあったが、まさかその国と戦争が起こるとは考えてもいなかった。

 戦局が進むにつれ、敵性語として排斥されていく外国語に寂しさを感じる。「海外の言葉を覚えろ、そうすりゃ人生なんとかなる」というのが、もう数年は会っていない父の教えだった。弟は幼い頃に聞いた、いい加減な性格の父の本気か冗談かもわからない教えを愚直に守っていた。


 戦時下といっても、海の向こうの島々を大国と取り合っているだけ。新聞やラジオの報で聞くしかない弟や同級生たちには、戦争がどういうものか実感もわかなかった。

 しかし、月日が経つにつれて勝利の報ばかりを流していたラジオも鳴りを顰める。当初、快進撃を続けていた我が軍が苦戦し始めているのではないか、との噂も流れ始め、次第に大人たちの顔つきも曇りピリついた雰囲気が国全体に広がっていった。


 開戦から一年も経てば戦争は日常となる。幾度かの本土空襲もあり、国民には勝っているのか負けているのかもわからない。ただ周囲の異様な雰囲気に呑まれるまま我が国の勝利を盲信し、反戦を唱えれば国民に非ずといった風潮。


 弟が通う中学でも軍人勅諭が配られ、教練の時間には配属将校の指導の元で鉄砲の打ち方や演習が行われた。いつでも軍人として戦争へ行けるようにという指導方針からだ。

 勉強するために通っているのに――と反発する気持ちもあったが、弟や他の学生にも逆らう勇気はなく、空気に呑まれるまま汗水垂らして訓練に励んでいた。


 いっそこのまま軍人に志願しようか、という冗談が学友内で流行っていたある日のこと、弟のもとに港町の名士から一通の手紙が届く。

 兄の死を報せるものだった。

 全くわけがわからない、というのが手紙を読んだ弟の感想であり、兄が死んだという実感もわかない。ただ、一度帰ってこい、という名士の言葉に従い、懐かしの港町へと戻るしかなかった――




面白かったらいいジャンを押してね!

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