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君に捧ぐ、女郎花と夏の記憶  作者: 市川甲斐
3 小さな世界
32/51

〈4日目/裏〉

 ヒゲを揺らす風で白猫は目を覚ました。どれくらい寝ていたのか分からないが、そっと顔を隣に向けると、三毛猫はまだ眠っていた。


 白猫は静かに立ち上がり、神社の階段を足早に降りて、道路の端を歩き始めた。空を見上げると、太陽がちょうど真上の辺りにある。真昼の暑い時間帯のためなのか、歩く人の姿はない。


(確か、彩菜の家は……)


 辺りをキョロキョロしながら歩いていく。しばらく歩いてから、一軒の家の庭に入った。砂利の庭の先に、まだ比較的新しい2階建ての家がある。辺りには人気はない。


(前にここに来たのは、いつだったかな)


 中学生までは彩菜とはかなり仲の良い友人だった。彼女は頭も良く、いい意味でライバル関係として高め合える関係だった。それが高校生で同じクラスになってからは、いつの間にか疎遠になってしまった。それは、一つには彼女と美弥が親友になったこともあるかもしれない。美弥の清太への想いを聞いていくうちに、彩菜自身が結羽と疎遠になっていったことは十分に考えられる。


 その家の庭を通り過ぎ、その裏手にある低い柵の下をくぐっていく。その向こうには隣の家が建っていた。そこは、彩菜の家とは違って古めかしい2階建ての家で、広い庭には雑草が鬱蒼と茂っており、やや薄気味悪い感じもする。


(もっと綺麗だったと思うけど……)


 白猫は昔を思い出していた。中学1年生の頃だったと思うが、彩菜の家に遊びに行った時、隣の家の夫婦が庭でバーベキューをやるというので、一緒に参加したことがある。その夫婦には確か当時大学生の息子もいて、彩菜とも楽しそうに喋っていたのだが、その彼があの「松上」という男のような気がしていた。確信はないのだが、彩菜の住所と彼の住所が近いような気がして、それを確認するためにこの集落にやってきたのだ。それにしても、当時は庭が綺麗に手入れされていたように思うが、今はその面影は全くなく、背の高い雑草が一面に広がっている。


 その時、庭に1台の黒光りした車が入ってきた。慌てて背の高い雑草の中に隠れると、その車の後ろからもう1台の白いワゴン車が続いてくる。2台の車は雑草の上で停まると、それぞれ車から運転手が降りてきた。黒光りした車からはあの松上という男が、そして白い車からは別の大柄で短髪の男が降りてきた。


「何だよ、この車は。古そうな車だな」


 松上がその男に近づいて声を掛ける。


「文句言うなよ。名義だってバッチリ変えているんだからな。安心していいぜ」


「フン。まあ、これで50万くらいなら安いもんだな。ほらよ」


 松上は封筒をその短髪の男に渡し、男は中身を取り出すと、そこに入っていた何枚もの札束を数え始めた。それが終わると、二人ともポケットからタバコを取り出してそこで吸い始めた。彼らは何か小声で話しているが、その内容までは聞こえない。短髪の男はこちらに背を向けているが、その半袖から伸びている腕は相当太く見える。彼らに少し近づこうとした時だった。


「ウウウ――」


 突然、後ろから唸り声が聞こえた。振り返ると、白と黒の大きな猫がこちらを睨んでいた。ドキッとして周りを見回したが、突然こちらに飛び掛かってきた。とっさに体をひねってかわしたものの、白と黒の猫はまだこちらを睨んでいる。


「何だ?」


 松上と短髪の男がこちらを向いた。その時、短髪の男の顔がはっきりと見えた。目つきの悪い顔に、何かのネックレスのようなものを付けている。すると、白と黒の猫が再び飛び掛かってきた。


(逃げなきゃ……)


 そう思った瞬間、松上と短髪の男の向こうに、古びた倉庫のような建物があるのに気づいた。そこを目指して、短髪の男の足元をさっと通り抜けていく。


 ビリッ!


 一瞬、体が痺れるような感覚があった。体だけは勢いよく駆け抜けたと思ったが、その先の視界が急激に暗くなり、目の前の風景が何も見えなくなってしまった。



******



 気が付くと、辺りは暗闇だった。目を開けているはずなのに、何も見えない。


(どうしたんだろう?)


 辺りを見回してみるが、自分の姿すら見えないほどの暗闇が広がっているだけだ。一体どうなってしまったのだろう。ただ、そこには静寂の世界が広がっている。


「どうしたんです?」


 どこからか、頭の奥まで響くような声が聞こえてきた。女性の声だ。慌てて周りを見回すが、何の姿も見えない。


「誰……。誰かいるの?」


 そう尋ねると、目の前の一点が急に輝き始めた。その小さな針の先のような光は、次第に大きくなり、眩しさに思わず目を閉じる。しかし、それでも瞼の奥に光が伝わる程の眩しさだ。その眩しさが少しずつ弱くなっていく。


 ゆっくりと目を開ける。知らぬ間に下を向いていたのか、地面が見えた。そして、そこには足がある。人間の、裸足の足だ。


「えっ……どうして」


 驚いて、自分の体を見回す。するとそこには、白っぽい着物のようなものを着ている自分がいた。その手、その胸、その長い髪。人間の結羽の体をした自分が間違いなくそこにいる。そして、その周りには、たくさんの黄色い花が咲いている。


(女郎花の花……)


 手をかざして、遠くの方を眺めてみた。その黄色い花は、ずっと向こうの小高い丘のようなところまで一面に咲いているようだ。


「何なの……ここは……?」


 そう呟くと、後ろの方で声が聞こえた。


「ここは、そなたが過ごしていた世界ではないですか」


 ハッとして振り向くと、そこには銀色の長い髪を輝かせた、まだ若そうな女性が立っていた。彼女も同じように白い着物のようなものを着ているが、そこから見える肌の色は信じられないほどに白い。


「あなたは……誰?」


「私は、そなたの母親」


「母親——」


 そこで言葉を失ってしまった。それを否定することは簡単だ。彼女は間違いなく自分の母ではない。望月結羽の母は望月晴代だ。しかし、それを言葉にすることがどうしてもできなかった。いや、むしろ不思議な事に彼女の言葉が正しいような気がしてくる。黙っていると、彼女は一歩こちらに近づいてきた。


「そなたはここを去ったはず。どうしてここに戻ろうとするのですか」


 無表情のその女性は、怒っているとも悲しんでいるとも取れるような様子だ。


「何がどうなっているのか分からないんです。私は一体、どうしたんですか。私は、さっきまで猫の姿になっていた筈なんですが……」


「いいえ。今だって、猫の姿のままですよ」


 女性の言葉に慌てて自分の姿を見回す。すると、いつの間にか白い体毛に覆われた、あの白猫の姿に戻っていた。驚いて再び顔を上げると、目の前には今度は銀色に輝く体毛に覆われた猫が座っていた。


「姿など、どうでも良いこと。そなたは、ただ、為すべきことを成せば良いのです」


「為すべきこと?」


「そうです。少なくともそれは、ここに来る前のそなたの記憶を取り戻すことではない。特に……その男どものことは、絶対に思い出してはならない」


 銀色の猫は厳しい表情でそう言ってから、横を向いた。


「人間の感情への執着はとても強い。どんなに私が力を使っても、そなたに強い想いを持つ者、そして、()()()()強い想いを持つ者の想いを敏感に感じ取ってしまう。そして、それは思い出してはならない本当の記憶まで取り戻そうとする」


「本当の記憶……? それは、一体どういう事なんですか」


 必死に尋ねる。しかし、銀色の猫は横を向いたまま黙っていた。その視線の先を辿ると、丘の向こうに陽が沈む様子が見えた。


「私の力には限界があるのです。それはそなたにも伝えた筈です」


「どういう事ですか」


「7日間——だけです」


 銀色の猫はそう呟くと、あっという間に辺りが真っ暗になった。目の前にいた筈のその猫の姿さえ見えなくなる。


「さあ、そなたの世界に戻りなさい。我が娘、白猫の姫よ」


 その声に「待って」と叫んだが、それからは暗闇の中をどこまでも落ちて行くような感覚しかなかった。その恐怖感で、思わず目を閉じた私の脳裏に一つの風景が浮かんだような気がしたが、それも一瞬のことで、たちまち意識が遠のいていった。

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