困ることばかり
くるりと背を向けて家へ入っていくクリストフ様の背中を追い、中へ入ると玄関で上下左右を見回した。
二階建てとはいえ、玄関は吹き抜けではなく、玄関横に申し訳程度に階段があり、玄関から奥の部屋が見渡せるくらいの奥行きの広さ。外観通りだった。それでも初めて見る平民の家にきょろきょろと見回し過ぎて目が回る。上半身が傾いだ私に気づいたクリストフ様が、私の肩を支えてくれた。
「あまりの狭さに眩暈がするのか?」
「いえ、そうではなくて、こういった家は初めてなので面白くて」
「……面白い?」
「ええ。小さくて可愛いですね」
私としては褒めたつもりだった。だけど、クリストフ様の眉間に皺が寄って、自分が失敗したことに気づいた。
「……小さくて悪かったな。俺が甲斐性なしとでも言いたいのか? これでも精一杯仕事して、自分の金で手に入れたんだよ」
「え? そんなつもりでは……」
何を言っても結局クリストフ様を怒らせる気がして、そこで口をつぐんだ。黙った私を見て、クリストフ様は疲れたように重いため息をつく。
「……あなたの部屋に案内する。ついてきてくれ」
「はい」
クリストフ様はそのまま玄関横の階段を昇り始める。私もついていこうとして階段で躓いた。それもそのはず。私はまだ裾の長いウェディングドレスのまま。そのまま止まっていたら、クリストフ様が気づいてなんとかしてくれるかもしれない。そんな期待を込めて待っていたら、クリストフ様は階段を上がり切って私を見下ろした。
「早く上がってこい」
まったく動く様子のないクリストフ様に諦めた私は、長い裾をたくし上げて恐る恐る一歩踏み出した。その途端にギイと木が軋む音がして、背筋が冷たくなる。
実家は石造りで、階段には絨毯が敷かれていた。踵の高い靴で歩いても軋まなかったし、音もしなかったから、階段がこんなに怖いものだと思わなかった。それでも上で待ち構えているクリストフ様を追いかけるしかない。一歩一歩踏み締める度に音がして、落ちるのではないかと不安になる。上がり切ったときには変に疲れてしまった。結婚式よりも疲れたような気がする。
二階は手前と奥とに扉が二つ並んでいた。クリストフ様は「ここを使ってくれ」と奥側の扉を開いた。部屋は実家にある衣裳部屋くらいの広さしかない。二人が横たわったらいっぱいになりそうな小さなベッドと、そのベッドと同じくらいの幅しかないクローゼット、鏡台があるけれど、それだけでいっぱいいっぱいだ。思わずクリストフ様に尋ねてしまった。
「……ここは使用人部屋ですか?」
「使用人になりたいのならそうだろうな」
クリストフ様は右の口角を上げた。何が面白いのかと首を傾げてしまう。それよりも何よりも──。
「申し訳ありませんが、もっとわかりやすく話してもらえませんか? 何が言いたいのかわからなくて……」
私は確かに、使用人部屋か、と聞いたはずだ。それなら使用人部屋か、そうじゃないかで答えてくれないと。
「……この言い回しでもわからないのか。一体どういう生活を送ってくればここまで酷くなるんだ。どうして俺があなたの基準に合わせなければならないんだ? 少し考えればわかることだろう」
「え、だって、お母様は難しいことは考えなくてもいいって……」
私がそこまで言ったところで、クリストフ様は両手で自分の髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜた。
「……お母様、お母様、お母様! いい加減にしてくれ! あなたに自分の意志はないのか!」
その怒声に、私は体を震わせた。どんなに私が駄目な子でも、私に興味のないお父様も、優しいお母様も怒らなかった。お母様もそのままでいいと言ったのに。
「……だって、お母様が」
「っ、もういい! 聞いていて腹が立つ。俺はこれで失礼するから、着替えるなり休むなり好きにしてくれ! あなたの服はそのクローゼットに用意してある!」
クリストフ様は、だんだんと足を踏み鳴らしながら部屋を出て行こうとした。だけど、ここで置いていかれたら困る。焦った私はクリストフ様が着ている白い礼服の裾を掴んだ。
「待ってください……!」
「今度は何だ!」
「……一人でドレスを脱げなくて。手伝ってはもらえませんか? 侍女もいませんし」
「俺はあなたの使用人じゃない!」
「はい? わかっています。夫ですよね?」
何を当たり前のことを言っているのだろうか。私はそこまで馬鹿ではないつもりだけど。怒った様子のクリストフ様に、私は恐る恐る確認する。すると、クリストフ様は大きく口を開け、パクパクと開閉させた。それから分かりやすく肩を落として俯いた。
「……何を言っても無駄なのか。そのドレスは着脱が難しいのだろうから手伝うが、これからは自分で着替えるようにしてくれ……」
「え、でも……」
戸惑う私に、クリストフ様は一言一言言い含めるように告げる。
「いいか? 侍女やメイドを雇う金銭的な余裕はない。住み込みの使用人を住まわせる場所もない。全て自分たちでするしかないんだ。ついでに俺は騎士団の仕事が忙しい。自分のことは自分でやってくれ」
クリストフ様は私の背中側にあるボタンを外すと、部屋から出て行き、思い切り扉を閉めた。その勢いで家がビリビリと揺れた気がする。もうこれ以上は引き止めることも声をかけることも叶わないと、私は一人肩を落とした。