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刷り込まれた恐怖

 それから数日後。今日はクリストフ様が休みなので、買い物のためにこれから二人で外出することになった。


 今日は馬車ではなく徒歩だ。商店の並ぶ通りは平民街からは近いし、私が出歩いていないことを知ったクリストフ様が、足が衰えるといけないからと心配してくれたからだ。もしかしたら、私のこの先のことを考えてのことかもしれない。


 正直、難しいことはわからないけれど、私はクリストフ様と結婚する際に平民になった。そんな中途半端な立場の私が実家に戻れるのか。そもそも政略として嫁ぐことすらできなかったのだ。実家が持て余すことはわかりきっている。その辺のことも、今度お母様に会いに行くときに聞こうと思っている。


 ──今はできることをするだけ。


「じゃあ、行きましょうか」

「ああ」


 クリストフ様に笑顔で話しかけたら、そっぽを向かれてしまった。嫌われているから仕方ないのかもしれないけれど、心が痛い。


 実家にいたときは、お兄様もお姉様もこんな感じだった。そう考えると、私は二人にも嫌われていたのだろう。私を愛してくれているのは、お母様しかいない──と思いかけて、またクリストフ様の言葉が蘇って疑心暗鬼になる。


 ──お母様は私を嫌いなの?


 違う。クリストフ様は私が嫌いだから、私を傷つけようとしてそう言っただけ。きっとお母様にはお母様の考えがあるはず。


 嫌な考えを振り払おうと頭を振ってふと気づく。

 考えながら歩いていたせいで、クリストフ様は私の数歩先にいた。それでも待つ気はないようで、スタスタと歩いて行く。私は置いていかれたくなくて、足早にクリストフ様の隣に並んだ。


 並んだものの、間近に見える平民街の風景につい目を奪われて足が遅くなる。


 これまでは馬車から見るだけだった。この世界にはたくさんの人がいるとわかっていても、私はそれを実感していなかった。私の世界は実家のタウンハウスとカントリーハウスだけ。関わるのは家族と使用人、そして今はクリストフ様。


 今、私の視線の先には、家族連れや、お年寄りのご夫婦、笑い声を上げながら走って行く子どもたち、他にもたくさんの人たちがいる。自分がその中にいることに現実味がなかったのだ。


 そして──急に不安になった。お母様はずっと言っていた。外の世界は危ないから出てはいけないと。


 これまで遠くに感じていたものが間近に迫ってくるようで怖い。クリストフ様は歩みの遅くなった私に気づかず先へ行ってしまう。そのとき、後ろからどんっと誰かがぶつかってきた。


「……ッチ、フラフラ歩いてんじゃねえよ!」

「……っ」


 見ず知らずの人に怒鳴られて足が竦んだ。喉がカラカラに乾いて謝罪の言葉どころか、声さえも発することができずに俯いた。


 この間、実家へ戻ったときは、こんな風に周りに気を呑まれることがなかった。自分の世界に浸っていたからだ。だけど、ここは私だけの世界じゃない。そんな当たり前のことにも気づかなかった。


「ロスヴィータ!」


 名前を呼ばれて頭を上げると、クリストフ様が戻ってきて私と見ず知らずの男性の間に割り込んだ。


「失礼。妻が何か?」


 男性は体格のいいクリストフ様に圧倒されたようで、腰が引けている。それでも、クリストフ様を睨みながら告げる。


「あ、あんたも連れならしっかり見てろよ! 道の真ん中をフラフラ歩かれたら迷惑だ!」

「それは申し訳ない。次からは気をつけよう。だが、あなたも、か弱い女性を突き飛ばすようなことはやめた方がいいと思うのだが?」

「……何だと?」

「あの! ご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした。気をつけますので……」


 私が深々と頭を下げると、男性は気を削がれたようで、舌打ちをして去っていった。私はほっと胸を撫で下ろした。


「……すまなかった。大丈夫か?」


 クリストフ様の言葉に目をぱちぱちさせてしまった。どうして謝られるのかわからない。


「はい、大丈夫です。ご迷惑をお掛けして申し訳ありません」

「いや……気づかなかった俺が悪い。悪かったな」


 クリストフ様は私の手を取った。いつの間にか緊張して握りしめていた拳を、クリストフ様の指がゆっくりと解いていく。そして私と手を繋ぐとまた歩き始めた。


 唐突な行動についていけずに、私の足はもつれそうになる。だけど、今度はクリストフ様は私の歩調に合わせて歩いてくれる。


 繋いだ手から伝わる温もりに、自分が独りじゃないことを感じて、私もこの世界に溶け込んでいけたような安心感で満たされた。


 例えクリストフ様に嫌われていても、この温もりから感じる優しさは本当だと信じたかった──。

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