全国スペリング選手権大会決勝!
* 本作品は伊賀海栗さま主催の「インド人とウニ企画」参加作品です。
* 雨音AKIRAさまより挿絵いただきました! 爆笑間違いなし、なので下に貼ります!
* 秋の桜子さまよりポスターをいただきました。このすぐ下です!
by 秋の桜子さま
やり手塾長のような風貌の中年女性アナウンサーが、正確無比な発音で言い放つ。
「アコモデーション」
法廷の被告席まがいの壇上に立たされた教え子は静かにリピートした。
「アコモデーション、エイ、シー、シー、オー、エム、エム……エヌ、アコモデーション」
全国スペリング選手権決勝のライブ中継だ。
問われた単語を繰り返し、アルファベットを言い、再度設問を発音し、解答完了。
緑のランプが点けば正解、赤は不正解。
私が校長を務める小学校の、天才と誉れの高いジェイムスは落ち着いて対処できているようだ。ご家族、担任、クラスメイト有志は会場で固唾を飲んで見守っている。
悪いが私は、うちでひとりワイン片手にテレビ観戦。
対戦相手はインド系の女子中学生だ。英国の中学が11歳からだから何年生だろう?
いや、何年生という言い方もそぐわない。中等教育は年齢よりも学力のキー・ステージをクリアしたかどうかで進級するのだから。
スペリング選手権の出場資格が9歳から13歳の誕生日までで、歴代の優勝者は中学生ばかりだ。よく出題される難解スペルを記憶するのはジェイムスも得意だが、求められる単語の概念を理解できているかどうかは甚だ疑問。
対戦相手も13文字単語をするりと答えて会場の緊張は増していく。
司会者が「第二部では何文字単語かは指定されず、中には外来語も含まれる」と説明している。その代わり解答者は、問われた単語の語義と品詞、どの言語派生の単語か質問してよいらしい。
また冷たい女性の声が響く。
「ゲゼルシャフト」
返答順はインディーちゃんからだ。
便宜上そう呼ぶことにした。解答者席に名前が掲げられていない。胸元に小さな名札をしているだけだ。ほろ酔い気分で名前を聞き逃した私が悪いな。
音楽のインディーはインディペンデントの略だが、黒目がちの大きな瞳で、ポニーテールを三つ編みにしてすっくと立つ彼女は独立戦争に向かう女戦士のようだから。
国籍はブリティッシュなのだろう。困ったことにエイジアン・ブリティッシュと呼ばれる彼らは見た目ではインド系かパキスタン系かわからない。そして混同されることを酷く嫌うのだ。それでどれだけ私がPTAにいじめられたか。
その上、パキスタン系の生徒を親愛の情を込めてパキちゃんなどと呼ぶと大変なことになる。蔑称になってしまっているのだ。
私が人種のるつぼ学校の教師の苦労を思い巡らす間に、インディーちゃんはゲゼルシャフトの意味を聞き、元はドイツ語と確認してからスペリングを正解した。
Lがふたつあるなんて知らなかったよ。
ジェイムスへはゲマインシャフトかな、などと楽観していると、「アンガージュマン」だそうだ。
でもそれは、「婚約」と一緒だろ?
簡単過ぎないか?
まあ、仏語由来だと英語とそっくりでも、イーが増えたりディーが減ったりすることもあるから混乱しやすいか。
うちのホープは腰の強い漆黒の短髪に手をやって、「こんなので正解貰っていいの?」とちょっとはにかんでからスペルアウトした。
出題はどんどん複雑になっていく。ラテン語系の病名、身体のどこにあるのか知らない骨の名前、神話の女神の名前と続く。インディーちゃんもジェイムスも間違えそうにない。
観客のほうが緊張を持て余し、「はあー」とため息を吐く音がテレビにまで響いてくる。
それにしても、どうしてスペリングはアジア系が強いのだろう?
暗記が得意なのだろうか?
脳内が整然としている?
根気の問題か?
ケルトだろうがラテンだろうが、アングロサクソンだろうがヴァイキングだろうが、自分はブリティッシュではなくイングリッシュだと胸を張る者は、自分も含めてだが、単調なことを突き詰める力が弱いのかもしれない。
数字ゼロを発見した偉大なインド人、そしてジェイムス、彼は日系。
禅は英国で大流行りだがどこまで理解されているか、いずれにせよ、どちらも無、ナッシングネスに意味を見いだす文化なのかもしれない。
彼らの脳内は無限の宇宙空間で、アルファベットがふわふわ漂っているのか。
アジア脳の雌雄を決する戦いが画面の中で続いていた。
とうとう、サドンデスに入るらしい。
主催者側からの出題では傾向と対策が考え尽くされているとみたのか、これからは解答者同士で弱点探しをさせるつもりだ。
インディーちゃんがジェイムスに問い、彼が答える。ジェイムスが出題する。彼女が答える。そのやりとりが何度も続いた。
ありがちな長い単語や小難しい哲学用語はなりを潜め、ふたりの得意分野の質問が増える。もしかしたら盲点は、キッチンとかチキンあたりにあるのかもしれない。
とりあえず、インディーちゃんは花の名前、ジェイムスは化石や動物名の応酬だ。
「フズリナ」
ジェイムスの出題にインディーちゃんが「それはいったいどんなものだ?」と質問する。
「古生代の化石の一種で紡錘状をした有孔虫」
紡錘状という言葉を、フズリナと同語源のフュージフォームという一単語ではなく、敢えてスピンドル・シェイプトと言い換えたジェイムスの頭の良さのほうが恐い。
「エフ・ユー・エス・ユー……」
インディーちゃんのスペルが始まる。彼女はそれでもフュージフォームという単語を想い浮かべて正解してしまう。
手もとのスマホではフズリナのSがZに間違って出てきているのが笑える。
「クリオネ」「クレオメ」
などというやりとりの後、ジェイムスが手を上げた。
「ふた単語でできた言葉でもいいか?」
審判は「明らかにふた単語で名詞として機能しているものならいい。その場合は間に『スペース』と唱えること。繋げて使われることもあればどちらでも正解にする」との細則をつけた。
不利にならないようインディーちゃんからの出題になる。
「カーマ・スートラ」
赤ワインをテレビに向けて吹き出すかと思った。12歳のインディーちゃんの口からこんな言葉が出るとは。
本の題名は固有名詞で対象外ではないかと疑問にもなるが、今まで出題されたどの言葉より普段の会話に使われる頻度は高い。
我が校の天才君は見た目ほど朴訥ではないらしい、うっすらと頬を染めた。
しかし、カーマとカルマの区別はついているか?
カーマにはRはなく、愛や欲望の意、カルマはそこから生じる業、だ。
私の心配をよそに、ジェイムスはもじもじしながら正解した。11歳になるかならないかでどうしてそんなに恥ずかしがるんだ、読んだことでもあるのか、ウィキでも眺めたのか?
ジェイムスは居住まいを正してから、とっておきの単語を出題した。
「シー・アーチン」
ぶっ!
とうとう口から飛び出した赤ワインはジャージのズボンに着地した。ウニは食べたことはないがあの山吹色と赤ワインと、どっちの染みが落ちにくいのだろう?
なぜそんなにツボにハマったかと言うと、ウニがジェイムスのあだ名だからだ。
長く伸ばせばしんなりするのだろうが、彼のあの強い髪は、短いと針のように立ち上がり、つんつんしている。生徒たちも触らなければいいのに、わざわざ撫でては痛い痛いと繰り返す。ブロンドもアフロももっと手触りは柔らかいのだ。
それに加えて本人が、父親とホンモノのスシを食べに行った、皿はぐるぐる廻っていないし、むっつりした職人さんにその都度頼まなきゃならなくて恐かったとか、父がウニなんて信じられないものを美味そうに食べたとか話すもんだから、ばっちり定着してしまった。
ジェイムスのミドルネームがアーチーで、ハリー王子の息子がつい最近、この古めかしい名前をつけられたことも火に油を注いだのだろう。
「て・ん・さ・い・の、ジェイムス・アーチー・シー・アーチン」とはやし立てられているのをよく耳にする。
アーの発音はそれぞれ違うのだが、インディーちゃんもそこを間違えたりはしないだろう。
「シー・アーチン、エス・イー・エイ・スペース・ユー……」
やはり正解、決着はまだつかないなとテレビから目を離し、ワインの染みに塩をかけて擦った。
赤ワインにはすぐさま塩、白ワインをぶちかけるのもいいそうだが、それでは余りにもったいない。
迷いのない声がスペリングを終えようとする。
「……アイ・エヌ……」
そう、よくできた、シー・アーチンと繰り返せばそれで正解だ。
「イー」
「え?」
テーブル・ソルトの瓶を取り落とした。urchineと綴ったのか?
「シー・アーチン」
彼女の声がして画面いっぱいに赤ランプが広がった。
少し遅れてジェイムスに対する拍手が起こる。
司会者がインディーちゃんを慰めるべく急いで画面に登場し、ふたりの間に立った。
ジェイムスはその司会者が邪魔とでもいうように、首を伸ばしてインディーちゃんのほうを窺う。
そして右手を差し出して数歩近付いて行った。
「お、勝者の余裕だな、さすがうちの天才アーチン」
インディーちゃんは悔しがるでもなく満面の笑顔で手を握り返した。そしてぐっと引きつけると、ジェイムスの頬にふいっとキッスした。
頬を押さえて驚くジェイムスに彼女は何か囁いている。彼の顔色がどんどん赤くなる。
「ああ、戦い抜いたふたりにしかわからない話があるのか?」
クリオネの俗称はシー・エンジェルだったよなと思いながら、ささっとスマホでクレオメの花言葉を調べた。
「秘密のひととき!」
こっちが赤面してしまった。
「アーチンっていたずらっ子のことよね。私をエンジェルって言ってくれたのかもしれないけど、クリオネって触手があって実は恐いのよ。それでもいいなら天使といたずらっ子ふたりの秘密のひとときを持ちましょう、カーマ・スートラみたいに」
いや、12歳の女の子がそんなこと言う筈がない、悪質なアテレコだ。インディーちゃんも天才に違いないとしても、あの緊張感の中での対戦でこんな深読みできるもんじゃない。
私もワインと塩まみれ、相当酔いが回っているらしい。
私の仕事は月曜日、戻ってきた天才君を朝礼で褒め讃え、あのウニ頭をぐりぐりしてやることだろう。
遠恋の年上彼女ができたのかどうかは、不問にしておこう。
by 雨音AKIRAさま!