第109話 寂しい少年
お正月の三箇日……退院が4日。
記憶が戻ったこと以外、何の支障もない俺にとっては……退屈な3日間だ。
初詣の誘いも断り、(大分早い)新年会という名の集まりも断り……
「あー……暇だー……」
検温の時間にそう呟くと、看護士で院長兼俺の主治医の宇治原先生の娘さんがハハッと笑う。
「大翔君の年代だったら、今頃神社でどんちゃん騒ぎでしょうね」
「そーだね……」
高2の正月だ。クラスの面々を思い浮かべながら笑い返した。
ピピッと体温計が鳴って、それを看護士さんに渡す。
じゃあ次脈診ますねーと、手首にひんやりとした手を当てられた。
「そういえば、陽介さんは?」
「ああ、兄さん?奥さん方の親戚で集まってるらしいわよ。明日はこっちだから、大翔君にも顔見せるって」
「ふーん、そっか。楽しみ」
陽介さんとは、ここの病院のもうひとりの看護士。
2年弱前に事故に遭ってここに何ヶ月も入院して……その間、積極的に話し相手になってくれたお兄さんだ。
その頃、たぶん27歳ぐらいだったから……今は立派なアラサーだろう。
「陽子さんは結婚しないの?」
そんな陽介さんの妹であるこの看護士さんの名前は、大方予想がつくだろう陽子さん。
彼女は高校の時から付き合っている彼氏がいるらしく……何の気なしにそう聞くと、陽子さんはフフッと笑った。
「大人には、タイミングってもんがあんのよ。ちょっとでもずれると、相手の家にも自分の家にも迷惑がかかっちゃう」
「へぇ……なんか難しいね」
「でも、きっともうすぐよ。式には呼んであげるわね」
「俺に先越されないよーにな?」
「あらまぁ、いっちょ前なこと言うようになって」
……よかった。ちゃんと時間は進んでるんだな……
ひとしきり笑い合うと、陽子さんはカルテにサラサラとデータを書いた。
そして、「窓の方向いて」と言うと、包帯の交換を始めた。
「そんなこと言うなんて……彼女さんとは随分うまくいってるのね」
「…………」
その言葉に、どーだろな……と自問する。
思い返すのは、先日届いたメール……
「ん?あのちょっと茶色がかったロングの美少女、あの子大翔君の彼女じゃないの?」
「え?ああ、うん、そう。そーだよ」
我に返り、慌ててそう答えた。
「沙彩さんとはうまくいってるし……ずっと大事にしていきたいと思ってるよ。そう思える女はこれからも絶対現れないって思うし」
……なんて自分で言いつつ、なんだか恥ずかしくなってきた。
「へぇ、沙彩さんっていうの……変わったお名前ねぇ……」
……なのに、陽子さんのちょっとズレた感性は“沙彩”という名前に傾いたらしく……
さっきの恥ずかしいセリフをどうしてくれる、と内心ガッカリした。
にしても、と、包帯を切りながら陽子さんは言う。
「だいぶ変わったわね、大翔君」
「そう?……まぁ、そーかもな」
「ええ。一昨年の3月に話したときは……こう、なんていうか、拾われた猫みたいな感じだったのに」
拾われた猫……か。あながち間違ってない。
そうなったのは家庭環境……も一理あるが、なにしろ自分の性格のせいだった。
極端に人とのつながりを求めすぎていて、そのくせ寂しがりや。こういう性格だ。
男とも女とも広く浅く付き合ってきて……結果、何も得るものがなく孤独を感じてしまう。
どうしようもない“子供”だったんだ。
それから……あの日、一昨年の3月。俺の中には何も残っていなかった。
築き上げてきた浅く広い人間関係が……忽然と消えたのだ。
親と名乗る2人や彼女と名乗る女子。それに、高校が離れたという友達や同じ高校に進学した友達……すべてが、赤の他人にしか見えなかった。
でも、その中で……沙彩さんだけは違った。
出会ったあの瞬間……あの感じが、一瞬、ほんの一瞬だけフラッシュバックしてきたのだった。初めてのことだった。
それから、恋に落ちた。
「でもよかったわ。大翔君がちゃんと年相応に育ってくれて……」
「ハハッ、年相応って……俺は陽子さんの息子かよ」
「息子、というより、弟って感じねーどうしてか。ちょっと似たとこあんのかな」
「あー、それは多分……」
俺が、あなたたちと同じ世界を目指しているから。
そう言おうと思ったが……なんだかおこがましくてやめた。
「多分?」
「いや、なんでもない。俺も陽子さんみたいな姉ちゃん欲しかったな。あと陽介さんみたいな兄ちゃんも」
兄や姉、弟や妹が家にいたら……ちょっとは違っていたのかな。
そんな“もしかしたらの世界”を思い浮かべながらそう言った。
「あら嬉しい。でも、ちゃんと亜珠華ちゃんのことも大事にすんのよ?」
「いや、大事にするも何も……あいつはずーっと凱旋門で芝居だよ。いつ俺のこと忘れるかヒヤヒヤするぐらい、全然帰ってこないし」
小学生になったばかりの亜珠華……フランスの日本小学校に仕事をしながら通っている。
昔からフランスが大好きで、母(がリポートする役者の姿)の影響もあって役者にも憧れ……いつしか、それが統合されて「フランスでお芝居したい!」と母にせがむようになった。
物さえせがんだことのない亜珠華が熱心に頼むもんだから……母は、その手の人に根回しして、オーディションを受けさせた。
結果合格し……現在に至る。
「へぇ、そうなの……あの亜珠華ちゃんが子役かぁ。親御さん……翔子さんが“10年に一度の美人リポーター”って言われているスペックだから大成するわねきっと」
「いや、どうかな……子役は一過性とか言うし」
「あら、大翔君は応援してないの?」
「いやしてるけど……」
俺が渋ると、陽子さんは意味ありげにフフッと笑った。
「じゃあ、2時間後に検査するからね」
そう言い、陽子さんは検査器具を乗せたカートを引っ張りながら部屋を出た。
1人になった病室で……いろいろ振り返った過去を、もう一度さらっていく。
どれもこれも……きっと、重い過去だ。
それを沙彩さんに伝えるのは……しなければならないけど、若干抵抗があった。
そんな中で、こんなメールが届いたんだ。
『蒼井君、体調はどうですか?
記憶が戻ったんだから蒼井君の話、たくさん聞きたいけど、今は話さないでください。
私には今、受験っていう大きなしがらみがあるから、きっとちゃんと受け止めることができない。
彼女として正しいのか分からないけど、余裕を作って話を聞きたいの』
見透かされていたのかな……俺が、記憶が戻ったらそれを全て話したいって気持ちが。
それも含めて……沙彩さんらしかった。
感謝の気持ちだけ、返信しておいた。
彼女は知ってるんだろうな……俺の過去が、なかなかさらっとはしゃべれないこと。
第三者からの流れで知ったのか、はたまた刑事のお母さんからか。
それにしろ、初めて当事者から聞くんだ……身構えて当然だろう。
でもそんな余裕は……センターが2週間後に控えた大学受験者には作れない。
ひとつのことに集中する。真面目な沙彩さんにとっては当たり前なんだ。
だから、“寂しい”なんて思わなくていい……俺にはもう、受け止めてくれる人がいるのだから。何ヶ月でも待っていられる。
受け止めてくれるだけじゃなく、俺が、信頼できて尊敬する人がいるんだ。