揺らいでいく自分
その後、クリストフ様に、食料品のお店へ連れて行ってもらい、クリストフ様の顔なじみの店主の方に紹介された。私には物の名前や値段、どれがいいのかなどがわからないので、困ったときは店主に聞いてみるようにということだった。店先で滔々と説明をするクリストフ様と相槌を打ちながら聞いている私を見て、恰幅のいい男性店主は、親子か教師と生徒みたいだと苦笑いをしていた。まあ、私もクリストフ様は教育係のように思うけれど。
そうやってクリストフ様と二人で歩いているうちに、少しずつ恐怖は薄れていった。歩きながらも、クリストフ様があそこに行くな、あいつらに近づくなと、事細かに教えてくれるおかげだろう。何が危ないかわかってさえいれば、こうして散策するのも楽しい。
買った食料品を、二人で手分けして持って歩いていたときだった。足元に何かがぶつかったことに気づいて、私は足を止めた。足元を見ると、オレンジが一個。拾い上げて、どこから転がってきたのかと周囲を見回していて、一人の老婆と目が合った。
「レ、レナーテ、様……?」
老婆は目を見開いて、口を両手で押さえている。その足元には、布袋が落ちていて、そこから同じオレンジがはみ出している。きっと私が拾ったオレンジも老婆のものだろう。クリストフ様の手を離すと、私は老婆に近づいた。
「落としましたよ」
「あ、ああ……。ありがとう、ございます、レナーテ様……」
そういえばさっきもレナーテ様と呼ばれた。誰かと勘違いしているのかもしれない。オレンジを渡しながら首を振る。
「いえ、私はレナーテという名前ではありません」
老婆はほっとしたような、がっかりしたような、よくわからない表情になった。
「……やっぱりそうですよね。レナーテ様は、確かにあの時……。失礼を承知でうかがいますが、あなたのお名前は……?」
「ロスヴィータと申します」
「そう、ですか。ロスヴィータ……。いえ、昔の知り合いによく似ていたもので。拾っていただき、ありがとうございます。それではわたしはこれで……」
老婆は足元の袋を拾い上げると、そそくさと去って行った。人違いをしたことがそんなに悪いことだと思っているのだろうか。首を傾げていると、険しい顔をしたクリストフ様が近づいてきた。
「ロスヴィータ。知らない人間にそう簡単に名前を教えるな。もしお前が貴族の娘だとわかったら危ないだろうが」
「そうなんですか?」
「そうだ。お前を誘拐して人質にして、大金をせしめることだってできるんだぞ。お前はもっと警戒心を持て」
クリストフ様の声は刺々しい。だけど、これも私を心配してのものなのだろう。思わず顔が緩む。
「はい。気をつけます」
「……怒られながらヘラヘラするなよ」
「だって、これは怒られているというよりも、心配してくれているんですよね。クリストフ様は優しいですね」
「なっ! くそっ……。何なんだよ、もう」
何故か悔しそうなクリストフ様に、声を立てて笑ってしまった。
「それに、あの方は私を誰かと勘違いしていたみたいですし。名乗った方がいいと思ったんですが……」
「ああ、そういえば。お前を見て、レナーテ様、と言っていたな。昔の知り合いによく似ていたとも言っていたか」
「はい。誰なんでしょうね、レナーテという方は」
二人で首を捻っていたら、しばらくしてクリストフ様は何かに気づいたかのように勢いよく顔を上げた。
「クリストフ様?」
「あ、ああ。どうした?」
「それは私が聞きたいです。どうしたんですか? 急に顔を上げるから驚きました。もしかしてクリストフ様もレナーテという方を知っているのですか?」
「いや、俺は知らない。だが、もしかしたら……」
そこでクリストフ様は言葉を止めた。真剣な表情で私をじっと見たかと思うと、首を振った。
「これは俺が話せることじゃない。知りたければお前の母親に聞け。もっとも、聞いても話さないような気がするが」
「お母様に?」
どうしてお母様が。それに、何故かクリストフ様もわかっているような気がする。よくわからないけれど、聞いてみればいいのかと軽い気持ちで頷いた。
「そうですね。近いうちにこれからの話をしようと思うので、その時にでも聞いてみます」
すると、クリストフ様は神妙な顔で私に尋ねてきた。
「……お前にとって、家族ってどんな存在だ?」
いきなり変わった話題についていけず、私はしばらく固まった。何故そんなことを聞かれるのかと不思議で、クリストフ様の問いを忘れそうになってしまった。
私にとっての家族……。
「……わかりません。私はお父様やお兄様、お姉様に嫌われてますから。私にとっての家族はお母様だけ、かもしれません」
「そんなわけはないだろう。少なくとも義兄上はお前を大切に思っていると思うが」
「……お兄様は私の存在が恥ずかしいのだと言っていました。頭が悪いから。お姉様もそうです。お父様は私に興味がなくて話もしません。いつもそんな私に優しくしてくれたのはお母様だけでした」
「いや、義兄上はお前をよろしくと俺に言ってくるぐらいだぞ? 嫌ってはいないと思うんだが。どうしてそう思うんだ?」
──お兄様が?
どうしても信じられなかった。だって──。
「お母様が私に優しくすると、お兄様は怒るんです。それで、そんなお兄様を見て、またお母様が優しくなって……」
そうだ。そうやってお母様が庇ってくれるのだ。私だけはあなたの味方よ、そう言って。
だから私は、信じられるのはお母様だけだと思うようになった。
クリストフ様は呆れたように言う。
「それは、お前の母親がお前を甘やかすからだろう。それだけだとお前のためにならないから、義兄上は、お前の母親がやらない代わりに嫌な役を引き受けただけじゃないのか?」
「そう、なん、ですか?」
──わからない。
クリストフ様の言葉で、これまで信じていたものが少しずつ形を変えていくようだ。それがすごく怖かった。
何か一つを強く信じることは、芯がしっかりしているということ。それが揺らいでしまうと、自分が揺らいでしまう。
お兄様が私を嫌っていないということは喜ばしいことのはずなのに、それならどうして、お母様は自分だけは味方だなんてことを言ったのだろうか。これではまるで私がお兄様に嫌われていると思い込ませているような──。
気のせいだと、思考を振り払うように頭を振ったけど、一度湧いてきた疑いはいつまでもしこりのように心に残り続けた。




