第120話 我が儘な本音
――― 一緒にいたい、離れたくない。
そう思うほど、違う自分が囁く。
『自分カラ離レテイッタ女ガ、何ヲ言ッテルンダ』
『彼ノ希望ヲ踏ミ躙ッテマデ、執着シタイノカ』
だから、本心を言っちゃいけない―――……
気がつくと、薄暗い部屋のベッドの上にいた。
しばらくボーッと天井を見つめる。
それから、左に視線を移すと……和風の花瓶に入った、私が贈った花。
難しそうな本が並ぶ本棚、見覚えのある教科書、ハンガーにかけられた海宮高校の男子制服……
そうだ。彼氏の部屋だ、ここは。
ムクッと起き上がると、腹の上で私の左手が右手をがっちり掴んでいた。
元々握力が半端なく強いので、右手にはくっきりと手の痕が残っている。
なんで私、ここにいるんだろう……確か、あの図書館を開けそうなほど蔵書がたくさんある部屋に案内されて、凛子から紹介された随分昔の恋愛小説“海に想いを”を読んで、その後蒼井君に思い描く未来について聞いて……ふわっと抱きしめられて。
「そうだ……あのまま、寝ちゃったんだ」
あったかいなぁ……そう感じていたら、つい。最近寝不足だったからなぁ。
じゃあ、今は……と、壁に掛けられた時計を見る。
「……うっそ、7時!?」
慌ててベッドから降りて、居間へダッシュで向かった。
「あ、起きた?」
朝ごはんを作ってくれているのか、キッチンにいてフライパンを握っていた。
「お、おはよう蒼井君!ごめん、昨日、つい寝ちゃって……」
髪を手ぐしで整えている私を、きょとんとした顔で見る蒼井君。
すると、フッと笑ってフライパンを置く。
「“まだ”7時だよ。あれから3時間ぐらいしか経ってない」
「え、ホントに?」
「うん」
安堵と恥ずかしさがこみ上げて、顔が真っ赤になってしまった。
手伝おうとする私を、彼は制して「座ってて」と言った。
ご飯と味噌汁、豚肉のしょうが焼きにサラダ……手の込んだ料理が運ばれてくる。
「お、おいしそう……」
「そう?」
初めて目にする“彼氏の手料理”に、思わず目を見開く。
和食だけど色鮮やか。いい匂いが、久しぶりに食欲をかきたてる。
いただきます、と感謝をこめて手を合わせて味噌汁を一口飲んだ。
「わっ、メッチャうまい!え、これ、ダシとか何使ったの?」
「秘密」
「えー何でー?」
そういうやりとりをしている間にも、味噌汁を完食。
続いてサラダ。これは野菜の旨みに感動し、しょうが焼きにはお肉の柔らかさに感動。ご飯は、お米のふっくらさ加減にまた感動。
……こんなに食事に感動するのは久しぶり。凛子の手料理以来だ。
「ごちそうさまでした!」
「早っ!俺まだ三分の一ぐらい残ってんだけど」
「だっておいしいもん」
えへへーと笑いながら、食器を洗うべく流し台へ食器を持っていく。
しかし、食洗機にセットすればいいとのことなので、せめてをもということで調理器具を洗うとした。
「包丁気をつけて。指切っちゃうかもだから」
「私そこまでドジじゃないよー」
食べ終わって食器をセットしにきた蒼井君と、そんな会話をしながら徐々に調理器具も洗われていった。
同じ流し台に立ち、時々触れる私の肩と彼の腕……
「どした?」
それをジーッとみていると、彼がそう尋ねる。
「蒼井君、また背伸びたね」
「背?まぁ、成長期だしね。それにバスケ部だし。それか沙彩が縮んだか」
「それはない!」
珍しく意地悪を言う蒼井君を、肘でゴスッと攻撃した。
それから、2人でテレビを見る。
流行の音楽を紹介する伝統のある音楽番組……出演アーティストを見るなり、「あ」と呟いた。
「1週間前ぐらいに、渋谷でリリナさんと会って話したんだ」
「え、マジ?リリナって……2年前の祭りで会った?」
「うん、そう。海翼ちゃんと一緒だった」
「へー、すげーな」そう相槌を打つと、彼は改めて画面を見た。
煌びやかな衣装を纏い、圧倒的な歌唱力でカメラの前に立つリリナさん。
恋愛相談やメアドを交換したあの日が、嘘のように思えてくる。
「どんな話したの?」
「い、いや、別に……大学のこととかいろいろ」
「ふーん、いろいろ……」
“彼、きっとあなたのこと傷つけるのが怖いんじゃないかしら”
“どこか、遠い大学を希望しているとか”
“私?そうね……別れちゃうかな”
でも、言われた言葉はちゃんと残っている……悲しい響きを伴って。
その言葉を思い出していると……テレビ画面が、プツンという音と一緒に黒に変わった。
「沙彩は……俺が推薦受けるといいって思ってる?」
不意に聞かれて、思わず「嫌」と言いたくなる。
でも、口からは……裏腹の言葉。
「……うん。だって、すごいことじゃん。みんながみんなに巡ってくるチャンスじゃないし」
「……本当に?」
ずい、と迫られる。真実を探るように……目と目を合わせてくる。
やばい、泣きそう……ふいっと逸らしても、顎を軽く掴んで難なく元に戻る。
「俺だって、最初沙彩が東京の大学目指してるって聞いてなんで?って思ったよ。でも、それは付き合う前から決まっていた意思だったし、俺の我が儘で無理に変えさせようとはしなかった」
……確かに、「行くな」とは言われなかった。いつも、背中を押す言葉をくれた。
だから、今度は私が押す番じゃないのか……喉を出かけたその言葉を、飲み込む。
「でも、俺は今迷ってる……だったら、大切な人の本当の意見ぐらいちゃんと聞きたいよ」
端整な眉が、少しだけ顰められる。
……こんな私の我が儘を、受け入れてもらえるの?
もう1人の自分が抑えていた言葉が、どんどん溢れてくる。
「私、ね……楽しいことや悲しいことがあったとき、いつも思うんだ。隣に蒼井君がいたらって」
「うん」
「だから……本当は、こんな風にずっと一緒にいたいの。明日も明後日も、1年後も10年後も」
そこに、これといった理由なんてない。ただ……好きだから。
「……だから、外国なんて遠いところ行っちゃやだ……」
―――負けた。意地を張ってた自分に、相手を思いやろうと必死だった自分に。
本当の私は、矛盾すら気にしない……好きな相手に執着する、ただの我が儘で最低な女だ。
自分が情けない……そんな想いから、こぼれる涙を彼が拭う。
「そんなに、俺のこと好きなんだ?」
頭と髪を撫でながら聞いてくる。
決まってるじゃない……頷くと、彼の顔が一層近づき……ゆっくりと目を閉じると、唇が塞がれた。
……長く、深く。
―――……
「先生、少しお時間いいですか?」
月曜日。帰りのHRの後、担任を呼ぶ。
いつもはHRが終わると間髪いれず体育館へ向かう俺のそんな行動に、担任は驚いていた。
「おお、どうした蒼井。気分でも悪いのか?」
「違います、KPSの大学推薦の件で」
「ああそうか。場所変えようか?」
「いえ、かまいません」
迷っていたが、覚悟が、決まった。
きっともう、変わることはないだろう。
「推薦は辞退します」
先生だけでなく、教室全体がざわめいた気がした。