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「私」という個

 そうして孤児院での慈善活動が決まった。これはお父様にも許可を取り、お母様も従わざるを得なくなった──はずだった。


 だけど、領地にいるお母様からは手紙がくる。内容はといえば、どうして自分の言うことを聞かないのかということと、また自分を裏切るのかということばかり。私が反抗したことで、お母様は裏切られたと思っているのだろう。


 自分の生きる道を選ぶことが裏切りだと言うのなら、私は何も選べなくなる。私はお母様にそう返事を書くしかなかった。結局お母様の理解は得られないまま、フリューア男爵家の娘として、孤児院を訪問するのだった。


 ◇


「ようこそお越しくださいました、ロスヴィータ様。わたくしがこちらの院長のフェーベと申します」


 穏やかに微笑む黒衣を纏った高齢女性に戸惑って、隣にいる騎士服を纏ったクリストフ様を見上げた。最初の訪問ということで、場所の案内と紹介を兼ねてクリストフ様に連れてきてもらったのだ。クリストフ様は私が何に戸惑っているのかはわかってくれなかったようで、「ほら、挨拶を返せ」と顎をしゃくった。それを見たフェーベ様が嘆息した。


「……クリストフ。あなたはもっと相手に敬意を払いなさい。お相手は貴族のご令嬢なのですよ?」


 慌てて私は口を挟む。


「いえ、いいんです。クリストフ様は私の、夫、でしたし……」


 そうなのだ。お母様は、孤児院での慈善活動が決まるとすぐに離縁届を提出してしまったそうだ。いずれはそうなるとわかっていたものの、知らないうちにクリストフ様との縁を断ち切られていたことに腹が立った。それでも怒りをお母様にぶつけられず、黙って受け入れることしかできなかった。そしてお兄様が言った通り、お父様が私の籍を一度抜いたのにまた戻すことを悩んでいて、保留になっている。


 今の私はフリューア男爵家の娘とは言えない。フェーベ様を騙しているようで、後ろめたい思いもあって真っ直ぐにフェーベ様を見返せなかったのだ。フェーベ様の衣装は、神に仕える女性のものだったから。


「申し遅れました。フリューア男爵が娘、ロスヴィータと申します。礼儀知らずで失礼いたしました。それで、あの、フェーベ様は、神に仕えていらっしゃるお方、なのでしょうか?」


 フェーベ様はまた笑みを浮かべると、頷いた。


「ええ。こちらの孤児院は教会が運営しておりまして、わたくしはシスターでもあり、院長でもあります。そして、系列には修道院もございます。そうすることで、訳あって修道女になった方のお子様もこちらの孤児院でお世話ができるようにもなっております」

「そうなんですか……」


 まったく知らない世界で、フェーベ様の話を聞きながらも、やっぱりわからなかった。だけど、何を質問していいのかもわからないので相槌を打つことしかできなかった。


 すると、フェーベ様がクリストフ様に厳しい顔を向けた。


「クリストフ。あなた、ロスヴィータ様に何も説明していないのではないの?」


 クリストフ様はちらりと私を見遣って溜息をつく。


「院長。ロスヴィータにはあれこれ説明するよりは、実際に見て感じてわからせた方がいいと思います。聞いた話を頭で組み立てようとしても、そもそもその構成するもの自体を知らないんです。わからないものは想像しようがないでしょう?」

「それでも程度があるでしょうに」


 フェーベ様は不服そうに呟く。クリストフ様は肩を落として首を振った。


「院長は、こいつがどれだけ何を知らないかを知らないからそう言えるんですよ。こいつ自身も自分が何をわかっていて何をわかっていないかもわかっていないんです。院長の考える()()をこいつに照らし合わせては駄目なんですよ」


 フェーベ様はクリストフ様の言葉にはっとしたように目を見開くと頷いた。


「……そうだったわね。()()というと皆が同じだというように錯覚してしまいそうになるけれど、結局はそれは主観にしか過ぎない。主観を勝手に一般的な常識にすり替えては駄目ね。皆それぞれ考え方も価値観も違うのだから。ごめんなさいね、クリストフもロスヴィータ様も」

「いえ、別に院長に当て擦ったわけじゃ……」


 クリストフ様が慌てるけれど、フェーベ様は自嘲するように口角を上げた。


「そんなことは思わないわ。これはわたくしに非があったというだけ。クリストフはロスヴィータ様と過ごしてきたから、ロスヴィータ様に必要なものがわかっているんでしょう。あなたはちゃんとロスヴィータ様と向き合っていたのね」

「ちょっ、院長!」

「ふふ。あのクリストフがねえ……。失う辛さを知っているからこそ、人と距離を置いていたように見えたけれど、ロスヴィータ様は違った、ということかしら?」

「……っ、違います! 俺は単にこいつを押し付けられただけで……!」

「まあ、そういうことにしておきましょうか」

「そういうこともこういうこともありません! それが事実です!」


 真っ赤になって言い返すクリストフ様と、にこにこと言葉を紡ぐフェーベ様を交互に見ていて、なんだか羨ましくなった。


 ──私とお母様の関係とはまったく違う。


 クリストフ様は怒っているように見せているけれど、違う。クリストフ様は本気で怒ったら、反対に感情を抑えるように声が低くなる。それがわかっているからこそフェーベ様もこうしてクリストフ様の態度を見ても笑っていられるのだ。


 ちりっと心がひりついた。羨ましいと思ってしまった。血が繋がっていなくても信頼関係を結べるクリストフ様に、そして、クリストフ様とこうして楽しそうに会話を楽しむフェーベ様に──。


 ──どうして私じゃ駄目だったんだろう……。


 クリストフ様に好かれない自分、お母様に守られてばかりで何もできない自分。


 私は人を羨むばかりで自分で努力して関係を築こうとしてこなかった自分を恥ずかしいと思った。


 お兄様も言っていた。血の繋がりではなく心の繋がりだと。こうして間近に見ていたらよくわかった。きっと私もクリストフ様の癖や性格を何となくでもわかってきたからだろう。


 だからこそ、クリストフ様が私に向ける感情にも気づいたのだ。私は信頼されていないのだと。それがすごく辛かった。


 そしてふと気づく。どうして私はこんなにもクリストフ様にこだわっているのだろうか。


 お兄様に嫌われていると思っていたときよりも、クリストフ様に信頼されていないことの方が辛かった。それはどうして?


 前にクリストフ様にも言ったけれど、お兄様とクリストフ様は違う。お兄様は血が繋がっていないとわかってからも、私にとってはやっぱりお兄様だった。


 じゃあ、クリストフ様と離縁した今、私にとってクリストフ様の存在って──?


 籍が抜けて()という個が見えたから生まれた疑問。その答えはきっと、これからクリストフ様と過ごすことで見つかるような気がした。

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