隠していた本心
翌日。今日から三日間仕事が休みだからと、クリストフ様はつきっきりで家事を教えてくれるそうだ。私のためというより、クリストフ様のためだろう。「早く楽をしたい」と言っていたから。
まず起きたら朝食の準備。机を拭いたり、食器を出すまでは簡単だった。問題はこの後だ。食材を洗って切って調理して盛り付ける。この作業が私には難しい。昨日の晩と同じようにクリストフ様がやってみて、その通りに私もやってみるのだけど、切れば大きさはまちまちだし、焼けば焼きすぎて焦げてしまう。
私が無理だと泣き言を言うたびに、クリストフ様は不機嫌になりながらも、練習しないと上達しないと言って突き放すのだ。教育係よりも厳しかった。
精神的にも肉体的にも疲れてヘロヘロになったところで、ようやく朝食にありつけた。
そして、朝食が終われば洗濯で、小さな庭の片隅にある洗い場へ向かった。本当は朝食前に洗って干しておく方がいいそうなのだけど、結構な重労働だから、私が朝食作りをしなくなる恐れがあるということで、順番を変えたのだとクリストフ様は言っていた。
洗濯は確かに重労働だった。今日は自分の服や下着、タオルだけで楽な方だと、クリストフ様は平気な顔でごしごしと洗濯板で洗っていた。その隣で、私も自分の服や下着、タオルを見よう見まねで洗う。私は食べ方が綺麗ではないので、服にソースがついてしまっていた。そこを集中してこすっても汚れはなかなか落ちない。ちらりとクリストフ様の手元に視線を落とすと、水の色が変わっていて、衣類の汚れが落ちているのがわかる。
「……クリストフ様。やって……」
「いやだ」
くださいと言う前に、はっきりと拒否されて思わず肩が落ちた。私は初めてやるんだから、もっと優しくしてくれてもいいのに。仕方なく黙々と汚れ落としに集中した。
それが終われば洗濯物を干す。これもまた厄介だった。クリストフ様に、洗濯物を落とすなと言われていたにもかかわらず、干す時に手が滑って落としてしまった。土まみれになった洗濯物を見下ろした後、クリストフ様を縋るように見上げると冷たい声で言われた。
「やり直せ」
気力の限界だった。やったこともないのにやれと言われ、ようやくできるかと思えばやり直し。じわりと涙が浮かぶ。
「……もう、嫌です! 私だってちゃんとやってます! 私の出来が悪いからって、こんな嫌がらせしなくてもいいじゃないですか……!」
土にまみれた洗濯物を拾い上げると、地面に叩きつけた。どうせもう汚れているのだ。何も変わりはしない。
すると、クリストフ様の顔色が変わった。眉を吊り上げ、私を睨みつける。
「お前は……! 俺がただ、お前に嫌がらせをするためだけに言っているとでも思っているのか? 汚れたまま干せば着れなくなる。だから俺はやり直せと言ったんだ。それにお前は拾い上げた洗濯物を叩きつけた。その洗濯物だって、職人が心を込めて作ったものだ。お前はそんな人の心まで踏み躙ったんだ。物を粗末にするな!」
「……そんなの、そんなの知りません! だって誰も教えてくれなかったもの! お母様は何もしなくても、できなくてもいいって言ったもの……!」
「──そうか。それなら勝手にしろ」
泣きじゃくる私を突き放すような冷たい声音。クリストフ様は言うなり手早く自分の洗濯物を干すとさっさと家の中に戻った。私は涙が涸れるまでその場で泣いていた。そうすれば、これまではお母様かメイドか侍女が急いで駆けつけてくれていたからだ。だけど、どんなに泣いても誰も来ない。クリストフ様だってそうだ。
打ちひしがれながらも、自分が叩きつけた洗濯物を見下ろした。そして、クリストフ様の言ったことを思い出す。
──お前はそんな人の心まで踏み躙ったんだ。
作った人の気持ちまではわからない。
だけど、土にまみれて汚れてしまった洗濯物が、自分に見えた。出来のいいお兄様とお姉様に比べて、出来損ないの末娘。政略の駒にもなれないくらいに出来が悪いとお兄様に嘆かれて、捨て置かれた。それでいいのだというお母様の言葉に縋ることで楽になりたかったのに。
自分と重ねると拾わずにはいられなかった。拾い上げた洗濯物を見ながら、言葉がこぼれた。
「……ごめんなさい」
ぐいっと拳で涙を拭くと、また洗い場へ戻った。一生懸命に汚れを落とすことに集中する。汚れが落ちるたびに、自分の中に根付いていた嫌な気持ちが消えていくような気がした。完全に綺麗になったのを確認すると、また干し場へ戻る。その洗濯物で終わりだった。全て干し終わった洗濯物を見て、笑みがこぼれた。
青い空に、汚れを綺麗に落とした白いタオルが映える。明るい日差しは温かく、新緑の匂いを運んでくる風が疲れた心を癒やしてくれた。そうすると自分がやったことがじわじわと心を苛む。
「……クリストフ様に、謝らないと」
これまで以上にクリストフ様は怒っていたように思う。いえ、もしかしたらこれまでは呆れていただけなのかもしれない。
あれは完全に八つ当たりだった。うまくいかないからと、クリストフ様の気持ちを決めつけて。許してもらえなくても精一杯謝ろう。私は急いで家に戻り、クリストフ様に頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
「……」
クリストフ様の答えはない。怒って口も聞きたくないのかと、頭を下げたまま目を瞑る。少しして、疲れたようなため息が聞こえ、私は体を震わせた。
「……それは何に対する謝罪なんだ?」
「クリストフ様が嫌がらせをしていると決めつけたこと、洗濯物を叩きつけたことです……」
「俺が言ったことは理解できたのか?」
理解できた、と嘘をつくのは簡単だ。でも、それではクリストフ様をまた怒らせることになるだろうことはわかっていた。恐る恐る顔を上げて、首を左右に振る。途端に表情が険しくなるクリストフ様に気圧されそうになるけれど、しっかり伝えたい。深呼吸をしてゆっくりと言葉を紡ぐ。
「私には、職人さんがどんな気持ちで作っているのかわかりません。ただ、打ち捨てられた洗濯物が自分みたいに思えたんです。誰にも期待されずに、ただそこにあるだけ。私は誰かに期待されたかったんです……」
クリストフ様はしばらく沈黙した後、口を開いた。
「……それなら他人任せにするのはやめた方がいい。期待されるということはそれだけの責任を負うということだ。お母様が言った、お母様の言う通りにすればいい、なんて言っている間は、少なくとも俺はお前に期待できない。お前自身を見て欲しければ、それに見合うだけの人間になれ」
クリストフ様の言葉を聞きながら悲しくなった。やっぱり難しくて私には理解しきれないのだ。私は目を伏せて、クリストフ様の視線から逃げることしかできなかった。
理解していない私を怒るかと思ったけれど、クリストフ様はそれ以上何も言わなかった。