冷たい彼女が笑うから、
一目で恋に落ちた。
クラスメイトからの腫れ物扱いなどまるで気に留めず窓際で本を読み耽る彼女の、そこだけ空気が澄み切っているような、古い西洋絵画を彷彿とさせる美しい光景。
「好きです。付き合って下さい」
教室で暖まっていた体から繰り返し吐き出される自分の白い息が鬱陶しい。
左胸で脈打っているはずの心臓の鼓動が頭の中から聞こえてくる。
緊張すると本当に鼓動の音がドッドッと聞こえるのだと、僕は初めて知った。
「えっ、と」
彼女の唇から漏れたのは困惑の言葉。
どれだけこの寒空の屋上にいたのか、彼女は僕のように白い息を吐いていない。
代わりに血管の透けそうなほど白い手を口元へ当て、ほんの少し首を傾げた。
誰だっけ? とでも言いたげなその仕草。
当然だ。
クラスは違うし、そもそも僕はこの学校に転校してまだ三ヵ月しか経っていない。
まるで初めて、ではなく本当に初めて僕を認識したのだと思う。
彼女の視線が僕の顔から足元までゆっくりと動き、再び僕の顔へと戻って来る。
視線が重なった。
真っ直ぐにこちらを見つめる彼女の、やはり絵画のような美しい顔を直視できず僕は視線を地面に落とす。
「古橋君、だよね?」
思いがけない言葉に驚いて顔をあげた。
僕の名前なんてきっと知らないと思っていたのに。
「あっ、はい」
自分で聞いておきながら彼女は「ふーん」とあまり興味なさそうに僕の返事を聞き流し、そのまま後ろのフェンスにもたれ掛かった。
「私のどこが好きなの?」
彼女が訝しむのは当たり前で、僕は引かれるのを承知で正直に答えることにした。
「見た目です」
「見た目って、顔ってこと?」
「うん」
「一目惚れってやつ?」
「そうです」
実際そうなのだから仕方ない。
彼女に一目惚れして二か月半。
クラスも違えば部活も委員会も、登下校の道だって何一つ彼女との接点はなく、会話をするのはなんと今日が初めてだ。
僕が知っている彼女の事なんてごく僅かなもの、ひょっとしたら僕が知らないだけで恋人だっているかもしれない。
彼女が僕のことを何も知らないように、僕は「消しゴムを貸してくれた」とか「話していて気が合った」とか、そんな適当に付けられるほどの理由すらも持ち合わせていないのだ。
それでも、この気持ちを伝えずにいられなかった。
「ふふっ」
僕の返事に彼女が笑った。
「一目惚れなんて言う人、本当にいるんだ」
今この瞬間、これだけでもう僕は告白した甲斐があったかもしれない。
だって彼女が笑ったのを見たのはこれが初めてだ。
彼女を好きになって、視界に捉えた時にはいつも目で追って、その間彼女が笑ったことは一度だってなかった。
「でもね」
はにかむような笑みから一変、意地悪そうな顔で笑う彼女。
その表情にゾクゾクした。
告白の言葉を口にした時よりも更に心臓の音が早くなる。
思わず零れた感嘆の溜息は、もう白くなくなっていた。
「私、冷たいよ?」
彼女がそう言った瞬間、突風が吹き付けた。
風で髪が乱れるのも構わずに逆手でフェンスに指を絡ませ、ぐいと身を乗り出してきた彼女の瞳が僕を見つめている。
試されていると直感した。
返答次第ではひょっとしたらひょっとするのでは?
そんな淡い期待をしながら開いた僕の口から出た言葉は……
「だっ、大丈夫です! 僕、クールな子が好きなので!!」
いや。
いやいやいや。
この回答は大丈夫じゃない気がする。
馬鹿か、僕は。
ああ、ほら、彼女も俯いて引いてしまって……
「……ふ。ふふ、あはははは!!」
「????」
校庭で部活動に勤しむ生徒達が何事かと見上げるほどに大きな笑い声が空に響いた。
僕は大笑いの理由がわからず、頭にはてなマークをつけて彼女が笑う姿を眺めることしかできない。
こんなに楽しそうな彼女はもう見られないんじゃないだろうか。
動画に撮っておけないのが悔やまれる。
「そういう意味じゃないんだけど。君、転校生だもんね、知らないんだ」
ひとしきり笑ったあと、彼女は息を弾ませながら何かに納得したように頷いた。
「そういう意味?」
「ううん。何でもない。気にしないで」
ゆるゆると頭を振る動きに合わせて彼女の長い黒髪が小さく揺れ、夕焼けに反射しているにしてはやけに赤い瞳が僕を射抜く。
「いいよ。付き合ってあげる」
彼女はゆったりとした動作でフェンスから離れ、僕の元へ歩いてくる。
僕は、動けない。
さっきまで聞こえていた陸上部の掛け声や音楽室から流れてくる楽器の音がやけに遠く、平衡感覚がおかしい。
何かが変だ。
緊張しているせいだろうか?
やがて目の前までやってきた彼女が僕の耳元へ顔を寄せて囁く。
「よろしくね。古橋君」
ふぅ、と吹きかけられた彼女の息は震え上がるほど冷たくて、僕は心臓が止まったかのような錯覚を覚えた。
♢♢♢♢♢♢
「うえっ、マジで!? あっ」
紙パックの落下する鈍い音が響き、雄大が「いきなりそんな事言うから違うの押しちゃったじゃんか」とボヤいた。
雄大は間違った何かを回収しないまま、尻ポケットにしまった財布から再び小銭を取り出してもう一度自動販売機のボタンを押し直す。
ピッという機械音が生徒達の喧騒に負けじと音を立てた。
「やるよ、お祝いに」
紙パックを取り出すためにしゃがんでいた雄大がふいに何かを放ってよこし、僕は慌ててキャッチする。
「え? あ、どうも」
手の中に収まったそれは白とピンクの愛らしいイチゴオレ。
ファンシーな色味がどことなく恋愛成就とかにご利益ありそうな気がしなくもない。
「っつーか先に言えよ、告るなら告るってさー」
「なんでだよ。恥ずかしいじゃん」
「乙女か!」
教室に戻るにはまだ早く、僕たちは少し手前の廊下で時間を潰す。
あわよくば彼女が廊下に出てこないかと目を光らせているが、移動教室でもない限り彼女が自分の机からほとんど動かないことを僕はよく知っていた。
「失恋したら慰めてやったのに」
「失恋しなかったので大丈夫です」
「なんで振られてないんだよー」
「ひど」
「俺また一人になっちゃうじゃんか」
「別にならないって」
雄大はこの学校で今のところ唯一の僕の友達だ。
そしてそれは、雄大にとっても同じだった。
ド田舎と判定するかどうかは人によって多少の差があれど、田舎かと聞かれればまず間違いなく田舎だと答えが返ってくるこの土地で、僕たちは都会からやってきた余所者だ。
僕より半年ほど早い、高校入学のタイミングでこの町に引っ越してきた雄大は入学当初「すぐに馴染んで友達が出来るだろう」とたかをくくっていたらしいが、町にひとつしかないこの高校は中高一貫ではないもののほぼそれと似たようなもので、新入生は誰もがすでにどこかしらのグループに属していた、というのは想像に難くない。
その後やってきてた僕に意気揚々と声を掛けるまではなかなかに惨めな学校生活を送っていた、とは本人談。
余所から来たからなんなのだ、とやって来た側の僕は思うのだけれど、排他的な彼ら彼女らにとってはきっとお高く留まっているだのなんだのと見えるのだろう。
そして恐らくそういう田舎の価値観とか距離感とかに嫌気をさした人たちはみんな町外の学校へ進学してしまって、こんな所には来ないのだ。
そういえば、彼女は僕がこの町の出身ではないことを喜んでいるように見えた。
あれはどうしてだろう────
「でも放課後は氷見咲さんと帰るんだろ?」
「あー……。そういうのはまだ特に決めてないけど……」
「けど? けどなんだよ? 孤独だった翔太を救ってやった俺を、お前はそんな簡単に捨てるんだなっ」
わっと泣く真似をする雄大、とその隣にいる僕をクラスメイトの奴らが冷めた目で見ながら通り過ぎていく。
あの目にももうだいぶ慣れてきたとはいえ、わざわざ自分から視線を集めに行くような行為はやめてほしい。
「ごめんな~」
「そんな! あっさりと! ……あれ」
「? な、」
素に戻った雄大の視線を追いながら「何」と言いかけて僕は息を呑んだ。
「古橋くん」
ふるはしくん。
その言葉が僕には一文字一文字クリアに、そしてスローモーションで聞こえた。
朝の光を浴びて髪から肌から輝いている彼女は今日もこの学校で一番綺麗だ、それだけでも凄いのに声まで美しいなんて。
非の打ち所がないとはまさにこのことだと
「おい」
脳内で彼女への賛辞が止まらなくなっているところを雄大に小突かれた。
「ごめん。ちょっと見惚れてました……」
僕の言葉に雄大が呆れた顔をしているのは見なくてもわかる。
一方の彼女はまるで何も聞こえなかったかのように(ひょっとしたら周りの音がうるさくて本当に聞こえなかったのかもしれない)眉一つ動かさず会話を続ける。
「古橋くんってお昼いつもどうしてるの?」
「いつもは雄大と一緒に……」
そこまで答えて僕はハッとした。
ひょっとして今僕は彼女からお昼のお誘いを受けている……!?
「そう。じゃあいいや、またね」
「あっ、ちょ「氷見咲さん!」
ちょっと待って、と続けた僕の言葉に雄大の言葉が被さる。
いや何でお前が彼女を呼び止めるんだよ、と雄大を睨みつけたが、雄大は僕の視線など気付かない素振りで彼女に話しかける。
「翔太から聞いたんだけどさ、二人、今付き合ってるんでしょ? それなら、」
なんだ、僕の為に呼び止めてくれたのか、と思ったのも束の間。
「俺たちと一緒に昼食べない?」
「いや、なんでだよ!」
彼女が答えるより早く、思わず突っ込みを入れてしまった。
そこは二人でどうぞの場面だろう。
「ごめん氷見咲さん、三人はちょっと微妙だよね。雄大は別に一人で大丈夫だからもし良かったら二人でお昼でもどうかな?」
雄大を背後に追いやりながら、僕は慌てて彼女を誘う。
ところが彼女の視線は雄大の方を向いたままだ。
……んん????
「私は別に三人でもいいけど。戌井君、本当に私も一緒で良いの?」
「勿論!」
「いやっ、」
「じゃあ私いつも図書室前の予備室で食べてるから、そこでいい?」
「ちょ、ちょっと」
「オッケー! じゃあ後でね~」
弱々しい僕の抗議の声は二人には届かなかったらしい。
彼女は雄大とやけに息のあった会話で昼食の約束を取り交わすと、さっさと教室に戻って行ってしまった。
「雄大……お前……っ!!」
「なんだよ~別にいいだろ。俺も氷見咲さんと話してみたかったんだよ」
「はあ????」
「別に好きとかそういうんじゃないから平気平気」
「話したら好きになっちゃうかもしれないじゃんか!」
「それは否定しないけど、あ、もう戻ろうぜ」
しろよ! 否定!!
人目も憚らず怒鳴りつけた僕の声を背中で受けながら、雄大はさっさと教室へ戻って行った。
それから時を置いて待ちに待……ったような待っていないような、やっぱり彼女と一緒なのだから待ちわびていた昼休み。
「待った~? 氷見咲さ痛てて」
僕よりもよっぽど彼氏みたいな顔で約束していた教室に入ろうとしていた雄大をドアから引き剥がし教室に飛び込む。
「別に」
予備室と呼ばれる普段は使われることのない教室で、彼女は一人、窓際の一番前の席に座って僕らを待っていた、いや、別に待っていなかったのだっけ。
机の上にはシンプルなデザインの布に包まれたお弁当と水筒が乗っている。
「お弁当なんだね」
いそいそと隣の席に座りながら話かけると、彼女は小さく頷いた。
「古橋くんは、パン?」
「うん。うち父さんしかいなくてさ。しかも朝早いから毎日学食」
「へー……。私、学食って食べたことない」
「え! そうなんだ!」
「美味しい?」
「うーん、普通? あ、でも前の学校よりは美味しいかも。食べてみる? こっちの甘いの、僕好きでよく買うんだ」
「いらない」
「そっか~~~~」
ああ!
すごい、僕は今、あの氷見咲さんと喋っている!
いただきます、と手を合わせて小さく呟く彼女、可愛すぎか!
……これで後ろに余計なのがいなければ最高なんだけど。
「氷見咲さんってさ、友達いないの?」
「は?」
彼女と和気あいあい(僕視点)と話している最中、手りゅう弾のごとく投げ込まれた雄大の言葉。
僕たちの他に誰もいないこの予備室はただでさえ静けさが勝り勝ちなのに、雄大のせいで更に緊張が走った。
ちなみに先の「は?」は僕の言葉で彼女の台詞ではない。
「雄大、お前、何?」
「いや、俺も翔太しか友達いないし馬鹿にしてるとかじゃないんだけど。俺らと違って氷見咲さんは元々ここの人でしょ? 昼飯一緒に食べる友達の一人や二人くらいいないのかなーって思ってさ」
悪びれもなくそんな事を言う雄大に僕は心底失望した。
こいつは人のプライバシーを、しかも全く親しくない相手に、だ、こんな風に軽々しく聞いてしまうような奴だったのか。
「ごめん、氷見咲さん。やっぱりこいつ連れてくるんじゃなかった」
場所を変えようと席を立ちあがりかけた僕を、彼女が制止する。
「気にしてないから平気。ねぇ戌井君」
「ん?」
「私に聞きたいのって、本当にその事?」
「勿論。それとも、他に何か聞いてほしい事があったりするの?」
「…………」
目を細めて雄大を見る彼女はやっぱり怒っているように見えた。
初めてのデートと言っても過言ではないはずなのに何なんだこの雰囲気は。
ていうか微妙に僕が蚊帳の外にいるっぽい感じなの、マジで何。
「氷見咲さん……?」
おずおずと声を掛けると、彼女ははっとして気まずそうに目を伏せた。
「見ての通り、この学校にご飯を食べるような友達はいないけど。これで満足? まだ他にある?」
「そうだなー、あるっちゃあるけど、」
雄大は睨みつけている僕の視線に気付いて肩をすくめると「やっぱりいいや」と続けた。
「俺食い終わったし、先教室戻るわ。あとは二人でごゆっくり」
散々気まずい状況にしておきながら雄大はろくに謝りもせず教室を出ていった。
残った僕らはしばらくの間互いに口を開かず、どんよりとした空気が漂っている。
ちょっと換気したい。
話題の思いつかない僕はお茶を喉に流し込み続けることでこの気まずさを誤魔化していたが、飲むタイミングが多すぎるせいでさっき買ったばかりなのにもうストローからズゾッと音が鳴った。
「……さっきの話」
先に口を開いたのは彼女だった。
「中学の頃はいたの、一人だけ。友達」
「うん」
「疎遠になっちゃったけどね」
白魚なんて例えるのも失礼なくらい白くて美しい指が彼女のお弁当箱を布巾で包む様を見つめながら、僕は相槌を打った。
それで足りるのかと心配になるくらい小さなお弁当箱が丁寧にしまわれていく。
「私の家、少し変わってて。皆それを知ってるから私と関わりたくないの。古橋君はそういう事情知らないでしょ?」
こちらをじっと見つめる彼女は、僕が頷いたのを見て少しだけ表情を緩めた。
「だからちょうどいいかなって思って」
ちょうどいいって何がだろう。
その疑問を口にするかどうか躊躇っていると、彼女の手が止まった。
「知りたい? 他の皆は知っていて、古橋くんだけが知らない私の秘密。たぶんクラスの人たちは教えてくれないよ」
まただ。
昨日と同じ、あの意地悪そうな表情。
徐々に脈拍が早くなっていく。
秘密。
共有しあえばしあうだけ仲が深まる特別な赤い糸。
そんなの、知りたいに決まっている。
しかも僕だけが知らなくて、皆が知っている?
一体それは、どんな…………。
いや。
「氷見咲さんは僕に知ってほしいの?」
「えっ?」
意外な返答だったのか、彼女はいつもより大きく開いた目をパチリと瞬かせた。
可愛い。
「それは勿論知りたいよ。たださ、皆がその、氷見咲さんを避けるってことはあんまり知られたくないような事なんじゃないの?」
「……それはそう、だけど」
「それとも、やっぱり僕と付き合うの、い、嫌だった? だから何か理由をつけて……」
「違う!!」
強い否定の言葉に今度は僕が目を丸くする番だった。
隣の図書室を利用しに来ていたのだろう、廊下から聞こえていた生徒達の話し声がピタリと止む。
彼女が僕の頭の後ろのほうを睨みつけ、たぶんその生徒達が野次馬でこの教室を覗き込んだのだと察した。
パタパタと足音が遠ざかっていくのを聞こえると、彼女は俯いてごにょごにょと呟く。
「そういうつもりで言ったんじゃないから……」
「そ、そっか。それなら良かった」
良かったというか、図らずも彼女が僕との付き合いを嫌がってはいないようだということがわかりむしろ嬉しいというか。
「なら聞かないでおく。それよりも他に知りたい事いっぱいあるし」
「知りたい事って例えば?」
「んー、趣味とか好きなものとか、あと誕生日とか!」
「……普通だね」
「いきなり重めな秘密はハードル高いので。まずはそういう普通の事から教え合っていこうよ、お互いに」
「お互いに」
「うん」
彼女が小さく笑った。
いつものこちらを試す顔ではない、美しいものを愛でるような表情で。
めちゃくちゃ可愛いから机じゃなく僕を見て笑ってほしい。
「本当にそれでいいの?」
ふいに子犬のような上目遣いを向けられた僕は思わず左胸を押さえた。
こっちを見てとは言ったけど(言ってないけど)そんな不意打ちはズルじゃん!
「それでというか、それが良いでしょ。僕だって、」
「僕だって?」
「ううん、秘密」
「何それ」
「まあ僕にも色々秘密があるってことですよ」
「ふうん?」
「あ、予鈴」
そうだ。
誰にだって人に言いたくないことの一つや二つあるだろう。
彼女のあまりの可愛さに惑わされてうっかり余計な事を喋ってしまうところだった。
僕は丁度良いタイミングで鳴った予鈴に感謝しながら、空になった紙パックを握りつぶした。
♢♢♢♢♢♢
それは僕たちが二年生になり、浮足立っていた学校全体の雰囲気がようやく落ち着き始めた頃のことだった。
「古橋君、ちょっと良いかな?」
「え。あ、何?」
声を掛けてきたのは川田という名前の女子だった。
去年から同じクラスの、いつも飾り気のない二つ結びをしている地味な印象の子だ。
「図書委員の仕事。このポスター貼るの手伝ってくれない?」
彼女はそう言って『図書室を利用しよう!』という文字と手書きの本のイラストが描かれたポスターを広げて見せた。
まるで中身のないこのポスターに、どれだけ誘致効果があるのか疑問だ。
「いいけど、今?」
「うん。暇でしょ?」
「まあね」
今年も同じクラスになった雄大と共に昼食を食べ終え、ダラダラと過ごしていた僕を川田さんはしっかりと観察していたらしい。
あの氷見咲さんとの初デート(と僕は認識している)の後、僕は雄大をぼろくそに叱りつけ、もう二度と彼女に失礼な真似をしないこと、彼女との昼食出禁を命じた。
雄大は甘んじてそれを受け入れ、これからは僕は毎日氷見咲さんと一緒に素敵なランチタイム、と思ったのだけれど、結局彼女から「毎日一緒に食べる気はない」と言われ一週間のほとんどは雄大と昼食を共にしている。
彼女とは今年も別のクラスで、たった二組しかないのに、と己の運の悪さを恨んだが、もし同じクラスになったらたぶん授業などそっちのけで彼女を眺め続けてしまうから逆にこれで良かったのかもしれない。
そう前向きに受け止める努力をしている最中だ。
「私一人でも良かったんだけどさ、ちょっと上のほうがつらくて。ごめんね、助かる」
「別にいいよ。っていうか普通に僕の仕事でもあるし」
「それはまあそうだね」
「この程度の仕事なら遠慮しないでいつでも言ってよ」
「あー、うん」
「あ、でもあんまり僕といるの見られない方が良いか。逆に迷惑?」
「そんなこと、まあ、なくもないかな」
川田さんが丸まろうとするポスターの端を押さえながら、曖昧に返事をして画鋲ケースを僕に差し出す。
僕は少し錆ついた画鋲をひとつ摘んで、ポスターの角にそれを深く差し込んだ。
普段ならこんな風に自分から会話を膨らませたりなんてしない。
でも今日の僕はとてもご機嫌で、その高揚感から少し饒舌になっていた。
「あと何枚?」
「次で終わり。保健室の前」
了解~とゆるく返事をしながら川田さんと並び歩いていると、通りがかった来校者向けの玄関付近から大きな声が聞こえてきた。
「私行きたくない!!!!」
「何で!? お姉ちゃんがやれば良いでしょ!!」
僕がそれを聞き違うはずがない。
氷見咲さんの声だ。
川田さんに「ちょっとごめん」と告げると、僕は声のほうへ駆けだした。
「だから麗奈は今日調子が悪いのよ」
「じゃあ他の人がやれば良いじゃない! 私、今日は放課後大事な約束があるって言ったでしょ!」
「おばあ様が決めたことなの、文句言わないで」
玄関では僕の思った通り氷見咲さんが誰かと口論をしていた。
相手は恐らく彼女の身内だろう、とても綺麗な人で今時珍しく着物を着ている。
結われた髪が真っ白で、パッと見、彼女の祖母かと思ったがそれにしては随分若いように見えた。
女性は僕に気付くと小さく頭を下げ、その仕草に気付いて振り向いた氷見咲さんの顔がこちらを向く。
その表情に僕の心臓がドキリと強く脈打った。
なぜなら彼女が今にも泣きだしそうな顔をしていたからだ。
いつもならそれを真っ先に「美しい」と思う僕だけど、この時ばかりは心配と驚きが勝った。
「ほら、あんまり騒ぐと他人の目に留まるわよ。早く」
「…………」
彼女は僕と目が合っても大きな反応は見せず、女性に腕を強く引かれて力なく玄関を出ていく。
止めたほうが良いのか?
でも家の事に口を出すのは……。
僕は一瞬迷ってから足を踏み出した。
力み過ぎたのか床に敷かれた緑色の玄関マットがずれ、危うく尻餅をつきかける。
「あの!」
体勢を戻そうと更に力が入った拍子に出た僕の声は思いの外大きかった。
その声を聞いた二人の足が止まり、隣の女性が振り返った。
けれど氷見咲さんは振り返らない。
「氷見咲さん、大丈夫?」
その言葉を聞いてやっと彼女は少しだけ顔を向けたが、すぐに女性の様子を窺うそぶりを見せる。
「どちら様かしら? 麗香のクラスメイトさん?」
氷見咲さんが僕の質問に答えるより早く、隣の女性が口を開いた。
口元に笑みはない。
細めた目は僕を品定めしているようで、あの日屋上で氷見咲さんに告白した時を思い起こさせた。
「クラスは違いますけど、同級生です。古橋って言います」
「古橋……。ああ、あなたが」
あなたが。
まるで僕の事を知っているかのような言い方だ。
彼女から聞いているのだろうか。
「外から来た子よね?」
「そう、です」
『外』という言葉の物言いに薄っすら蔑みが含まれているのを感じ、僕は歯切れ悪く返事をする。
「そう。麗香、彼に家の事は話していないの?」
彼女は小さく頭を振った。
「……話してない。古橋君、私は大丈夫だから」
彼女はそう言いながらも僕と目を合わせようとはせず、俯いたまま早口で答えた。
「でも、」
「後で連絡するから」
有無を言わせない口ぶりに僕は口をつぐむ。
彼女の『大丈夫』を本当に信じていいのか判断がつかない。
「古橋君!!」
そこへ、この空気を吹き飛ばすかのように別の声が飛び込んできた。
川田さんだ。
「こ、こんにちは、氷見咲さんのお母様。古橋君、もうすぐお昼休み終わるから戻ろ」
川田さんは酷く緊張した様子で氷見咲さんの隣の女性に挨拶をすると、僕へ教室に戻るよう促した。
「いや、今僕話してて……」
「では失礼させて頂くわね。さ、麗香」
「待っ、」
二人を引き留めようとした僕の袖を川田さんが掴む。
その拍子に川田さんの手から落下した画鋲ケースが辺りに金色の棘を散乱させたが、氷見咲さん達はそれを特に気にする様子も見せず玄関から去って行った。
「何」
自分でも意外なほど低く冷たい声が出た。
負の感情を向けられた川田さんが、掴んだ僕の制服を慌てて手放す。
「やめたほうがいいよ……」
川田さんは少し上ずった声で呟くと、落ちた画鋲を拾い始めた。
「なんで」
口にしてから、しまった、と思った。
僕は彼女や彼女の家の秘密を知りたいわけではないのに、これではまるでそのことについて尋ねているように聞こえる。
「それは……お咎めを受けるから言えないけど……」
「お咎め?」
お咎めっていつの時代だ。
そんな言葉が人の口から出たのを聞いたのは初めてだし、僕が実際に口にしたのもたぶんこれが初めてだ。
一体何をされるというのだろう。
「古橋君は、どっちなの?」
「え?」
川田さんの質問の意味がわからず、僕は困惑した。
画鋲を拾っていた手を止めて下から見上げてくる川田さんの目は真剣だ。
「どっちって? どういう意味?」
「古橋君も戌井君の仲間なの?」
「は?」
なんで急に雄大が出てくるんだ?
「雄大が、何?」
「だから、古橋君も戌井君と同じで氷見咲さんを「翔太」
「うわっ!」
「っ!」
話題にしていた人物の突然の登場で僕も川田さんも肩が跳ねた。
そして僕達の反応に雄大もまた「うおっ!?」と驚いた声をあげる。
「遅ぇから迎えに来てやったのになんだよ。次美術室だろ、早く行こうぜ」
「あー、そうだっけ。悪い」
「ってか二人のその態度、怪しくない? 何、浮気?」
「「違う!!!!」」
「ハモってんじゃん、怪し~~~~」
「マジで違う」
「うん。そういう事言われるの迷惑……もし変な噂とかになったら、私本当に困るから」
「平気だって。俺この学校で話す相手、翔太しかいないから。知ってるでしょ?」
「それは……」
自虐ネタを振られ返しに困っている川田さんを横目に、僕は急いで残りの画鋲を拾い上げる。
それにしても「迷惑」はちょっと言い過ぎじゃないか?
そんな気は微塵もないとはいえ、なんか傷つく。
「じゃあ僕もう行っていい?」
「うん、私職員室に画鋲返してくるから。手伝ってくれてありがとう」
足早に去って行く川田さんを見送るふりをして隣に立つ雄大を盗み見る。
しかし雄大はすぐに僕の視線に気付き「なんだよ」と訝し気に眉をひそめた。
何ら変わらない、いつもの雄大だ。
「なんでもないって」
雄大の性格からして、今この場で問い詰めたところでさっきの川田さんとの会話の意味を教えてもらえるとは思えなかった。
かと言ってまた川田さんと二人で話が出来る状況をすぐに作れる気もしない。
氷見咲さんだけでなく雄大も僕に何かを隠しているかもしれないというモヤモヤだけが残り、ゲームのガチャについて熱く語る雄大に適当な相槌を打ちながら僕は小さく溜息する。
と、ズボンのポケットが僅かに震えた。
誰かからのメッセージを受信したのだろう。
どうせコンビニの広告に違いない、とスマートフォンの画面に触れると「氷見咲さん」の文字。
それと一緒に彼女からの短いメッセージが映った。
『放課後の約束、無理になりました』
「あっ」
約束を取り付けた日から昼休みまで毎日毎日指折り数えるほど楽しみにしていたというのに、激昂する彼女の姿やあれこれですっかり頭から抜け落ちていた。
今日は学校帰りに電車に乗って初めての放課後デートをするはずだったのだ。
「そうじゃん~~~~」
あまりのショックに膝の力が抜け、僕はその場にしゃがみ込んだ。
そんな。
今日はこの後二人で隣町の大きい本屋に行って、お洒落なカフェに寄って、それから雑貨屋とかCDショップとか……。
学校帰りに寄り道をしたことがないという彼女を半年かけて説得し、遂に、ようやく、漕ぎつけた制服デート!!
のはずだったのに。
目の前が暗くなっていく。
「は? 何? どうした」
ちょっと言葉にするのもしんどいので、僕は送られてきたメッセージ画面をそのまま雄大に見せる。
それを見た雄大は案の定面白くて仕方ない顔で「ドンマイ」と肩を叩き、僕はそれに抵抗する力もなくそのまま無様に尻もちをついた。
「今日はもう駄目だ……。僕もこのまま早退したい……」
「氷見咲さん、どうしたん?」
「わかんないけど、さっき母親っぽい人に連れられて早退してった」
「へえ? 体調不良かね?」
「いや、なんか本人は帰りたくなさそ……」
先ほどの氷見咲さん達のやり取りを思い出して、はたと気付いた。
『放課後大事な約束がある』
彼女はそう言って怒っていた。
あの感情表現がフラットな氷見咲さんが、怒っていたのだ。
ひょっとして、彼女も。
再び、メッセージの着信を伝えるバイブ音が響いた。
「……お。翔太、ほら」
僕のスマートフォンを持っていた雄大が手元で画面を確認してから僕にそれを見せる。
「良かったじゃん」
「勝手に見るなよ」
「見えちゃっただけだって」
「ぜってー嘘」
開いた画面に映っていたのは、相変わらず素っ気ないメッセージ。
『次、いつなら行ける?』
♢♢♢♢♢
「お祭り?」
週に二度あるかないかの彼女と過ごす昼休み。
断られるのを前提に、僕は彼女へある提案をしようと企んでいた。
「うん、駅にポスターが貼ってあるの見つけてさ。ネットで調べても全然出てこなくてどのくらいの規模かわかんないんだけど、氷見咲さんは行ったことある?」
「……………………。あるけど」
やけに長い沈黙のあと彼女がいつもより小さな声で答えた。
「それって出店とか出るのかな? それとも結構小規模な感じ?」
「出店……って、屋台のことだよね。たぶん出てると思う。小規模かはよくわからないけど、地元の人しか来ないお祭りだよ」
無意識なのだろう、少し首を傾げる姿が可愛くて、緩みそうになる口元にパンを押し込む。
それからあまり噛まないまま飲み込むと、僕は意を決して昨日から心の中で何度も練習した台詞を口にした。
「あの、さ。もし、もしも、嫌じゃなければなんだけど、僕と一緒にそのお祭り行ってみない?」
ご飯を掬っていた彼女の手がピタリと止まる。
「私と?」
「うん」
「…………」
「…………」
彼女はその提案に返事をすることなく、一口二口と食事を進め始めた。
隣から見える彼女の顔が少し曇っているように見えるのは僕の思い過ごしだと思いたい。
「氷見咲さん? あの、返事はまた今度で大丈夫だから」
そのまま食事を終えるまで黙ったままだった彼女におずおずと話しかけると、彼女が何かを呟いた。
「ごめん、何て?」
「いいよ」
「…………」
今度は僕が黙りこくる番だった。
え?
本当に?
今、いいよって言った?
いいよってつまり、一緒に祭りに行くってことであってる?
「聞こえた?」
「ごごごめん。今、いいよって言った?」
「うん」
「それって一緒にお祭り行ってくれるってこと?」
「そうだけど」
「~~~~っ!!」
僕は歓声を上げるのをぐっと堪えて両手を握りしめた。
もっと僕が勘の良い人間だったら、この時の彼女がいつもにも増して言葉少なであったこと、その意味について気付けていたのかもしれない。
けれどこの時の僕は彼女がデートをオッケーしてくれたことで舞い上がっていて、ほんのわずか感じた違和感を心の隅へ追いやってしまったのだ。
もっと彼女からきちんと話を聞くべきだったと後悔したところで意味はない。ないのだけど、こうして布団に潜るしかない今の状況で他に出来ることもない。
「あ~~~~~~!!!!」
言葉にならない感情を持て余して僕が唸ると、階下から声がかかる。
「おーい! 父さんもう行くからな! 今日は誰か来ても居留守で済ますのわかってるな!?」
「わかってる!!」
「たぶん帰り遅いけど大丈夫だなー!? 誕生日祝い当日に出来なくてごめんなー!!」
「うっさいなあ、もう! わかってるって!! 平気だから!! いってらっしゃい!!!!」
家壊すなよー、という間延びした声を最後に扉が閉まり、鍵がかかる音が聞こえた。
父さんのその言葉がまた今の僕の神経を逆撫でして暴れ散らしたくなる。
その時、枕元に置かれたスマートフォンが誰かからのメッセージが届いたことを知らせた。
『誕生日おめでとう! 祝ってやるから早く風邪と失恋の傷を治せよ~』
雄大からのメッセージだ。
風邪だと嘘をついている手前、体調を気遣う文面に若干のうしろめたさは感じるが、それ以上に「失恋」の文字の攻撃力が高い。
手にしているスマートフォンを握りつぶしそうなほどの苛立ちを覚えた僕は大きく息を吸うと、腹の奥で淀んでいる感情を全て吐き出すように息を吐く。
「……別にまだ別れたわけじゃないし」
小さく呟いてきつく目を瞑り、あの日の出来事を思い出す。
遡ること三日前。
学校が夏休みに入って最初の土曜日、お祭りの当日。
彼女は紺地に大きな白い花柄のワンピース、そして高原の別荘に避暑へ来たお嬢様が持っていそうな白いレースの日傘を差して待ち合わせに現れた。
あわよくば浴衣なんて期待をしなかったかといえば、それは勿論期待していた。
結構。
かなり。
すごく。
でも浴衣じゃないことなどどうでもよくなるくらい彼女の私服姿は眩しかった。
過度な肌見せのない、ひざ下丈のワンピースに薄手の白いカーディガンというイメージ通りの上品スタイル。
白いカーディガンのお陰か、あるいは彼女の纏っている清廉さからくるものなのか、見ているだけで涼やかな気分だ。
実際彼女はこの暑さの中を歩いてきたはずなのに汗ひとつかいていないように見えた。
初手浴衣はあまりにも刺激が強すぎるので、彼女が普通のワンピースを選んできてくれた事にむしろ感謝するべきだと思った。
「私、今日は早めに帰らないといけなくなったからあんまり長くいられない」
「えっ。あ、あー、そう、そうなんだ? うん、わかった」
会って早々、浮かれていた僕へ衝撃のひと言。
いきなり出鼻を挫かれたが、こんなことでめげている場合ではない。
僕は瞬時に気持ちを切り替え駅前の掲示板に選挙ポスターのごとく並ばれた祭りのそれをチラ見した。
「えーっと、もうお祭りってやってるのかな?」
『お冷祭』と書かれたポスターには日付が記されているのみで、具体的な時間について一切書かれていなかった。
「やってるよ。一日がかりのお祭りだから」
「へー。そうなんだ。屋台もやってるのかな。氷見咲さん、お腹空いてない?」
「私はあんまり……。でも屋台は何軒かやってるのさっき見た」
「あ、そういえば氷見咲さんの家って向こうのほうだもんね。どうしよっか、もう行ってみる?」
「うん。今の時間ならまだ人もそこまで多くないと思うし」
「一日がかりのお祭り」と言う割に駅から神社への道のりは人がまばらであまり賑わっている様子はなく、町全体から所謂お祭りムードといったものが感じられないのが不思議だった。
「氷見咲さん、僕と一緒にいるの誰かに見られるの、嫌だったりする?」
「えっ?」
「いやっ、その、気のせいだったら良いんだけど、なんか周りを気にしてるみたいに見えるから」
彼女とのデートはこれが二回目、休日に二人で会うのは今回が初めてだ。
前回は隣町の繁華街だったけれど今日は知り合いも多い地元でのデート。
彼女は先ほどから落ち着きのない様子で、人とすれ違う時にはさりげなく顔を伏せ、日傘で相手の視界を避けているのに気付いた僕はひょっとしたら知り合いに見られるのが嫌だったのでは、だからあえて人の出が少ない昼間の時間なのでは、と思い始めていた。
「見られるのが嫌っていうか、見られたら余計な事を言われそうなのが嫌なの」
それって同じことでは? と思わなくもなかったが、あえて口にはしなかった。
「……そっか。もし帰りたくなったらすぐに言ってくれて大丈夫だからね?」
「うん。古橋君も、もし歩いてる時に誰かに何か変な事言われても気にしなくていいから」
「変なことって?」
「色々。もしかしたら古橋君にはよくわからないこと言われるかもしれないから」
「ふうん? よくわからないけど、わかったよ」
「わからないのにわかったの?」
「うん」
僕が真剣な顔で頷くと彼女がふふっ、と笑った。
それから歩くこと数分、徐々に人通りが増え、まだ閉まっているところも多いもののぽつぽつと屋台も見え始めた。
僕たちはミニカステラを一袋買い、何かのキャラクターを模したふかふかと甘いそれをつまみながら更に道を進んでいく。
「着いたよ、この上」
彼女が指示したのは小さな丘陵。
鬱蒼と茂る木々が日の光を遮り、その間を切り拓くように作られた階段は普段なら昇るのを躊躇ってしまうような、神聖というよりはどこか禍々しい雰囲気を放っていた。
彼女に促されるまま上り始めたが、一段一段の幅が狭く、高さもまばらで少し油断したら転びそうだ。
だというのに、周りの老人達は僕をさっさと追い越して上に進んでいく。
経験の差というやつだろうか。
「あと少しだから頑張って」
「氷見咲さんは、はぁ、平気なの?」
「私は慣れてるから」
「そっかあ~~」
二百段を越えたあたりからもう数えるのもやめ、黙々と上り続ける僕に氷見咲さんが声を掛けてくれた。
相変わらず涼しい顔だ。
日陰のお陰で駅からここまでの道に比べれば体感温度は随分と低い。
とはいえとにかく階段がキツく、僕はひいひいあえいでいるというのに。
さっき買ったカステラは明らかに選択ミスだった。
境内に何か飲み物は売っているだろうか?
そんなことを考え、気を紛らわせながらこの修行のような階段上りをこなす。
「着いた」
「よ、ようやく」
下ばかり見ていた僕は彼女の声に釣られて顔をあげるまで気付かなかったが、すぐそこに石造りの大きな鳥居が見えていた。
疲れた足に鞭打って階段を上り切れば視界が急に開け、空の明るさに目が眩むと同時に冷たい風が顔を吹きつける。
「えっ、涼しい……?」
そこはまるでクーラーの効いた部屋のようだった。
抜けるような青い空とアブラゼミの騒がしい鳴声に反して火照った身体が急速に冷えていく。
「涼しいのはあれのお陰」
氷見咲さんが手にしていた日傘で指示した先、正面の神殿と思しき場所に鎮座しているのは2メートルは優にありそうな大きくて透明な何かの塊だった。
水晶だろうか?
よく見ればその塊が置かれている奥へ向かう参道のあちこちにも同様に人の頭くらいの大きさのガラス玉のようなものが置かれている。
道行く人々は歩いてはその何かの前で立ち止まり、それを撫でているようだ。
「……氷?」
水晶にしてはやけに濡れた質感、そしてこの祭りの名前から思いついたもの。
「そう。あの大きいのも、皆が触ってるのも全部氷。『お冷祭』だから」
「へえ~。氷を祀るって初めて聞いたな。珍しいお祭りだね」
「そう? 別に大したお祭りじゃないよ」
「でも涼しくていいじゃん。めっちゃ夏! って感じなのに涼しいの、なんか不思議だな~」
「古橋君が楽しいなら良いけど」
「楽しいよ!!!!」
階段の下に比べて境内はぐっと人が増え、油断したらはぐれてしまいそうだ。
人混みに気を遣ったのか日傘を閉じた彼女は夏の日差しを浴びて太陽の化身さながらに輝きながら、一番近くにあった氷のそばに寄って氷の玉に指先を伸ばした。
「氷を撫でると長生きするんだって」
「そうなんだ、どっちかというと氷って寿命短そうなのにね」
撫でるというよりは突いている彼女の指の事で頭がいっぱいになった僕は考えなしにそう答え、それからすぐに自分の浅はかさに気付いて周囲を見回す。
幸い彼女以外には聞こえていないようだった。
氷見咲さんは笑っていた。
「私もそう思ってた」
「本当に?」
「うん。だってすぐ溶けちゃうのに、なんで長生きなんだろうなって」
「だよね。そういえば一日がかりのお祭りって言ってたけど、何やるの? 氷を御神輿に乗せたりとか?」
「そういうのはしな「あれまあ!! おひやし様じゃないの!!!! こんなとこにいていいんか!?」
賑わう境内に大きな声が響いた。
何事かと辺りを窺うと、どうやら声の主らしいお婆さんがずんずんとこっちのほうへ向かって歩いてくる。
一瞬、え? 僕? と混乱したが、勿論僕のことではない。
僕のことではないのだが、お婆さんはなぜか僕の隣にいた氷見咲さんに向かってきているようだ。
「お務めはどうしたんか、こんなところで油ァ売って祭事は大丈夫なん!? 何かあって困るのはあんたんとこだけじゃないってわかっとるか!?」
目の前に来てもなお境内中に響くほどの声でお婆さんはいきなり彼女に怒鳴り始めた。
「……こんにちは。大杉のお婆さん」
彼女は明らかに嫌そうな顔で、そのお婆さんに挨拶を返す。
「あら本当、氷見咲さんのとこの娘さんだわ」
「祭りの日におひやし様を見られるなんて縁起が良いねえ」
「隣にいるの誰かしら?」
「ほら、去年外から来たって……」
周囲の人たちの視線が集まっているのを感じる。
遠巻きに僕のことを話しているのも聞こえ、居心地の悪さに顔を伏せた。
折角のデートだっていうのに一体なんだっていうんだ。
僕らがどういう関係か、あの人たちに何か関係があるのか?
うるさい。
煩わしい。
不快。
水が沸騰する直前に小さな泡をぽこぽこと浮かせるように、身体の内に沸々と苛立ちが沸き上がる。
視線を落とした先に見える自分の影が徐々に色を深め、落ち着かなければ、と思うほど脈が早くなっていく。
「行こう、古橋君」
いつもより幾分硬い声に顔をあげると彼女はいつの間にか僕の隣から離れて先へ進んでいた。
無意識に呼吸を止めていたのか、自分の息が上がっていることに気付いた僕は慌てて息を吸い込み、氷見咲さんの後を追う。
「い、いいの?」
追いかける間もまだ背中からお婆さんの声が聞こえてきたが、彼女は僕の問いかけにも答えずどんどん神殿へ向かって歩いていく。
「する? お参り」
神殿の側、階段の上にあったものよりもふたまわりほど小さい鳥居の前まで来た時、ようやく氷見咲さんが足を止めこちらを振り向いた。
「あー、うん。したほうがいい、のかな?」
「どっちでもいいんじゃない? そもそも古橋君には縁ないんだし」
「でも一応この辺りに住んでるし、今日はここにお邪魔してるからしとこうかな」
「ふーん? ここの神様がどんな神様も知らないのに?」
「それはそうなんだけど……」
「まあいいや。古橋君がしたいならすればいいよ。ついてきて」
そう言うと彼女はまたこちらに背を向けて歩き出した。
やっぱり周りの目を気にしているのか、いつにも増して僕へのあたりが冷たいように見える。
でも、冷たいのは彼女の態度だけではなかった。
鳥居を潜った僕は思わず「うわっ!?」と小さく声をあげた。
更に気温が下がり、まるでここだけがすでに冬を迎えたような寒さだったのだ。
その証拠に僕の口から出た息が白くなっている。
境内の中心に置かれたあの氷のせいだろうか、と近くで見て改めてその大きさに驚いた。
どうやって作られたのか見当もつかない。
木でできた台に乗せられたその氷は正月に飾る鏡餅を彷彿とさせるやや平たい丸状で、向こうが見えるほどに透明。
上のほうには白い紙でできた飾りが冠のように被さっていた。
参道にあったものとは違いあの大きな塊に触れてはいけないのか、人々はその氷に触れることなく手を合わせて祈っていた。
しかし彼女はその氷に目もくれず、人だかりの隙間を縫ってどんどん進んでいく。
どこか別に目的の場所があるようで歩みに迷いがない。
てっきりこの氷にお参りするのだと思い歩くスピードを緩めかけていた僕は、急いでその後を追った。
「えーっと……?」
「? どうしたの?」
「こんなところ、入って大丈夫なの?」
彼女に案内されたのは、先ほどの神殿の更にその先、明らかに一般人が入ってはいけないような奥まった場所だった。
「あぁ、そんなこと。大丈夫だよ、私が居るし。向こうは人が多くて嫌いなの」
「そっか」
“私が居る”
それに彼女が周りから「おひやし様」と呼ばれていたこと。
たぶん、聞かないほうが良いんだろう。
氷見咲さんが大丈夫だと言うのなら大丈夫なんだ、きっと。
「お参りの仕方って、普通で良いのかな? 二礼二拍手の」
「好きで良いんじゃない? あ、ちょっとごめん。お参りしてて」
話の途中で彼女の鞄からヴーッという振動音が聞こえ、彼女がその場を離れた。
僕は彼女に言われた通り自分の知っているやり方で参拝を始める。
が、氷見咲さんの声が気になって集中できない。
「もしもし? これから? 今は……うん、また後でね」
誰だろう。家族の誰かだろうか。
勿論聞き耳が良くないことくらいわかっている。
でも、友達がいないと言っていた彼女が誰と何を話しているのか気になるのは仕方のないことだと思う。
「私も早くユウに会いたい」
脳に直接響いてくるような蝉の声の隙間から、わずかに聞こえてきた氷見咲さんの声。
ゆう?
ゆうって……誰だ。
「終わった?」
通話を終えて戻ってきた彼女に声を掛けると、氷見咲さんはいつも通り無表情で小さく頷いた。
あっちに椅子があるから、という彼女に言われるまま僕は後をついてく。
「友達?」
「え、うん」
一瞬動揺したようにみえたのは僕が彼女を疑いの目で見てしまったせいかもしれない。
普段の僕なら「彼女が嘘なんてつくわけがない、もしついていたとしてもきっと何か理由があるはずだ」と思うはずなのだ。
でもこの日の僕は、いつもと少し違っていた。
「ごめん、聞こえちゃったんだけど、今日の夜って他に誰かと約束あるんだ?」
僕がその質問をした瞬間、彼女の瞳が不安げに揺れたのが答えだと思った。
「それは……」
「氷見咲さん、友達いないんじゃなかった?」
「だから、その子が昔はいたっていう友達で、」
「そっか。まあいいや。ごめん、僕なんだか冷えちゃったから今日はもう帰るよ」
「えっ、もう?」
「うん。氷見咲さんも早く帰りたかったみたいだし、別に良いよね?」
「……。ねえ、怒ってるの?」
「僕が? なんで?」
「だって、」
我ながら嫌みな話し方だったと思う。
僕は怒っていたというよりもショックだったのだ。
彼女には今日他にも約束があって、まるで僕だけがこのデートを楽しみにしていたみたいに思えて。
それにあの話し方。
僕よりもずっと親し気で、声だっていつもより弾んでいた。
最近では彼女が笑ってくれることも増えて、ひょっとして他の誰よりも彼女に近いところにいるのかも、なんて少しでも思いかけていた自分がバカみたいだった。
それにしてもこんな場所で言い争いになるなんてなんて罰当たりだろう。
いや、そもそも余所から来た僕がこんなところにいること自体すでに良くなかったのかもしれない。
電話をしていた時よりも近くに彼女がいるはずなのに、やけに遠く聞こえる声。
そこに別の声が混ざった気がした。
「麗香?」
神殿の横に造られた通路から見覚えのある女性がこっちを見ていた。
あの日、氷見咲さんを連れ帰った人……彼女のお母さんだ。
僕と目が合うと取り繕うような笑みを見せ、すぐに彼女のほうへ視線を戻した。
「貴方が連れてきたの?」
「そう。私が一緒なんだから別に問題ないでしょ?」
「問題はそこじゃないことくらいわかっているでしょう。今日が何の日かわかっていてわざとこんなことをしているの? 早くお引き取り頂きなさい。貴方に手伝ってもらうことはまだいくらだってあるのに」
「お姉ちゃんがいるんだからちょっとくらい抜けたって良いじゃない」
「ちょっとですって? もう二時間近くも貴方がいないこと、気付いていないとでも思ったの?」
「……っ、」
「古橋さん、でしたわね。申し訳ありませんが麗香はこれから祭事がありますので、お引き取り頂けるかしら?」
正直に言うと、僕にとってその言葉は渡りに船だった。
これ以上氷見咲さんと話しても喧嘩になるだけだとわかっていた。
「ちょうど、帰るところだったので」
僕はそう言葉少なに返すと、その場から立ち去った。
その日の夜、彼女が「友達」と会えたのかどうかは知らない。
なぜならこの夏祭り以来、僕は彼女と一切連絡を取っていないからだ──
ピコン。
着信音が聞こえて僕は目を覚ました。
スマートフォンの灯りが天井に広がっている。
カーテンの隙間から漏れていたはずの日光は見当たらず、今がすでに夕刻もしくは夜であるとわかる。
ここしばらくだらけた引きこもり生活を送っているせいで生活リズムがぐちゃぐちゃだ。
今日なんて自分の誕生日だというのに丸一日寝たまま過ごしてしまった……なんて後悔は、特にない。
誕生日だからといって何か特別なことをして過ごすのは小学生までの子供とカップルくらいだろう。
恋人。
…………いるけど。
まだ光に慣れていない目を細めながらスマートフォンを覗くと、そこには 『お誕生日おめでとう。もし良ければ……』というメッセージの文頭と送り主の名前……氷見咲さん、の文字。
あの一件以来、氷見咲さんからは何件もメッセージが届いたが僕はまだそれを一通も読んでいない。
ふとしたきっかけで冷静さを欠いてしまう今の状態で、下手に彼女からのメッセージを目にしたら自分でも何をしでかすかわかりかねないからだ。
メッセージに既読すらつけない不誠実な男。
それなのに、まだこうして誕生日を祝ってくれるなんて。
「もし良ければ」の後に何が続くのだろう。
……読みたい。
読んでしまおうか。
今日が終わればこの不安定な感情も落ち着く。
あと少しの辛抱だ。
だけど今届いたこれは今日、僕の誕生日を祝うメッセージで、せっかく誕生日当日に送ってくれたのにそのメッセージすら未読で今日を終えるなんていうのは致命的な過ちに感じて仕方がない。
それに少なくとも今日送られたメッセージには僕がマイナスの感情を抱くような言葉なんて書かれていないのではないかと思うのだ。
それから幾度かの葛藤を経て、僕はメッセージをタップした。
それまで彼女から送られたメッセージがいくつも画面に映るが、目に入れないままスクロールして今はまだ一番下の誕生日メッセージだけを読む。
『お誕生日おめでとう。もし良ければこれから会えない? 渡したいものがあるので、それを渡すだけでもいいから会えたら嬉しいです。そういえば今日は』
あの氷見咲さんからお誘いがあるなんて!
そう思いたい。
思いたいのに。
今はまだあの嬉しそうに誰かと電話をする彼女の姿がちらついて、そんな風にはしゃぐ気分には到底なれない。
しかも今日は満月。
どうしたって外には出られないのだ。
ごめん、氷見咲さん……。
心の中で謝りながらメッセージをスクロールしていく。
「あ」
メッセージと共に添えられた画像が目に飛び込んできた。
そこで僕の記憶は途切れる。
♢♢♢♢♢♢
──古橋君、会ってくれるかな……
翔太から向けられてきたたくさんの笑顔を思い出し、麗香は胸がしくりと痛むのを感じた。
数日前から結局今日、夕方のこの時間になるまで悩み続けてようやく会いに行くと決め家を出てきたというのに、また決心が揺らいでいる。
たったひとつ隣なのにそれまで降りたことのなかった駅。
夜も差し迫ったこの時間帯は、普段さして利用客のいない私鉄電車といえど帰宅する客でそこそこ混雑しており、麗香と共に降車する客もそれなりだ。
電車を利用した事のほとんどない麗香は、一緒に駅を降りた人々に倣い、彼らの後に付いて改札を抜けスマートフォンを取り出す。
今日のためにダウンロードした地図アプリだ。
彼女が慣れないアプリに四苦八苦してようやく足を踏み出した頃にはすでに周囲に人影はなかった。
駅前はドラッグストアと個人経営の本屋があるばかりで物寂しく、麗香は逃げるようにしてその場を後にした。
住宅街を通り、更に進んでいくとあぜ道が増えてくる。
「あっ……」
そういえば、と麗香はここへ来て翔太に家を訪問する旨を伝えていないことを思い出した。
このまま行けば今の険悪ムードを無視した突撃お宅訪問である。
自分への疑念からこんな事態になってしまっているのにいきなり自宅に押し掛けるなんて、それはたぶん嫌がられるのでは? ということくらいは友人の少ない麗香でもわかり、慌ててメッセージアプリを開いた。
祭りの日に関係がこじれてから、麗香は誤解を解くために何度か翔太へメッセージを送った。
けれど、いつまで待っても「既読」の文字がつくことはなく、麗香の言葉が翔太へ届くことはなかった。
しかもタイミングの悪いことに今は夏休み、学校で直接声を掛けることも叶わない。
何時間もかけて考えたにも関わらず読まれることなく「未読」のままのメッセージが連なる画面に、麗香は心が折れかけていた。
──今日会えなかったら、もう諦める
そう家を出る時から決めていた。
──これから家に……その前に誕生日祝いの言葉……
時折民家がぽつりと建っているばかりの人気のない道は街灯も少なく空がよく見える。
どう文章を続けようかと何とはなしに麗香が空を見上げると、そこには思わず見入ってしまうほど大きな月が浮かんでいた。
スーパームーン。
今日はいつもよりも月が大きく見える日なのだと家で流れていたテレビの気象予報士が言っていたのを思い出す。
古橋君も見てるかな、なんて彼女にしては随分とロマンティックなことを考えながらおもむろにスマートフォンを月に向け、カシャッターを切る。そして、メッセージと共にその写真を送ることにした。
「月が綺麗だね」
突然声がかかり、麗香は驚いて持っていたスマートフォンを落としかけた。
声のする方へ反射的に顔を向けると、道の先で誰かが立っているのが見える。
「…………戌井君?」
街灯の灯りが届かず、顔がよく見えない。
しかしその声には聞き覚えがあった。
「お。名前を呼んでもらえるなんて嬉しいな~」
真夏だというのに長袖のシャツを羽織り、両手をズボンのポケットに突っ込みながらこちらへやってくるのは隣のクラスの戌井だった。
背中を逸らしている姿はどこか尊大だ。
「戌井君、この辺りに住んでるの?」
「んーん、もっと駅のほう」
「そう」
「あれ、なんでここにいるか聞いてくれないんだ?」
対峙した戌井はわざとらしく首を傾げてみせる。
麗香はその仕草に覚えた不快感を隠すことなく、つっけんどんに答えた。
「別にあなたがどこにいようが興味ない」
「冷たいな~。氷見咲さんってほんと翔太以外への対応全然違うよな」
「何か問題ある?」
「いや、いいんだけどさ。今日もあれだろ? これから翔太の家行くんじゃない?」
「……そう、だけど」
言い当てられた麗香は、町の者がそれを前にすれば泡を吹いてしまう程の冷ややかな視線を戌井に向けた。
しかし目の前の男は一切臆することなく、むしろしたり顔で麗香を見つめている。
「だと思ったよ。俺はさ、忠告に来てあげたんだよね」
「忠告?」
不穏な響きに麗香は眉をしかめた。
「そうそう。あいつ今体調悪いからさ、今日はやめといたほうがいいと思うよ」
「なんでそんなことあなたに……」
「いや、俺これでも翔太の友達だからね?」
「それ」
「ん?」
「その友達っていうの、本気なの?」
「言ってる意味がわからないなー?」
「私の力目当てでこの町に来たあなたが、古橋君とつるんでいる理由がわからないって言ってるの」
にやにやと笑っていた戌井の口の端が、更に高くつり上がった。
♢♢♢♢♢♢
昔々。
この町がまだ小さな集落だった頃、それは現れたという。
「私をお前様の女房にしてはくれまいか」
雪のように白い肌を持つその女は、村に暮らすチョウベイという男の家にやってきて自分を妻にしてほしいと頼んだそうだ。
独り身だったチョウベイは「こんなに美しい女は見たことがない」と女の申し出を喜んで受けた。
そして月日は流れ、夫婦となった二人の間に子供が産まれた丁度その頃、村に恐ろしい病が流行った。
その病は罹ったが最後回復する者はおらず、幾日、酷い時には数週間も熱に侵され、水を飲む事すら耐えられない程の全身の痛みに苦しみながらただ死を待つ他なかったそうだ。
中には家族がこれ以上苦しむのを見ていられない、と自身で病人に手にかける者も少なくなく、もうこの村も長くないだろうと誰もが思っていたという。
そんなある日、この流行病に罹った老婆のいる家に女が訪ねてきた。
「おひや」と名乗ったその女は、チョウベイの妻であった。
「私ならこのお婆を楽にしてやれるが、どうする」
おひやの言葉に家族は驚いた。
今日明日にでも我々の手で楽にしてやるべきではないかと話をしていたからだ。
その後どのような話し合いが行われたのかは不明だ。
しかしその日の夜、老婆は息を引き取った。
流行病で命を落とした者は目も当てられない程凄惨な状態になるのが常にも関わらず、老婆のそれは同じ病で命を落としたとは思えぬ程に安らかなものだったそうだ。
おひやが死を前にした病人に癒しを与えてくれる、という噂はすぐに広まった。
チョウベイの家には彼女の癒しを願う者が次々と訪れ、おひやはその頼みを一つとして断ることはなかったという。
そうしていつしかおひやは村人達から尊敬と畏怖を込めた「おひやし様」と呼ばれるようになった。
それがこの氷見咲家の始まりだ。
おひやし様の不思議な力は数百年経った現在、私の身体にまで受け継がれ続けている。
でも受け継がれたのはそれだけじゃない。
私に向けられる「人ならざる者」という蔑みにも似た視線や、ご臨終を迎えた人を氷漬けにした時の狂信めいたあの様子。
それは時が経ち村が町に変化していった今も、昔からきっと変わっていないのだろう。
産まれた時から定められた、私の冷たくて薄暗いこの世界。
「この町が世界の全てじゃないんだよ」
小学生になるまで家の敷地から出た事がなかった私は同じ年頃の子供達との接し方がわからず、長い事一人だった。
せめて姉ともう少し交流があれば違ったのかもしれない。
でも、私よりずっと力の強い姉はいつも大人に囲まれていて「一緒に遊ぼう」なんて言えるような環境ではなかったのだ。
人付き合いが苦手で、そのうえ人ならざる力を持っている、そんな私と友達になりたいと言ってくれたあの子。
桜の花が舞う季節にやってきて、その葉が全て落ちる頃に去っていった私の大切な友達。
ユウのせいじゃないのに、彼女は最後まで私がクラスメイトに力を使ったことを悔やんでいた。
「私はこの町を出て行くけど、麗香に知らない世界を教えてあげられるのは私だけじゃない。きっとまた他の誰かが麗香にたくさんの事を教えてくれるよ、それこそ、ほら、恋愛とかさ」
古橋君が私に付き合って欲しいと告白した時、頭によぎったのはユウの言葉だった。
恋。
まだ覚えたことのない感情。
古橋君の事は告白される前から知っていた。
外から来る人間には警戒するようにと母から言われていたから。
この力を良くない事に利用しようとする人間が外からやってくる可能性があるから気をつけないといけないのだそうだ。
彼と一緒にいる戌井という男はその様子から明らかに私の力の事を知っている人間でわかりやすかった。
けれど、彼、古橋君は。
ある時を境にやたら彼からの視線を感じるようになったとは思っていた。
私はてっきりこの力が関係していると思い込んでいたので、あの日、彼が屋上に現れた時には最悪力を行使する事になるかもしれないと覚悟していたのだ。
それなのに、出た言葉はまるで私の予想とは違うものだった。
「好きです。付き合って下さい」
異性から好意を寄せられるなんて初めてのことで、まさかそんな事を言われるなんて思いもよらなかった私は油断させる為の嘘なのかと、ただ困惑した。
本当に?
どうして私なんかを?
私は動揺しているのを気取られないようにわざと尊大な態度を取って、理由を聞き出した。
彼は見るからに緊張した面持ちで一目惚れだということやクールな人間が好みなのだと話し、彼のその答えに私は「もしそれが本当だとしてももう少し上手い返しがあるだろう」と自分はろくに他人と会話もしないくせに酷く可笑しくなってしまった。
あんなに大声で笑ったことなんてユウがいた時にもなかった。
今思えば、私はもうこの時に彼の事を好きになっていたんだと思う。
久しぶりに会ったユウにその話をしたら、あの子は「チョロすぎ」って笑っていた。
♢♢♢♢♢♢
隣家が隣家と言えるほどの距離にない、この家だけが他から随分と離れた所に建つ一軒家。
麗香は『古橋』と石で彫られた表札を何度も何度も確認し、大きく息を吸ってインターホンを鳴らした。
会話をする為のスピーカーからはピンポーンと少しこもった音が鳴ったが、いつまで経っても返事も、誰かが出てくる気配もない。
そもそも誰かが在宅していれば少しは漏れてくるはずの家の灯りがまるで見えないことに気付き、麗香はその場で固まった。
──出かけてる?
居留守を使われているかもという考えなどまるで思いつかず、どうしたものかと家を見上げた。
すると。
二階の部屋の窓ガラスに一瞬光るものが見えた。
麗香は目を凝らしてそれを見定める。
金色に光る二つの小さな光。
それは紛れもない、目だった。
「逃げろ!!」
誰かが叫ぶ声が聞こえ、それと同時に窓ガラスが割れた。
ガラスの砕ける音が夜空に響き渡る。
月の光を反射したガラスの破片が星のように宙に煌めく。
麗香は何が起きているのかわからず、窓から何か大きなものが飛び出してきてもなお、その様を見つめる事しか出来ない。
「グルォォォォオオオオ!!!!」
耳を塞ぎたくなる程の声、否、咆哮だった。
それはあっという間に地上に降り立つと四つん這いで麗香のほうへ走ってくる。
全身が毛に覆われた獣のようだが、手足が異常に長く体躯は人間に近い。
さっき窓から見えていた金色の瞳が爛々と輝きながら麗香を見据えていた。
「……古橋君?」
どうしてそう思ったのかはわからない。
麗香は翔太の目の色を覚えていなかったが、金色の瞳でなかったことは確かだ。
そもそも彼女の知っている翔太は人間で、今、獲物を狙い定めて走ってくる狼のような顔付きの何かとはまるで違う。
「っ!!」
獣は右の前足で麗香の首を掴むと立ち上がり、そのまま彼女を月に掲げる様に持ち上げた。
彼女の華奢な首に鋭い爪が食い込み、今にも血が吹き出しそうだ。
麗香は逃れようと足をばたつかせるが、爪が食い込むばかりでむしろ逆効果になっている。
獣の荒い息遣いと麗香の声にならない声が混じる。
ふと、それまで暴れていた麗香の動きが止まった。
そしてそれから程なくして獣が彼女を振り回すような素振りを見せる。
「縛れ」
囁くような声だった。
その声を合図に獣の足から蛇のようにうねる影がいくつも現れ、それはあっという間に獣の動きを抑えた。
しかし前足は麗香の首をまだ掴んだままだ。
「だからやめとけって言ったのに」
麗香は現れたその男──戌井に向けて、獣に持ち上げられたまま強く睨みつけた。
「余計、な、お世話っ」
「そう睨むなよー。それ、凍らせてんの? 翔太のやつ凍傷になるんじゃねーの。その手、首から無理矢理引き剥がして平気か? パキッといったりしない?」
「…………っ、このくらい自分で何とかするわよっ」
その言葉通り、麗香は首を大きく動かすと戌井の手を借りることなく獣の足から逃れた。
が、自分がそんなに高い場所にいると思っていなかったのか、そのまま着地に失敗した麗香の短い悲鳴があがる。
優に二メートルはありそうな獣に掲げられていたのだ、かなり痛いだろう。
「何とかなったな?」
「うるさい」
戌井に声を掛けられた麗香は尻餅をついたまま、普段は翔太に対して使わないきつい言葉を使う。
「戌のくせに蛇なのね」
「それなー。よく言われるんだけど、母方なんだよ、これ」
「……それで?」
「ん?」
「あなたは何を知ってるの」
「なんで俺がそんなこと教えなきゃいけないわけ?」
「…………」
一触即発。
途端、空気が張り詰める。
「嘘嘘。氷見咲さんいっつも俺に冷たいからちょっと意地悪しただけだって」
「当たり前でしょ、あなたが私の力を……」
「それ」
「え?」
「俺は別に氷見咲さんの力目当てでこの町にいるわけじゃないよ」
「うそ」
「だから嘘じゃないって。まぁ確かにおひやし様っていうのに興味はあるけどさ」
「じゃあ何の為にこの町に来たの? ここは高校生がわざわざ一人暮らしをしてまで暮らすような町じゃないでしょ」
「そんな事まで知ってるんだ。調べたの? 翔太に聞いた? まあどっちでもいいか。俺の仕事はマジで氷見咲さんとこと無関係なんだよ。俺がここに来た理由はさ、こいつ」
戌井がくい、と顎で示した先に、体の自由を奪われたまま二人を見据える金色の光があった。
♢♢♢♢♢♢
それは何の前触れもなく訪れた。
中3の夏、そうだ、あれも今日のような夏の夜だった。
「そんなの聞いてないわ! 私からあんな、あんなのが産まれたなんて! そんなはずがない! あれは私の子じゃないわ!!」
母は精神を病み、初めて僕の変身を目にした日から一度も言葉を交わす事なく家を去った。
父の血。とはいえもう何代も起こっていなかった能力の発露なのだと祖父は教えてくれた。
満月の夜に月を目にすると獣の様な姿に変身する。
所謂、狼男というやつだ。
あれって海外に限った話じゃなかったんだ、とこちらに憐れみの目を向けながら話す祖父の話を聞きながら僕は思った。
この身に起こった事は間違いないのに、あまりにも突飛すぎてまるで実感が起きなかった。
「良い転職先が見つかったんだ。家も今みたいに近所を気にしなくていい場所で暮らせそうでな。まあ、お前さえ良ければなんだが……」
この体質になってからというもの、満月が近づくにつれて感情の起伏が激しくなるようになった。
せめて厄介事は満月の日だけであれば良いのにこの苛立ちはなかなかに面倒だった。
今でこそストレスの溜まりそうな日はあらかじめ学校を休んだりして上手くコントロール出来るようにはなってきたが、初めは学校で大暴れしたりしてそれはもう大変だった。
学校も周りのクラスメイト達も親の離婚や受験のストレスだと思っていたことだろう。
少なくとも狼男になる前兆だなんてお伽話のようなことを考えた人はいなかったはずだ。
僕は高校受験どころか家を出ることさえままならなくなり、このままでは良くないとわかっているけれど部屋から出られない、そんな状態が続いた。
父にも相当心配をかけたはずだ。
そして、その解決策として父が提案してきたのがこの町への移住だった。
「心機一転って言ったってさ、そんな簡単にいくわけないし。正直また引きこもりかなって思ったんだよ」
この町に引っ越して感情のコントロールが上手くいくようになっても、しばらくは学校に行く勇気がなかった。
ようやく転入しても結局クラスメイトからの余所者扱いはすごかったし、友達になろうとしてくれている戌井君には悪いけどもう学校やめようかな……。
そう思いながら廊下を歩いていた、その時だった。
開いたドアの向こうに見えた、目を見張る光景。
天女だと思った。
各々がグループに分かれ世間話で盛り上がっている中、窓際で一人読書をする彼女は明らかに周りと住む世界が違っていた。
もっと彼女を見ていたい。
狼男がいるんだったら天女がいたっておかしくないはずだ、そう思った僕の勘は当たらずしも遠からずだったと思う。
「僕が学校に通えていたのは、氷見咲さんのお陰だったんだよ」
口の構造が変わったまま話すのはだいぶ難儀な事で、不明瞭な音も多かったはずだ。
でも氷見咲さんも雄大も、僕の話を遮る事なく最後まで聞いてくれた。
「氷見咲さん、僕、…………」
「なに?」
「こんな僕なんかが、君の隣にいるなんて相応しくないってわかってたのに、ずっと隠してて「良かった」
「?」
「私、古橋君まで、あ、戌井君も違ったんだっけ?、とにかく、古橋君が私の力目当てなんじゃないってわかって安心したの」
「でもこんな姿、驚いたんじゃない?」
「それは勿論驚くに決まってるでしょ。でもそれだけ。前に古橋君言ってたよね、誰にでも秘密くらいあるって。だからその秘密がなんなのかわかって嬉しい」
「……ありがとう」
「それに、私の秘密はまだ他にもたくさんあるし」
「え、そ、そうなの」
「うん。私も古橋君みたいに『知られたら怖がられるんじゃないか』って不安で隠してることはあるよ」
「そっか……」
「でも、少しずつ知っていけば良いって言ったのは古橋君のほうじゃない。お互いに、ね?」
──お互いに
初めて一緒にお昼ご飯を食べた日の台詞だ。
「あのお、すいませーん」
ちょっといい感じの雰囲気に割って入る、いつもの声。
声がかかるまで、今完全に僕の中で雄大の存在は消えていた。
「……なんだよ」
睨みを利かせる僕の目はたぶん普段の何倍も鋭い。
わざとではなのだけれど、喉の奥からグルル、と唸り声まで漏れてしまった。
「そんな怖い顔すんなって。もう拘束も解いてやったろ?」
「え? あ、本当だ」
煙のように実体が掴めないのに、この獣の体で力を入れてもびくともしなかった謎の紐。
いや、ゆるゆると動いていたので生き物だったのかもしれない。
それがいつの間にか消えていた。
「なんか秘密の告白大会になってるみたいだから俺も打ち明けていいっすか?」
「よくないけど」
「なんでいいと思うんだよ?」
はいっ! とまだ恥じらいのない小学生のように真っ直ぐ挙手をした雄大に、非難の嵐。
「実は俺、「いや聞いてないから」
どんなに冷たくしても止める気はないらしい。
「こう見えて28歳なんだよね♡」
「…………マジ?」
想定外の角度からやってきた告白に、たぶん雄大が期待した通りのリアクションをしてしまった自分が悔しい。
手でハートマークを作ってポーズを取る雄大を殴りたい衝動に駆られたが、何とか堪える。
「マジマジ。どう見ても高校生にしか見えないっしょ? 童顔なんだよね、俺。だからこの手の仕事ばっかり回ってくるんだよ」
「………………僕に近づいたのも仕事だったのか」
「まあな。でもお前の事はちゃんと友達だと思ってるぜ? お前なかなか転入して来なかったからさぁ、待ってる間のボッチ期間はすっげー寂しかったし。にしても、まさか妖返りのお前らがくっつくとは友達の俺にも予想外だったよ」
「で? 俺はこうして変身して外に出て、氷見咲さんを傷つけようとしたわけだし、お前の仕事で成敗されたりするわけ?」
グッと膝に力を入れる。
別に何かの体術を習っていたわけではない。
この体になっているからといって、たぶん雄大に敵うはずもないが、危害を加えられるというのであれば僕は抵抗せざるをえないだろう。
「ん? ああ、ないない。今日の事も、まあ家の窓は壊してるけど自分の家だしな。氷見咲さんも、別に何もなかったよな?」
「えっ? ……あ、うん。そう、別に私も何もされてない」
水を向けられた氷見咲さんは、雄大の意図をくみ取って大きく頷いた。
「でも、」
それは嘘だ。
夜目の利く今の目には彼女の華奢な首に小さなひっかき傷が出来ているのが見える。
意識が戻ったのは雄大に縛り上げられてからだけど、彼女のその傷が何を意味しているかは明らかだ。
「氷見咲さんもああ言ってるんだからそういうことにしとけって。今夜はちょっと狼が騒いでたみたいだけど、被害も怪我人もなし。上に報告もなし。以上!」
雄大はそう言うと手をパンパンと叩き、話を強引に切り上げた。
「じゃあもう行っていいよ、戌井君」
「切り替え早くない!? 俺、邪魔!?」
「ふうん、カップルの邪魔してるっていう自覚はあったんだ?」
「ひ、氷見咲さん……」
確かに雄大は邪魔なんだけど、でも今日は色々助けてもらったのも事実だ。
もう少し手心を……ん?
今、『カップル』って言った??
「氷見咲さん、今、カップルって」
「? あっ。……ごめんなさい。古橋君はもう、そんな風に思ってなかった、よね」
「いやっ、違、違う違う! 僕のほうこそ、ずっとメッセージ無視してて、本当にごめん。その、今の状態で何しでかすかわからなかったから、見ないようにしてて……」
「うん。理由はわかったよ」
「もし、氷見咲さんがいいって言ってくれるなら、今度こないだの話の続きをしよう。きちんと聞くから」
「そうだね、メッセージだけじゃ伝わらないこともあるもんね」
いつもより背の高い僕を見上げ、氷見咲さんは少し泣きそうな顔で笑った。
「なあ、俺まだいるって気付いてる?」
「あ、そういえばプレゼント……、無事かな?」
雄大を無視して氷見咲さんは肩に掛けていたバッグを漁りだし、全く相手にされず恨めしそうな目で見つめられた僕もノリで視線を逸らす。
「翔太、お前まで! 俺はお前をそんな風に育てた覚えは「げええーーーー!! 翔太!? お前っ! 外っ!! あっ、女の子!? 知り合いか!? とにかく中入れ、中!!!! 誰かに見られたらどうするんだ!!」
…………父だ。
僕の姿と今の状況に混乱しながら駆け寄ってくる。
それにしても父親面するギャグをかましていたら本物の父親が登場するという間の悪さはさすが雄大というべきか。
「あっ、戌井君! この状況は……」
「どーも、翔太のお父さん。翔太は大丈夫です。窓ガラスは割れましたけど、まあその程度なんで」
「窓ガラス……あぁっ、翔太お前、家壊すなって言っただろー!?」
「まあまあ」
騒ぐ父を雄大に任せて、僕は氷見咲さんと二人で会話を続ける。
この二人に面識があるのは知らなかったが、ひょっとしたら僕の知らないところでずっと前から繋がっていたのかもしれない。
「氷見咲さんごめん、あのうるさいの、俺の親なんだけど。こんな早く帰ってくるはずじゃなかったんだけどなあ。どうする? 今日はもう帰る?」
「うん。じゃあ、はい、これ」
差し出された小箱を受け取ろうと出しかけた自分の手が人のそれではないことに気付き、僕は思わず動きを止める。
けれど彼女は僕のこの手に躊躇うことなく触れ、毛むくじゃらの手の平にそれを乗せてくれた。
「あ、ありがとう。開けていい?」
「だめ。あとで一人で開けて」
「そっか。そうするよ」
「じゃあ、また明日」
「一人で大丈夫?」
「平気。私、こう見えて強いから」
にやり、とあまり見せないいたずらっぽい顔で笑った後、おやすみなさい、と最後に付け加えて去って行く彼女を見つめていると、僕の両サイドからにゅっと顔が出てきた。
「あの子が翔太の彼女か。美人だな」
「でも翔太以外にめっちゃ冷たいんすよ」
「あれだろ? 翔太と同じで何か力があるって」
「おひやし様って、要は雪女みたいな感じっすね。でも外でその話あんまりしないほうがいいですよ」
「…………っ、うるさいな!!!! 先に中入ってろよ、もう!」
「はいはい。お前も早く中入るんだぞ」
「そんな怒るなって~」
二人が騒がしく家に入るのを確認して振り返るともう彼女の姿はなかった。
少し寂しかったが氷見咲さんらしい。
手にした箱を軽く振ってみると、中からコトン、と音が鳴った。
♢♢♢♢♢♢
僕の誕生日以来、氷見咲さんは外出……特に、町の外に積極的に出かけるようになった。
後から聞いた話だけれど、彼女はあの日家族に内緒で家を出てきたらしい。
いくらおひやし様の力があるからといって年頃の娘が夜に一人で出かけたなんてさぞかし親も心配したことだろう。
彼女の無断外出を契機に家で話し合いが行われた結果、多少の自由が許されるようになったそうだ。
──家はお姉ちゃんが継ぐんだから、そもそも私のことはそんなに重要じゃなかったんだよ
そう言った彼女の横顔が少し寂しそうに見えたのが、僕の思い過ごしなら良いと思った。
「はー。俺も彼女欲しいなー」
「作ればいいじゃん」
「おっ、お前俺の実年齢わかっててそういうこと仰る? 周りにいるの女子高生ばっかりのこの環境で? 三十近い男が女子高生に手ェ出すとか許されると思ってる?」
「いや、う、うーーん。確かに」
学校生活は相変わらずだ。
雄大もあれから変わることなく毎日僕と一緒に男子高校生をやっている。
「古橋君、今大丈夫?」
いや、変わったこともある。
「勿論! どうかした?」
昼休み以外ほとんど会うことのなかった氷見咲さんが、事あるごとに僕の元に来てくれるようになったのだ。
「冬休み、ユウが自分のとこに会いに来ないかって。古橋君も一緒に。……どうかな?」
ゆう。
僕らに、結果的に色々なきっかけを与えてくれた人。
相変わらずその人の話をする時の彼女の笑顔と言ったら堪らない。
「いいよ。あ、勿論、日にちによるんだけど……」
「本当に? 無理してない?」
「してないしてない。大丈夫だよ。僕も一度会ってみたいって思ってたんだ」
氷見咲さんの初めての友達で、いまだに僕以上に彼女を笑顔にさせてしまうライバル。
一体どんな人物なのだろう。
「えー。それ、外出るってこと? 俺も行かないとダメなやつじゃん。年末年始はやめてね」
「別に来てって頼んでないけど」
「俺だって仕事じゃなきゃカップルのデートにくっついてったりしねーよ!」
「本当は冬休みも一緒にいる相手がいなくて寂しいから私たちと出掛けたいんでしょ?」
「出た〜自意識過剰〜」
以前は本当に仲が悪いようにみえた二人だけど、今はなんというか、軽口を叩く悪友のような、そんな関係に見える。
氷見咲さんにそういう相手ができたのは、たぶん良い事だと思う。
「氷見咲さん」
僕が呼びかけると、彼女が微笑んだ。
「なあに?」
「冬休み、楽しみだね」
「うん」
冷たい彼女が笑うから。
僕の今のところの人生は、プラスマイナスプラスプラス。
素晴らしくハッピーだ。