勇気が足りない
よろしくお願いします。
「……入るぞ」
ガチャリと扉が開いてお兄様が入ってきたようだ。だけど、私はただベッドの縁に座ってぼうっとしていた。お兄様の声は遠くて、自分だけが現実から切り離されているような、ふわふわとした感覚しかない。
ぎしりと更にベッドが沈む。お兄様が私の隣に腰をかけたからだ。それでも、やっぱりどこかお兄様を遠くに感じて、そちらを向けなかった。
「どうしたんだ? 夕飯も取らずに閉じこもっていると聞いた。母上に出るなと言われたのか?」
母上という言葉に思わず体が揺れた。お兄様は溜息を吐くと続けた。
「母上が何と言おうが、お前は自由だ。聞く必要なんてない……って、大丈夫か? 顔色が悪いぞ」
急にお兄様の顔が私の目前に迫って、顔を背けた。お兄様にこんなに穢れた自分を見られたくなかったから。
──私は生まれながらの罪人。償う相手も、償う方法もわからない。ただ、生きていることが罪の──
ただただ怖かった。私は生きていていいのかわからないし、そんな私にできることなんてないんじゃないか。
「……お母様は正しかった。私が間違っていました」
「は? お前、何を……」
「もう、いいんです。私はお母様の言う通りにします。お兄様、申し訳ないのですが、孤児院にもう行けないと連絡していただけますか?」
「……本気で、言ってるのか?」
お兄様の声は震えている。だけど私にはそれが何故だかわからない。そもそも私にはわかっていることなんてなかった。わかったつもりで何もわかっていなかっただけだ。混乱しているのか冷静なのかすらわからない。それがどこか滑稽で可笑しかった。
「本気? さあ、どうなんでしょうね……」
お兄様と目を合わせることなく薄らと笑う。するとお兄様は何を思ったのか私の肩を掴んだ。
「いやっ……!」
反射的にお兄様の手を振り払った。嫌だったのはお兄様に触られることじゃなくてお兄様を穢しそうだったからだけど、ようやく見たお兄様は傷ついているようだった。
「あ、も、うしわ、け……」
ありません、という言葉は私の口の中に残って、へばりついて離れなかった。途中で自信がなくなったのだ。また私は自分が間違えたんじゃないか、と。この謝罪さえも間違いだったらどうしよう。そんな不安が私の口をつぐませた。
お兄様ははっと目を見開くと、表情を緩めた。
「いや、いいんだ。急に触って驚かせて悪かったな。だが、孤児院の件は私は承知できない」
「そんな……」
「厳しいことを言うが、お前が始めたことだろう? それを急に辞めるから尻拭いをお願いします、とお前は言っているようなものだとわかっているのか? お前自身が直接孤児院に行って、納得のいく説明をして辞めるのが筋だろう」
お兄様の言うことはもっともだ。だけど、お母様がいう外に出ない方がいいという言葉ももっともだとすれば、私はどうすればいいのだろう。みんながみんな違うことを言ったら、何を信じればいいのかわからない。
「……だけどお母様は……」
「……またお母様、か。なあ、何があったのか、私にも話せないのか? 私のことがそんなにも信じられないか?」
「違います! そうじゃなくて……申し訳ありません。お兄様がというよりは私が……」
「私が、何だ?」
これ以上話せば言ってはいけないことまで言ってしまいそうで、私は口を引き結び、首を左右に降った。私とお母様が酷い人間だということをお兄様には知られたくない。お母様はお兄様の本当の母親だし、何よりもお兄様が私を見る目が変わってしまうことが怖かった。
しばらくお兄様と睨み合っていたけど、先に折れたのはお兄様だった。お兄様は溜息を吐くと立ち上がった。
「とにかく私は何もしないから。お前が無責任なことをしたくないと思うなら、母上に何を言われようが、自分の意思を貫け。わかったな」
それは一方的な通告だった。言うなり、お兄様は足早に部屋を後にした。残された私は一人、途方に暮れる。
私が何かをしようとすること自体が間違いだとしても、お兄様の言うことを聞けばいいのだろうか。それとも、やっぱりお母様の言う通り、何もしない方がいいのだろうか。そこに私の意思はあるのだろうか──。
──人形みたいだ。
そう私を評した人が頭に浮かんだ。ほんの短い間だけ結婚して一緒に暮らし、よく私が怒らせたのに、厳しくても相手の努力を否定しない人。クリストフ様が今の私を見たらきっと、言いなりになるな、と叱り飛ばすに違いない。
まだそれほど経っていないのに、懐かしい日々を思い出し、笑みが溢れた。そんな私の頬を温かな涙が流れ落ちていく。その度に、冷え切っていた心が暖かくなっていくようだった。
──そうだ。私は人形じゃない。
わかっていてもまだ、今の私にはまた新たに踏み出す勇気が足りない。罪を背負い、傷つきながら生きていく勇気も。だからこそ、「お母様の言う通りだ」と流されていくのだろう。その方が楽だと知っているから。
ここでもまたクリストフ様が「これだから甘やかされて育ってきた奴は」とでも言いそうだと、笑みが深まる。
それに、お兄様も。お兄様も私のことを思って言ってくれていた。それを感じられるくらいに、お兄様と過ごした日々も私のかけがえのない思い出になっている。
結局一晩中、お兄様とお母様、クリストフ様のことを考えていたのだった。
読んでいただき、ありがとうございました。




