お母様を理解すること
クリストフ様に言われて、聞こうと思っていた名前が飛び出したことに、胸の鼓動がうるさくなる。私はその名前にそれほど意味があるとは思っていなかったのだ。
「お、お母様。レナーテという方は、誰なんですか? クリストフ様には、お母様に聞けと言われたのですが……」
「クリストフが? ……ああ、そうなの。彼は知っていたのね」
「いえ、知らないそうです。知っているとしたらお母様だとしか。街を歩いていたら、知らない方が私のことをそう呼んだので……」
「……そう。やっぱり外の世界は危ないわ。あなたに要らないことばかり吹き込もうとする」
お母様は苦々しく吐き捨てた。お母様が私を外に出したがらないのも、何もさせようとしないのも、きっとレナーテ様に関係があるのだろう。私は再度、言葉を強めて尋ねた。
「お母様! ですから、レナーテとは誰なんですか⁈」
お母様はうんざりしたように顔を顰めた上に背けた。
「だから、あなたは知らなくてもいいと言っているでしょう。この話は終わりよ。ああ、そうだわ。もうクリストフの元へは帰らなくてもいいわ。彼はあなたにいい影響を与えない。今日からまたここで暮らすのよ」
一方的な言葉に、私の中にあった反抗心がむくむくと湧いてくる。本当はこの家にいたときからあった。だけど、外の世界を知らなかった私には、自分が不自由だという自覚がなかったし、恵まれているという負い目があった。そのせいで、反抗心を持つことは良くないと抑えつけてきたのだ。
不自由の中で制限された自由しか知らなかったけど、私は自由の中で制限される不自由を知った。その方がより生きている実感を得られることを知った。
──私の自由を制限する権利なんてお母様にはない!
「……っ、私はお母様の人形ではありません! クリストフ様がいい影響を与えない? それは違います! 彼は私に生きることの辛さや楽しさを教えてくれました! それに、知らなくてもいいって何ですか? それを決めるのは他でもない私です……!」
感情が昂って生理的な涙が浮かんできた。
──そうだ。私は怒っている。
勝手な決めつけは、私の意志を無視することと同じ。何故私には意志がある? 私が私でありたいからだ。それを踏み躙る権利なんてお母様にもない。ここにきてようやくクリストフ様が初めの頃に話してくれたことがわかった。そして、クリストフ様が私の代わりに怒ってくれたことも。
わかりやすい優しさに縋って、わかりにくい叱咤の無視をしてきたけれど、それはやっぱり間違っている。
お母様にも目を覚まして欲しい、そんな感情を乗せて叫んだ。それなのに──。
「──言いたいことはそれだけ? なら、もう部屋に帰りなさい。ああ、そうだわ。離縁届は私が手配しておくわ」
お母様は私を一瞥すると、それだけを言ってメイドを呼んだ。そして私はメイドに連れられて、屋敷にまだ残っていた自室へと戻らされた。そして、以前のように外から部屋の鍵をかけられたのだった。
「待って! ここから出して! クリストフ様にまだお別れもしていないのに……!」
ドンドンと重厚な扉を一心不乱に叩き続けた。扉に当たる部分が赤くなって腫れて痛みを訴える。その痛みを堪えながら、まだ叩く。だけど、重く立派な扉はびくともしない。
「……っ、お願い、最後に、クリストフ様に、会わせてっ……」
泣きたくないのに涙が溢れる。悔しさや悲しさなどの様々な感情が綯い交ぜになって胸に詰まって苦しい。
ずるずると足の力が抜けて床にへたり込む。あれだけお母様に感情をぶつけたのに、何一つ伝わりはしなかった。私がやったことは無駄だったのかと虚しさに襲われる。
心が折れそうだった。
変わりたいと思って頑張ってきたのに。変わったらお母様もわかってくれると思っていたのに──。
呆然と宙を見て呟く。
「クリストフ様……。私がやったことは全て無駄だったんですか……?」
スカートを握ると、手に何か硬いものが当たった。はっと気づいてスカートのポケットからそれを出す。
クリストフ様からもらった髪留めだった。今日もここに来るまで家事をしていて、そのままポケットに入れたのだ。
その髪留めを見ていて、たくさんの思い出が脳裏を駆け巡った。クリストフ様に怒られたこと、褒められたこと、頑張ったこと──。これは全てが詰まった大切なもの。クリストフ様が諦めるなと応援してくれているような気がした。
「……泣いていたら駄目。考えるの」
右腕で乱暴に目元の涙を拭うと、ベッドに腰掛けた。
この部屋は屋敷の二階にあるから、窓からは出られない。平民の家と違って、二階といえどもかなりの高さがあるからだ。出られるのは食事のときくらいだろうか。浴室もトイレもこの部屋の続き部屋に完備されている。
それに、これまで通りとなると、常に誰かがそばにいるだろうから抜け出すのは難しい。更に、抜け出すことに成功したとしても使用人の責任になってしまう。もし彼女たちが辞めさせられたりすると、と考えると二の足を踏んでしまう。
思考がまた暗い方に行きそうになって、慌てて頭を振って追い払った。思考が明瞭になったところでふと気づく。
「そういえば、どうしてお母様の様子が変わったの? 確か──」
私が逆らったから、だったか。考えてはいけないというのがお母様の言い分だった。そして、レナーテという方の名前が出てきて──。
「そういえば、平民街で会ったあの方……」
きっとあの老婆ならわかるはず。光明が見えて勢いよく立ち上がる。だけど、すぐに力なく座り込む羽目になった。
「……そもそもどこの誰かわからないじゃない。それに、ここから出られないし……」
だけど、考えて気づいた。レナーテ様のことを知ることで、お母様の考えが理解できるかもしれない。理解できれば、お母様にも私の気持ちが通じるかもしれないと、私の心に希望の火が灯ったのだった。




