第二話 吉宗の手入れ
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鍵を鍵穴から引き抜くと、陸王はすぐに腰から吉宗を外した。そして鍵をポケットにしまいながら、もう片方の手で光の球を顕す。それから寝台へと行き、どかっと乱暴に腰を下ろす。
室内には卓と椅子一脚、洗面器と水の入った水差しが置かれている洗顔台に寝台があるだけだ。実に味気のない狭い一人部屋だが、大体これが普通だった。宿の中には、卓と椅子がないところもある。そんな宿の部屋はここより更に狭かった。
陸王は座ったまま、枕元に置かれていたさほど大きくもない荷物を探る。その中には本当に必要最低限のものしか入れていなかった。保存食と水袋、顔を洗ったあとに使う手拭いに火口箱と刀を手入れする道具だ。
陸王は光の玉を宙に浮かせて、部屋全体を照らし出す。
その明かりのもとで、吉宗の刃を鞘から引き抜いた。陸王は刀身をじっくりと見つめたが、刃には曇り一つなく光を照り返している。それを確かめながら、荷物の中から目釘抜きを取り出して、目釘の部分をとんとんと叩いてから目釘抜きの先端で目釘を押し出した。目釘を抜くと、今度は柄を握ったその手首をとんとんと叩いて刀身を浮かせていく。柄から引き抜いた刀身から鎺と鍔が落ちないよう茎の方を高くして先に柄を置き、そのあと刀身を寝台の上に置く。そして、竹で出来た目釘をなくさないよう、柄に開いている目釘穴に通した。
それまでの一連の動作は滑らかに、それでいて、慎重に運ばれていた。それは慣れた作業だが、陸王はいつも心のどこかで緊張していた。
吉宗が神剣だからと言うわけではない。いや、それも関係しているが、それよりも刀を扱う上ではいつも慎重にならざるを得なかった。
日ノ本でも、大陸に渡ってきてからも、これまで陸王の生命を繋いでくれたのは刀だからだ。
だから刀に対しては、それを手にした子供の頃から畏敬の念があった。
神剣である吉宗ならば、尚、その思いは強くなる。
陸王は寝台に置いた刀身を手に持ち、茎から鍔と鎺を取り外した。そうしてから懐紙を揉んで柔らかくしておく。
と、その時、物音がした。微かに、かちりと金属音が。
反射的に陸王は扉へ目を向けた。と、同時に、鍵をかけたはずの扉が開く。
「陸王! なんで入れてくんないのさ!」
扉を開いて中に入ってきたのは雷韋だった。しかもこれ以上もないくらい堂々としている。やましいことは何もないといった風に。
だが、実はやましいことだらけだ。鍵開け道具で勝手に解錠して、怒鳴り込んできたのだから。
その身勝手さに陸王は言葉もなかった。何を勝手なことをしている、と言った風に非難の目で雷韋を見るだけだ。
けれど雷韋は陸王の非難の目など目に入らずといった態で、ばらばらに分解された吉宗に目を向けた。
「な、何してんだ!? なんで吉宗がばらばらになってんのさ!?」
刀の構造を知らない雷韋だからこそ、その有様に驚くほか法はなかった。
慌てて駆け寄ろうとする雷韋に、
「扉くらい閉めろ」
半ば不機嫌そうに言い遣る。
「あ、うん」
雷韋は気圧された風に扉を閉めた。それでもちらちらと分解された吉宗に目を遣っている。
「雷韋、こいつで鍵かけとけ」
そう言って、陸王は鍵を雷韋の方へ放った。
雷韋は鍵を受け取りはしたものの、怪訝な顔をしている。扉の前で複雑な表情をしている雷韋だったが、「早くかけろ」と陸王に促されて、そこでやっと鍵をかけた。そうして振り返ると、雷韋は陸王に声をかける。
「なぁ、なんで吉宗がばらばらなのさ。何してんだ?」
問う声は、恐る恐ると言った声音だった。
「手入れしてんだ。だから鍵をかけた」
そこで雷韋は軽く首を傾げる。何故か分からないのだろう。
それを見て取り、
「得物がない状態で賊に侵入されるのは困るからだ。宿とは言え、何があるか分からん。実際、お前は鍵を開けて入ってきただろうが」
言って、顔を顰めた。
「あー……。でも俺は賊じゃないぞ」
そう言って、胸を張る。
「無断で鍵を開けて入ってきたおいて、何が賊じゃねぇんだ」
「それはぁ……だって、あんたが俺のこと相手にしてくんないから、つい。出来心だよ」
言い訳らしい言い訳を聞いて、陸王は嘆息をついた。
「俺は吉宗の手入れがしたかったから早く部屋に戻りたかったんだ。飯に最後まで付き合っただけましだと思え」
言いながら、陸王は懐紙で茎を挟むと刀身を持ち上げた。
吉宗は神剣と言われているだけあって、何があっても刃毀れしないし曇らない。当然錆びも浮かばず、これまで人を散々に切ってきて血を吸い尽くしている茎も腐っていなかった。
雷韋は陸王の手元を見つめながら、
「なぁ、俺、ここで見ててもいいか?」
自然と、そう問いかける。
「入ってきちまった以上、見るなとも言えんだろう。鍵もかけさせたしな」
陸王は揉んだ懐紙で刀身を挟み、茎の方から切っ先へ向けてゆっくりと油を拭っていく。それは下拭いと呼ばれる所作だった。
雷韋は陸王の所作から目を離さないまま、椅子の背凭れを抱き込むようにして腰掛けた。そうして、改めてじっと見つめる。
その頃には刀身からすっかり油を拭い取っていた陸王は、次に打粉を使っていた。その打粉も、下から切っ先に向かってぽんぽんと軽く打っている。
だが雷韋にはそれがなんなのか分からなかった。何をしているのかも、打粉の名称すら知らない。雷韋からすればそれは、細い棒の先端に丸く布が被さっている『何か』だ。
「陸王、それ何してんだ?」
「打粉を打っている」
「『うちこ』ってなんだ?」
「砥の粉だ」
「『とのこ』って何さ」
「煩ぇな」
舌打ち混じりに陸王は刀身から雷韋に目を向ける。打粉を打つのも中断してしまった。
「煩いってもさぁ、俺には何がなんだか分かんねぇんだもん。取り敢えず『とのこ』って何さ」
「一口で言えば、石の粉だ。こいつで刀身を磨き上げる。分かったか?」
そう言って、雷韋の言葉が返る前に再び手を動かし始めた。
「なぁ、日ノ本の剣ってさぁ、いや、吉宗がかなぁ? そんなにばらばらになるもんなのか? そんなんにして元に戻せるのか? そんなにしちまって、どうやって敵が切れるんだよ」
だが、陸王は答えずに刀身に見入っている。
陸王が答えてくれなかったせいか、雷韋も無言で刀身に見入った。打粉が刀身の表面を覆いつつも、それは本当にうっすらとしたものだった。
陸王は光に翳して、刀身の状態を確かめる。とは言っても、異常はないはずだ。汚れていなければ、曇ってもいない。錆が浮いているわけでもなかった。
本当に綺麗な刀身だった。
そうして異常がないことを確かめてから、陸王は揉んであった懐紙で打粉を拭い始める。根元の方から切っ先の方へと向けて。下拭いの逆で、これは上拭いと呼ばれる所作だ。
そうして刀身から完全に打粉を拭い去ると、それを膝の上に寝かせて今度は小さな水袋と布の切れ端のようなものを荷物の中から取り出す。
「陸王、その小さい水袋、なんだ?」
「水袋じゃねぇ。油袋だ。中には丁子油が入っている」
言いながら、袋の口から栓を抜き取って、ほんの少し布に染み込ませていく。
「『ちょうじ油』ってなんだよ? 何に使うんだ?」
「刀の刀身に薄く塗る。茎にもな。空気が直接鉄に接しないようにする為だ。鉄が直接空気に触れると、そこから錆びていくからな。ま、実際には神剣である吉宗には必要ないんだが、こいつは習いだ。初めて刀を手にしたときに言われた。できる限り、刀の手入れはしておけと。いつ使うことになるか知れねぇからな」
そう言うと、油の染み込んだ布で刃を峰の方から挟み、すっと塗っていく。その動きに無駄な力も所作もなかった。刀身が終わると、懐紙で刀身の方を掴んで、茎にも油を塗った。