母の異変
それから三日後。お母様の時間が取れたということで、男爵邸へ行くことになった。クリストフ様と途中まで一緒に、乗り合い馬車で向かう。
前回とは違って、お母様に会えるのに気持ちは弾まない。馬車の中で俯いていると、クリストフ様に揺さぶられた。
「え……もう着きますか?」
慌てて周囲を見回したけれど、馬車から見える景色は貴族街には見えなかった。クリストフ様に視線を戻すと呆れ顔になっている。
「まだだ。だが、どうしたんだ? いつにもなく大人しいじゃないか。大好きなお母様に会えるって喜んでいると思ったのに」
「そう、ですね……」
嬉しい気持ちもあるけれど、それ以外の気持ちが大きくなっていて、どんな顔でお母様に会えばいいのかわからないのだ。最初の頃と違って今の私は、今の暮らしを楽しいと思い始めている。
クリストフ様と離縁になったら今の暮らしを失うことになるのだ。クリストフ様も少しでも離縁したくないと思ってくれていたら──。
じっとクリストフ様を見ると、クリストフ様は私の頭に手を置いた。
「そんな不安そうな顔をしてどうした。お前の母親もきっと帰ってこいと言ってくれると思うぞ。心配するな」
「……そんな心配していません」
「じゃあ何だ」
問われて言葉に詰まる。やっぱり今のままがいいかもしれない、なんて言えるわけがない。クリストフ様は嫌々私のことを受け入れたのだ。黙って私は首を振った。
クリストフ様は私が話すのを待っていたようだけど、私は口を引き結ぶ。話すつもりはないという意思表示だ。
クリストフ様は私を見て目を丸くしたかと思うと、苦笑した。
「人らしくなってきたな。前はお前自身の意志なんてなかったのに。話したくないんならそれでいい……っと、着いたな。じゃあ、行ってこい」
「……はい、行ってきます」
──帰ってこい、じゃなくて行ってこい。
クリストフ様のいる場所が私の居場所のように感じて、少し気恥ずかしかった。
◇
「……何だか焼けた気がするわね」
お母様は応接室のソファに座って対峙する私を見て、開口一番にそう言った。柳眉を顰めているところからして、褒めているわけではないようだ。きっと続く言葉は──。
「やめなさいと言ったはずよ」
一言一句同じというわけではないけれど、予想通りだった。だけど、そんな言葉はきけない。私はお母様を見据えて、気持ちを奮い立たせるように拳を握る。
「それは無理です。お母様は平民の生活を知っていますか? 使用人はいないのだから、自分たちで何でもしなくてはならないんです。それに、私はできることが増える喜びを知りました。クリストフ様と二人で、協力して暮らしているんです。わかってください」
私は頭を下げる。だけど困った。これでは私は婚姻を継続したいと言っているようなものだ。ここから離縁したいと、どう話せばいいのかわからない。内心焦りながらお母様の答えを待つ。
「──そう。わかったわ」
反射的に顔を上げると、一切の表情を削ぎ落としたお母様と目が合った。
──これは、怒り? それとも憎しみ……?
お母様のこんなに冷たい顔は見たことがなかった。私の言葉のどこに、お母様にこんな顔をさせる要素があったのだろうか。お母様の雰囲気に呑まれて、私はごくりと唾を飲み込んだ。
「離縁しなさい。私はあなたに大変な思いをさせたくはないの。あなたが幸せになれるはずだと思ったから託したのに……」
「大変って……。お母様、違います。私はその大変な思いも含めて、今こんなに幸せなんです。離縁するのは構いません。クリストフ様も望んでいますし。ですが、離縁しても私は貴族には戻れません。傅かれて与えられるだけの人形にはもう戻りたくないんです……!」
「……やっぱり、結婚は失敗だったのね。こうしてあなたが反抗するようになるなんて。私はあなたに何度も、考えなくてもいいと言ったはずよ? クリストフの影響ね。こうして考えるようになったから、あなたは私に逆らうのだわ……」
お母様は俯き加減でぶつぶつと呟いている。視線が定まらず茫洋とした様子に、私の腰が引けた。
「お、お母様……?」
恐る恐る声をかけると、お母様はそれまでの様子を一変させ、ふわりと香り立つような笑みを浮かべた。
美人のお母様がそういう笑みを浮かべれば、誰もがうっとりと見惚れただろう。だけど、これまでの様子を見ていた私からすると、恐怖でしかなかった。
お母様は前のめりになって、私の顔に手を伸ばす。
「もう一度教育し直せばいいのよ。あなたは自我を持っては駄目。これは全てあなたのためなのよ」
「や、ちが、おかあさ……」
得体の知れない恐怖に喉が渇く。言葉は喉に張り付いて、剥がれずに行き場を失った。
そして続いた言葉に私は目を見開いた。
「──そうでしょう、レナーテ?」




