矢切の鬼渡し・終わりの終わり
〈鍛刀部屋〉
隠し通路に出た長義は、鍛刀部屋に目をやった。
あと調べていないのは、その部屋だけだ。
鍛刀が終わったのか、槌を打つ音は聞こえない。
そのせいなのか、鍛刀部屋からした嫌な予感は無くなっていた。
「……行こう」
長義は傘をしっかりと握りしめると、周囲を警戒しつつ鍛刀部屋に近づいた。
鍵はかかっておらず、すんなりと戸が開く。
入ってすぐに、顕現したばかりの刀が審神者と謁見するための板張りの部屋があった。
奥に小窓が付いた鉄扉があり、実際に鍛刀を行っているのはその扉の向こうのようだ。
ここにも結解が貼られているようで、怪異の姿はない。
謁見の間には特に目立ったものはなく、部屋の隅に座布団が積まれているだけだった。
長義が奥に進もうとした時、鉄扉が反対側から開けられた。
隙間から、謁見の間に入ろうとする女の姿が見える。
女は桜色の長い髪を一つにまとめ、茶色い着物を着ていた。
女の姿を認識した瞬間、長義は一瞬の内に女との間合いを詰め、その喉元に石突を突きつけた。
「なんだ、殺さないのか」
ほんの少しだけ残念そうに、女が、この本丸の主 暁が呟いた。
長義に自覚はなかったが、暁を睨みつける鋭い眼光は、正しく化物切りの刀のものだった。
常人ならば立っている事すらままならない視線を、暁は真っすぐに見据える。
「殺してあげたいところだけどね。それで元の世界に戻れなくなったら困るんだよ」
「私を殺せば、ちゃんと外に出らるさ」
「そんな言葉をすんなり信じると思うか?
この本丸で何があったのか、お前の目的が何なのか、洗いざらい吐いてもらおうか。
お前を信じるかどうかは、それから判断する」
長義はそう言って傘を突きつけたままゆっくりと下がり、暁を謁見の間に引き入れた。
謁見の間に入る暁の腕には、鞘に収まった刀が抱きかかえられていた。
見慣れた拵から、長義はそれが山姥切国広だと瞬時に理解する。
「そいつを床に置け。拒むなら力づくでいく」
傘を突きつけたまま、長義は暁に命令した。
刀と傘では傘の方が分が悪いが、しかし戦闘経験の差は歴然としている。
例え暁がこの場で刀を抜いたとしても、軽く説き伏せられるだけの自信が長義にはあった。
とはいえ、可能ならば相手に獲物を持たせたくないのも確かだ。
「そう怖い顔をするな。ちゃんと言う通りにするさ」
暁はそう言ってしゃがむと、腕を伸ばして、自分から離れた場所に山姥切国広を置いた。
長義が持つ傘の石突が、その頭を常に狙う。
刀を置き終わった暁は立ち上がると、抵抗の意思がないことを示すように両手を上にあげた。
「さて、話だったな。その前に、傘を下ろさないか?
私は別にいいんだが、そいつが怖がってるのが気になる」
暁が、長義の後ろを顎で示した。
傘を突きつけたまま、決して油断することなく、長義は視線だけを後ろに向けた。
国広が部屋の入り口でへたり込み、小刻みに体を震わせていた。
長義に見られた国広は一瞬ビクリとした後、さらに後ろに下がろうとして戸に体をぶつけた。
ここにきてようやく、長義は今自分がどんな顔をしているのか思い至った。
「…………」
長義は暁に傘を向けたまま山姥切国広に近づくと、その鞘を蹴って壁にぶつけた。
「妙な真似をしたら、ただじゃおかないからな」
そう釘を刺すと、傘を降ろし、その表情を和らげた。
尚も暁を睨む視線は刀のものではなく、ただの人間 矢切長義のものだった。
長義は国広にゆっくり近づくと、屈んで視線を合わせようとした。
しかし、国広は顔を背け、目を固く閉じてしまっている。
「すまない、怖がらせてしまったね」
国広を落ち着かせようと、長義は優しく語り掛けた。
こんな風に自分が国広を怯えさせてしまったのは初めてで、長義はどうしたものかと必死に頭を捻らせた。
「お前がその、あいつに大変な目に合わされただろう。だから、つい怒りに身を任せてしまった」
今回の件で、国広は一時的に肉体を奪われた。
無事元に戻ることができたものの、暁は国広に何かをするつもりだった。
そしてそれは、国広に害をなすもので間違いないだろう。
「すまない。もう、あんな風にはならないと誓う。……だから、目を開けてくれないか?」
長義は、国広が再び自分を見てくれるのを静かに待った。
暁は一切動くことなく、二人の様子を見守る。
誰も音を立てない静かな部屋で、国広がゆっくりと目を開けた。
恐る恐る顔を正面に向け、長義を見る。
「…………」
国広は目の前にある長義の顔を少しの間見つめた後、その頬にそっと手を伸ばした。
「いつものにぃだ」
「ああ、いつもの矢切長義だ。本当にすまなかった」
頬に触れた国広の手に自分の手を重ね、長義は改めて謝った。
それから立ち上がり、暁に向き直る。
「それじゃあ、話を聞かせてもらおうかな」
〈暁〉
長話になるからと、三人は座布団を敷いて腰を落ち着かせた。
長義と国広は入口側に座り、暁は二人に向き合う形で座る。
長義はいつでも動けるよう跪座をして、右手で傘を軽く握っていた。
左手は国広の方に延ばされ、万一の際庇えるようにしてある。
「話を始める前に、お前はどこまで把握しているんだ」
警戒を怠らない長義とは対照的に、暁は足を崩して楽な姿勢をとっていた。
国広はいまいち状況を理解してないようだが、大人しく正座している。
「この本丸が発足初日に滅ぼされたこと、審神者であるお前が何故か生き残ったこと。
後は、何故かお前が建物ごと姿を消したことぐらいかな」
「そこまで把握しているなら、話は早い。
襲撃時に私のこの体も切られたんだが――これは、桜である私の枝のようなものなんだ。
斬られても多少痛みがある程度で、本体の私が死ぬことはない」
死ぬことはないというが、それは遡行軍が彼女の正体を知らなかったからだろう。
本体の繋がりを利用すれば、枝を切るだけでも暁を殺すことができる。
「時間遡行軍が去った後、政府の人間がやってきて、事情聴取やら本丸内の調査やら、まぁ色々と忙しかった。
そうしてしばらく経ったある日、私は改めて審神者に就任することが決まった。
それが決まった日は調査も掃除も一通り終わっていてね、暇だったものだから私は外に出たんだ。
そして、他の本丸というものを見てしまった」
暁はそこでいったん言葉を区切り、前髪をかきあげて額を長義に見せた。
「それで、この様だ」
前髪に隠れていて今まで気づかなかったが、暁の額には小さな角が生えていた。
長義は、「嫉妬をすると鬼になってしまう」と平安時代の刀が言っていたのを思い出す。
暁はまだ完全には鬼になっていないようだが、それも時間の問題だろう。
「だから、ここは怪異だらけだったんだな」
怪異は負の感情を好み、不幸な出来事があった場所に集まりやすいという。
鬼になった暁と一日で滅んだ本丸は、正しく怪異にとって格好のたまり場だったのだろう。
「……だが、妬む必要はなかっただろう? お前は、また審神者になれたんだから」
暁が見たのが、どんな本丸だったか長義は知らない。
ただ恐らくは、多くの刀が楽しそうにしていたのだろう。
その輪の中に審神者もちゃんといて、戦中でも穏やかな日々を過ごしていたはずだ。
鬼にならなければ、暁もそれを手に入れられるはずだった。
「だが、失ったものは戻ってこない。
例えまた山姥切国広と乱藤四郎を持つことになっても、それは私を守ろうと懸命に戦って折れた彼らではないんだ。
私は、あいつらとが良かったんだよ」
暁は寂しそうに目を細め、前髪を抑えていた腕を下ろした。
「鬼になった私は、そこの審神者を呪い殺そうとした。
それは駄目だと思う程度の理性は残っていてね、慌ててこの本丸と自分自身を隠したんだ」
「……神隠しか」
神隠しというと文字通り神が行う印象があるが、鬼や妖怪が含まれることもある。
そして、隠すのは何も人だけに限った話ではなかった。
通常の神隠しと違うのは、暁が隠した当人であるため外に出られるということぐらいだろうか。
ただ、それも時間の問題だ。
完全に鬼になれば、自我を失ってしまう。
ここがどこか、どうすれば出られるのか、何もかも分からなくなるのだ。
「確かにそれなら、お前を殺せば俺達は帰れるか。
お前が死ねば、お前を核としているこの世界が消える。
この世界にとって遺物である俺達は、そのまま現世にはじき出される」
「だから言っただろう、私を殺せと」
自分の正しさが証明された暁は、どこか誇らしげにそう言った。
「ああ。だが、お前がそう易々と自分の死を受け入れているのは引っかかる。
それに何故、国広を攫った」
「……別に。失くしたものを取り戻そうとしただけだ」
暁は呆れたようにため息をついて、軽く振り返った。
その視線の先には、壁に寄せられた山姥切国広が転がっている。
「私は、自分自身を封じる道を選んだ。
けどね、短い間だったけど私は彼らと関わってしまった。
山で独りだった私は、あの二振の温かさに触れてしまったんだ。
それは同時に、孤独を知るという事だったんだ」
この本丸で三人で写真を撮って、買い物に行って、台所で悪戦苦闘して。
一日にも満たない時間は、暁の孤独を増幅させるには十分すぎたのだろう。
「彼らの後を追って、死のうとも思った。
けど、私は斧を手に自分の本体を切ろうと一撃を加えて――あまりの痛みに膝を折ってしまった」
木を切るには、何度も斧を打ち付けなければならない。
それは人間で例えるなら、自分で自分の首を撥ねるようなものだ。
枝を破壊して死ぬ方法も、自殺には使うのは難しい。
本体との繋がりを利用するには、死ぬその瞬間に意識を保ってなければならないからだ。
「集まった怪異に殺させるのも試した。
だが奴等が私から力を奪うより、私の回復のが早くてな。失敗した。
……それで、死ねないなら、せめてもう一度誰かを顕現させようと思ったんだ。
例えその刀が彼らでないとしても、誰かが一緒なら私は耐えられると思った」
「それで、顕現できたのか?」
「いいや。
試しに打った短刀には……どうも中身が、魂が入っていなかったんだ。
古刀を盗んで顕現することも試みたんだが、それもできなかった。
鬼になった私には、審神者としての力は残されていなかったみたいでね」
「魂が入っていない? ……まさか、お前!」
肉体を失くし、魂だけとなった矢切国広。
器はあるけれど、魂を持たない山姥切国広。
足りないものを補い合えば、自ずと答えは導き出せる。
「ああ、そうだ。
ずっと刀の魂を探していた私は、お前達を見つけてこう考えた。
山姥切国広にその子供の魂を入れ、霊力を持つ人間のお前に顕現させる。
それが、お前達をここに連れてきた理由だよ」
「俺に、審神者の力なんてないんだけどね」
「それならそれで、次の審神者を連れてくればいい。
まぁ、もうその必要もないだろうがな」
暁はそう言って、長義がずっと握っていた傘に目をやった。
長義は、この部屋で暁に傘を突きつけた時の事を思い出した。
あの時彼女は、少しだけ残念そうにしていた。
「私は、お前達を帰すつもりはない。
なら、どうすればいいか分かるだろう?」
長義は、暁の前髪に隠れた角を見た。
鬼になってしまった時点で、彼女はもうどうしようもなかったのだ。
「ああ。だが、その前にこれを」
長義はそう言って、胸ポケットからハンカチを取り出した。
それを暁の手のひらに置くと、丁寧に開いてハンカチに包まれた破片を見せる。
「山姥切国広の破片だ。向こうであいつに会うだろうから、返しておいてくれ」
「……無理だろ。会えるわけがない。
お前達みたいに、とっくに生まれ変わってるに決まってる」
そう言って破片を見つめる暁の声は、微かに震えていた。
「いいや、あいつらは今でもお前を待っている」
長義は、断言した。
俯いて破片を見つめていた暁は、涙で目を潤ませながらも長義を強く睨みつけた。
「いい加減な事を言うな。何故言い切れる」
「あいつらが、お前の刀だからだ。
――山姥切長義の名に懸けて、保証する」
刀としての記憶を持ち、山姥切国広と乱藤四郎をよく知る者として、矢切長義は断言した。
その瞬間、暁の瞳から涙が零れ落ちた。
頬を伝ったそれは、山姥切国広の破片の上を滑り落ち、ハンカチを湿らせていく。
声を押し殺して嗚咽を漏らす暁の首に、長義はそっと傘を当てた。
「それじゃあ、さよならだ。審神者君」
そして、長義は傘を横なぎに払った。
暁の首と胴体が切り離され、その瞬間暁の体が黒い桜の花びらに姿を変える。
屋内だというのに凄まじい風が吹いて、宙を舞う花びらが視界を覆いつくしていった。