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兄の訪問

 その日から、クリストフ様は怒りながらもたまに褒めてくれるようになった。圧倒的に怒られる方が多いけれど、それでいい。その方がより頑張ろうって思えるから。


 変わったことはもう一つ。クリストフ様が仕事に行く前に、今日はこれをするようにと、指示を出してくれるようになった。掃除にしても段階を踏むとか、特定の場所一つだけ完全に綺麗にするとか、そうじゃないと慣れない私一人でやるのは難しいことがわかったからだ。


 ただし、洗濯は毎日しなければならない。クリストフ様は騎士という職業柄、訓練で使った服を汚して帰ってくる。それに私も平民用の服をあまり持っていない。ためてしまうと汚れは落ちにくくなるし、着替えもなくなるから、毎日の習慣になっている。


 ◇


 干し終わった洗濯物を確認する。汚れが残っていないか、シワになっていないか。問題ないのを確認して声を上げた。


「よし、洗濯終わり!」


 今日はシーツも洗った。水を吸ったシーツは重かったし、絞るのも一苦労だったのだ。いつもより達成感があって、喜色の声を上げずにはいられなかった。


 クリストフ様と結婚して約一ヶ月。覚えることがたくさんあったし、やることもたくさんあった。おかげで忙しくも楽しい生活を送っている。


 実家にいた頃は、外は危ないからとお母様が言うので、屋敷からほとんど出ることもなかった。だからといって屋敷ですることがあるわけでもなかった。家族はみんな忙しく、話し相手は大体侍女かメイド。会話なんて広がるわけがない。


 やることがあるというのは素晴らしいことだとつくづく思う。


 さて次は台所の掃除だ。料理をしたら片付けるようにしていても、床や壁は薄汚れてくると、クリストフ様が教えてくれた。今日は見えない油を拭いておくようにと、出かける時に指示をもらった。ちゃんとできていたらまた褒めてもらえるので、気合いを入れて取り掛かろうとした時だった。


 微かに玄関の扉をノックする音が聞こえた。クリストフ様が忘れ物をしたのかと思い、急いで扉を開けると──。


「こら、ロスヴィータ。扉を開ける時は相手をちゃんと確認しないか」


 お叱りの言葉を言いながら苦笑をするお兄様がいた。


 ◇


「どうしたんですか? お兄様。クリストフ様に用でしたら、もうお仕事に行きましたよ?」

「いや、今日はお前に会いに来たんだ」

「私に、ですか?」


 お兄様を居間に通してお茶を用意した。お客様が来たらこうしてもてなすようにと、クリストフ様にあらかじめ聞いておいてよかった。とはいえ、お茶の淹れ方までは詳しくないから適当だ。


 それにしても、テーブルを挟んで椅子に向かい合って座るけれど、気まずい。


 お兄様は私にいい感情を持っていないはずだ。だって、お母様が私を甘やかすといつも怒っていた。私もそんなお母様の言う通りにしていたから、お兄様は呆れてあまり口出ししなくなった。


「王城で最近、クリストフに会うんだ。お前が頑張っていると聞いたもんでな。どんな様子か気になったんだよ」


 クリストフ様から──。あまり褒めてくれないので、別の人から聞くとまた嬉しい。思わず頬が緩む。


「クリストフ様が、働かない奴に食べさせる物はないと仰るのでやるようになりました」

「あいつなら言うだろうな。これまで苦労しているから」


 苦笑するお兄様の言葉に引っかかって、初めて気づいた。


 ──私はクリストフ様のことをまったく知らない。


 いえ、騎士であることや孤児であることは聞いている。そうではなくて、彼が何故騎士になったのかということや、どんな暮らしをしてきたのかという、個人的なことをまったく知らないのだ。


 私はクリストフ様と暮らし始めて、彼を一人の人として見ていなかったのかもしれない。自分を認めてくれるという欲求を満たすだけの相手。そんなふうに思っていなかっただろうか。自分は見て欲しいと押し付けてきたくせに。


「……私はクリストフ様がどんな性格なのかもわかりません。お兄様から見て、クリストフ様はどんな方ですか?」


 そう尋ねると、お兄様はしばらく宙を眺めて考え込んでいた。それから、私はそれほどあいつを知っているわけではないが、と前置きして続けた。


「あいつにとっては、あるのが当たり前じゃない。ないのが普通なんだろう。だから、あるものを大切にするし、ないものを無闇矢鱈にねだることもしない。大切な人が突然いなくなる経験をしたからか、人に深入りしようともしない。だから、お前みたいに無遠慮に(ふところ)に入る奴とならうまくいくんじゃないかと思うんだが」

「……よくわかりません」

「だろうな。これは私の独り言だ。お前は母上にしか興味がなかったから、クリストフに興味を持ち始めたのはいい傾向だな。ようやく親離れができそうでよかった」


 お母様のことを思い出して俯く。結婚する前も後も、お母様は相変わらず私が何かをするのは反対らしい。つい先日もそういった内容の手紙が届いたばかりだ。


「……お母様はまだ、私が家事をすることに反対しているんです。じゃあ、どうしてお母様は私をクリストフ様に嫁がせたんですか? 使用人なんていないし雇えないんだから、私もするしかないのに」


 お兄様はため息をつく。


「そうだろう? 母上がクリストフとの結婚をごり押ししたのに、意味がわからない。お前を連れ戻そうか、それはできないと一人で悩んでいたよ」

「……私は帰りません」

「ああ。お前はもう、母上に流されるだけの子どもじゃないんだ。お前とクリストフで考えればいい。そもそも政略結婚ではないんだから」

「でも、お兄様。政略結婚ではないのなら、お母様はどうしてクリストフ様を選んだのですか? お母様が言ったんです。クリストフ様とならあなたは幸せになれるって」


 私は深く考えることなく結婚した。そこにある事情なんて考えなくてよかったからだ。だけど、こうしてお母様と離れてみて、他人であるクリストフ様の言葉や、これまで向き合って話してこなかったお兄様の話をちゃんと聞いてみると、何かがおかしいような気がしてきた。


 わからないならわからないでいい。そう思っていたはずなのに、わからないことが妙な気持ち悪さを感じさせる。


 私はお母様の言葉()()聞いていなかったのだ。理解できるかはわからない。それでも、もう一人の当事者であるクリストフ様にも話を聞いてみよう。初めてそう思った。

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