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君に捧ぐ、女郎花と夏の記憶  作者: 市川甲斐
1 冷たい世界
3/51

(2)

 インターチェンジで高速道路を降りると、車は信号機のある交差点で久々に停まった。強い陽射しが車内に差し込んでくる。ちょうど、午後2時を過ぎて一番暑い時間帯だろう。車載の温度計は、外気が35度であることを示している。エアコンを効かせた車内は快適だが、とても窓は開けられない。


 盆地を取り囲む山の方に向かってしばらく走っていくと、辺りは桃や葡萄の果樹園が広がる風景に変わっていく。帽子をしっかりと被り、畑の中で農作業をしている人の姿も見える。この時期はちょうどお盆前の桃の収穫の最盛期なのだろう。


(今日はウチも忙しいのかな)


 そう思いながら更に山の方に上がっていく県道に入り、坂道を走り抜けていく。車通りは多くない。10分ほど走って、大きな柿の木の下から細い道に曲がり、少し上がった先が実家だ。


 この辺りは、昔から果樹の栽培が盛んな農業地域であり、果樹園の近くに点在している家の庭はどこも広い。清太の実家も、家屋自体は古くなりつつあるが、周りの家と同じように広い庭があり、車が4台は楽に停められる。家の隣には倉庫代わりに使っている木造の納屋もあり、そこに農業機械と、ダンボールやコンテナの箱が雑多に置かれていた。


 車を庭に停めて、後部座席に積んでいた青いスポーツバッグを持って車を降りた。玄関の引き戸を横にガラガラと開け、「ただいま」と言ったものの返事はない。帰省することを伝えていたので鍵は開けてくれていたようだが、やはり農作業に出ているのだろう。


 清太は玄関から、階段を上がって、自分の部屋のドアを開けた。見慣れたベッドと勉強机が残っているその部屋には、普段から誰も入らないためなのか、エアコンが効いていないためなのか、ムッとした不快な空気が漂っている。


(暑いな……)


 持ってきたバッグをドサッとそこに置き、すぐに窓を開けて網戸だけにする。ミンミンとうるさい蝉の鳴き声とともに、僅かに風が入ってきた。


 一息ついて、1階の居間に降りた。その部屋の端には、黒色の仏壇が置いてある。祖母の写真が飾ってあるその仏壇の前に正座すると、ガスライターで蝋燭に火を灯した。緑色の線香に火をつけ、線香立ての灰の上に置いて手を合わせる。線香の香りが漂い始める中、清太はそこにあった線香の何本かをティッシュペーパーにそっと包み、新聞紙とガスライターを持って外に出た。


 庭の端の方の日当たりの良い場所に、角材で囲まれた花壇が作られている。そこに向かおうとしてハッとした。


 ニャア――。


 その花壇を囲む古びた角材の上に、1匹の白い猫がこちらを向いて座っていた。猫は清太をじっと見つめて、もう一度ニャアと声を出した。


「お前……」


 その猫の姿を清太はじっと見つめる。白い毛が太陽の光に照らされて眩しく感じる。どこかの家の飼い猫なのだろうか、かなりその毛並みは良さそうに思える。しかし、この辺りは集落といっても家が隣接している訳ではなく、近所の家も高齢者ばかりになっているので、飼い猫である可能性は低いだろう。


 猫はじっとそこに座っている。その姿を見つめていると、ふと頭の中に一つの記憶が蘇ってきた。それは、清太の家で昔飼っていた、「ハク」という白い猫のことだ。そして、その猫を膝の上に置いて、その角材に上に座っていた誰かが言う。


 ――ねえ。写真撮ってよ。


 一瞬、蝉の音が全く聞こえなくなった。その声に続いて、その姿が脳裏に浮かんできた時、急に強い風が吹いた。庭の砂が舞い上がり、とっさに下を向いて目を閉じる。


(あれ……?)


 再び目を開けると、さっきまで目の前にいた白い猫は姿を消していた。どこかに走っていったのだろうか。目の前には、かなり雑草が目立っている花壇の姿だけが見えている。そこには、まだ辛うじて秋桜(こすもす)と、その端の方に、一際目立つ黄色い女郎花おみなえしが元気に咲いていた。清太は大きく深呼吸してから、納屋の中からハサミを持ってきて、その黄色い花を少しだけ摘んで、持ってきた新聞紙に包んだ。


 再び車に乗り込み、今度はさっき来た道とは逆に坂道を登る方にハンドルを切った。その先には、甲府盆地を囲む山の尾根を横断するように作られた広域農道がある。元々はその辺りの果樹園や畑の農作業のために作られたのだろうが、普段からあまり車通りは多くない。その道に出ると、アクセルを踏んでスピードを上げた。


 道路はカーブしながら山を登り、その先の短いトンネルを抜けると隣町に入る。その辺りでも、果樹園地帯の中を横切る風景は変わらず、農作業中の人の姿がチラホラと視界に入ってきた。しばらく進んだ先でスピードを落として、細い道にハンドルを切る。


 そこからは、真っすぐに山から下りていくような坂道になった。道沿いの小さな集落を抜けると、視界が一気に広がり、甲府盆地の風景が一望できる。その先の三差路を曲がり、砂利の駐車場に入って車を停めた。車を降りると、一斉に蝉の鳴き声が耳に響いてくる。実家の辺りよりも大音量に思えて、余計に暑さを感じてきた。


 そこは住職が常駐しない小さな寺に隣接した、この辺りの集落の共同墓地だ。清太は、持って来た荷物を抱え、入口の辺りに置かれているバケツに水道の蛇口から水を汲み、柄杓(ひしゃく)をその中に浸した。それを持って、記憶をたどりながら墓地の中を歩いていく。良く晴れて気温も高い時間帯であるためか、辺りに人の姿は全く見当たらない。墓石に刻まれた家名を確認しながら、ようやく目指す場所にたどり着いた。


『望月家』


 そう書かれた墓石の前に座り、その脇に設置されている墓誌の文字を見つめた。そこには、「平成XX年7月20日没 俗名 望月結羽(ゆう)」と書かれている。


 その墓誌の前で線香をまとめて握り、ガスライターで火を付けた。ムッとした暑さの中、火を付ける短い時間だけでも額から次々と汗が滴り落ちてくる。煙が立つ線香を墓石の前にそっと置いて、ひとまず目を閉じて手を合わせた。


 その時、さあっと風が吹いた。その意外な冷たさにドキッとして目を開ける。


(誰かの……声?)


 なぜかそう感じて、立ち上がって周りを見回した。しかし、そこには誰の姿も見えない。ただ、静かに墓石が並んでいるだけだ。


 気のせいだと思って、改めて目の前の墓石に顔を向けた。その両端に2つ並んだ花瓶にはまだ活き活きとした花が入っている。その中から枯れた数本だけを取り除き、持ってきた女郎花をそこに入れると、小さな花だと思ったが、その黄色が目立って明るく見えた気がした。バケツから柄杓で花瓶に水を加え、墓石の下の方にも水をそっとかけていく。最後に、清太はもう一度座って手を合わせた。


 持ってきたガスライターを手に、新聞紙を丸めて立ち上がり、来た道を戻って、バケツと柄杓を元あった場所に返した時だった。駐車場の入口の辺りから、麦わら帽子を被った誰かがこちらに歩いてくるのが見えた。帽子の影で表情はよく見えないが、ショートヘアの細身の女性のようだ。彼女は少し急いで来たのか息を上げながら、清太の方に近づいてきて立ち止まる。


「あの——」


 女性が声を掛けてきた。清太は彼女の顔をじっと見てハッとなった。


「清太くん……よね?」


「はい……。あの、ご無沙汰しています」


 小声でそう答えながら軽く頭を下げると、女性は首を振った。


「ううん、こちらこそ。久しぶりねえ。何だか見違えたわ。何年振りかしら」


「そうですね……」


「ありがとう。来てくれて」


 清太はその言葉にドキッとした。同じ言葉をどこかで聞いたような気がする。思わず女性から顔を背けて、無意識に先ほどまでいたお墓の方に顔を向けた。すると、急にその記憶が頭の中に蘇ってくる。慌てて、大きく広がった空を見上げた。


「今日は……良く晴れて、暑いですね」


 女性の方には顔を向けられなかった。真っ青な空の色を見ていないと、閉じ込められたたくさんの記憶が、濁流のように一気に蘇ってきそうな気がしていた。山から吹き降ろす風が顔を撫でていく。


「清太くん。あの……」


 しばらくして、女性の声が背中の方から聞こえ、その方に少しだけ振り返った。


「良かったら、ウチに来てもらえないかしら。仏壇にも線香をもらえたら、あの子も喜ぶと思うんだけど。……お願いできるかな?」


 女性がそう言うのを視界の端の方で捉えながら、清太は「ええ」とだけ答えて、再び空を見上げた。

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