「まじかよ」
コールド・・・試合成立となる回以降、イニングごとに設定された以上の点差で終了した時点で試合終了となること。
ベースカバー・・・守備側野手の役割の一つ。別の野手からの送球を受けることを予想してベース直近に位置し、その塁に向かってくる走者に対してプレイを行う。また、野手の打球処理の失敗や悪送球に備えて後方で待機する。
リード・・・打者が打つ前に走者が離塁しておくことである。
牽制・・・盗塁を防いだりアウトにする目的で、走者のいる塁の内野手に投手や捕手が投げる球。
普段なら吹奏楽の演奏で賑やかな保土ヶ谷球場も、今日だけは静かだ。
閑散とした球場に吹き込む秋の風が、余計に冷たく感じる。
スタンドには対戦校の彼女らしき生徒が数人と、愛犬の散歩中に寄っただけの老人が座っているだけで、清々しいくらいの注目度の低さである。
「よろしくお願いします!」と不揃いに頭を下げる相手に、自分たちも負けてはいない。桜商ナインの挨拶も綺麗に乱れていた。流石は弱小校対弱小校だ。
ベンチに駆け足で戻ると、監督は顔をしかめて出迎えた。公式戦だというのに、髭も剃らず髪もボサボサ。高校野球の監督とは信じ難い身なりだ。そんな山県に相手の監督も驚いていた。
「お前らあの挨拶どうにかならないのか? 監督として恥ずかしいぞ」
山県が寝癖だらけの髪を掻き毟る。
俺たちは部員としてあんたが恥ずかしいよ、と凛太朗は思う。周りの顔を見るからに、皆同じことを思っているのだろう。
「まあいい。とにかく、くじを引いた村上に感謝だな。一回戦から格上と当たるのは避けたかったからな」
「監督の言う通りだぜ! あの相手ならコールドもいけるかもな!」
便乗した林が唾を飛ばす。
対戦相手の湘南東高校は、どこにでもあるごく普通の進学校だ。
山県が事前に調べた情報によると、万年一回戦や二回戦で負けるようなチームと言っていた。確かに相手のベンチを見る限りそれも納得できる。湘南東の部員たちは、ユニホームの着こなしもなっていないし、ベンチでも談笑してばかりだった。
「相手よりも、こいつが・・・・」
赤焦げた長い髪をした勝部が親指を立てて凛太朗を指す。
凛太郎の額には先程まで貼っていた冷えピタの跡が残り、顔色も青白い。
「さっき俺に熱は下がったと言ったよな?」
「はい。一応」
「じゃあ、一応聞く。何度だ?」
「37,7度です」
凛太朗がゴホゴホと咳こむのを見て、山県はやれやれといった表情で頭を抱える。
「なんで言わなかったんだよ。もうオーダー出しちゃったぞ」
凛太朗は「すんません」と言って帽子を取る。
実は言ったのだ。はっきりと。しかしこの山県という男は、試合前に携帯をしきりに見てはそわそわし、凛太朗の言葉にも「おう、わかった」と気の無い返事をしたのだった。
どうせ携帯を確認していたのも、英語教師の黒川にメールでも送ったのだろう。あれだけ鼻の下を伸ばしていたのだから、間違いない。
「先発はこのまま綾瀬でいくから、なるべく早く試合を終わらせてやれ!」
「なら絶対コールドしてやろうぜ!」
再び円の中で林が大きな声をだすと、笑いが起こる。初めての公式戦だというのに、和気藹々としていた。
凛太朗はおでこを触り、「ふぅ」と息を吐いてマウンドを見つめる。
コールドをする、と言ったものの、そんなに甘くはなかった。
試合は桜商が3対2と、1点リードして9回裏を迎えた。この回を抑えれば見事初勝利を手にすることができるのだ。
「ドンマイ! ドンマイ!」と林から声をかけられる。
桜商の失った2点は、林のエラーと林のエラーによるものだった。要するに全て林のせいだった。
そもそも誰の所為で今のランナーが出たのだと思っているのだろうか。凛太朗は舌打ちをして林を睨むと、白い歯を見せて、親指を立ててきた。
だめだ。これ以上関われば熱が上がる。
凛太朗は一塁上にいる走者に目を向ける。ランナーは監督から出されるサインを見逃さないように、ベンチを凝視している。
九回裏無死一塁、湘南東からしたら何としてでも1点が欲しいところだろう。
「やっぱバントだよな」
凛太郎は目で牽制をする。一塁ランナーが大きくリードするからだ。すると凛太朗と目が合ったランナーは、リードを縮める。自分の目つきの悪さが、こんな時に役に立つのはなんだか複雑だ。
村上が不安そうな顔をしてサインを出す。しかし凛太朗は頷かずに首を振る。今日の試合でこういった場面は何度かあった。それに村上が凛太朗の球を捕球できないこともしばしば。
村上は一球外せとサインを出すが、凛太朗は外さずにストライクをとりにいきたい。おそらくバントを簡単にはやらせたくないのだろう。気持ちは分かるが、体調が良くない凛太朗としては無駄球を無くしたいのだ。
観念したのか、村上は凛太朗の要求を受け入れる。
それでいいんだ。凛太朗は大きく頷いてみせる。
バントの構えを行う相手打者を一度睨んで、投球動作に入る。ところが凛太郎が投げると当時に、相手の打者はバットを引いて、ヒッティングの構えになる。
「ーーまじかよっ」
凛太朗の投じた一球は、打者からすると打ってくださいと言わんばかりの絶好球だった。
静かな球場に金属音が鳴り響く。
鋭い打球がファーストを守る平川と、セカンドを守る三嶋の間に転がる。
ーー三嶋っ!
凛太朗は祈るように心の中で叫ぶ。
祈りが通じたのか、三嶋が横っ飛びをして素早く反応する。打球は辛うじてグローブに収まる。そして三嶋はクルッと上半身を反転させて、二塁に送球した。
しかし、審判の下したジャッジはセーフだった。ショートを守る徳野が、二塁へのベースカバーを怠ったのだ。
「み、三嶋!」
平川が一際大きな声を出した。
「おいおい、嘘だろ」
凛太朗の目に映るのは、地面に膝をついたまま起き上がれないでいる、三嶋の姿だった。四つん這いになった三嶋に、平川と審判が何かを話している。
何があったのかは分からない。ただ、苦悶の表情を見る限りどこかを痛めたのだろう。
すると平川がベンチにいる山県に向けて、バツマークを表現して合図を送る。平川は三嶋を肩に担いでベンチまで連れていく。右足を引きずりながら歩く三嶋の顔にいつもの明るさはなかった。
日差しが凛太朗の肌をじわりと照らす。鼻の下に汗がたまる。今年は特に残暑が酷いと、ニュースでやっていたの思い出す。
せめてこの重苦しい空気を吹き飛ばす風でも、吹いてくれるといいのに。
ベンチから二年の佐々木が飛び出てくる。どうやら負傷した三嶋の代わりに試合に出るらしい。その佐々木がレフトについて、レフトにいた二年の丸子がセカンドについた。当の三嶋はベンチで山県の応急処置を受けて、ベンチに座っている。
掛け声が小さくなる。三嶋が今日の試合で誰よりも声を張っていた。みんなの表情が硬い。負け、という言葉が頭にちらつきだしたのだ。
九回裏無死一、二塁。最悪な状況だ。外野を抜ければ同点、またはサヨナラ負けなんてことも考えられる。
幸いにも相手は八番打者だ。しかも今日はここまで凛太郎に対してノーヒット。完全に打ち取っていた。
こいつなら外野の頭は越えない。
細々とした体格の打者が打席に立つ。村上が一度ベンチを見る。そして外野に前進の指示を出す。
「佐々木先輩! もっと前です!」
村上がミットを口に当てて、大きな声を出す。
佐々木は驚いた顔をして、慌てて前に出てくる。しかし今度は前に出すぎだ、とセンターの勝部から声が飛ぶ。
大丈夫なのだろうか。凛太郎は額の汗を拭いながら、レフトを見つめる。佐々木の顔色はどんどん悪くなっているように見えた。
村上とのサインが決まる。凛太郎はど真ん中に構えるミット目掛け、ストレートを力一杯投げ込む。打者が力ないスイングをして空振りをする。続く二球目も空振りをとる。
やはりタイミングが全く合っていない。この調子で残りの打者も三振で打ち取れば、勝ちだ。
そしたら帰って速攻で風呂に入って、寝る。今日はこれでお終いだ。
凛太郎は村上のサインに頷く。それからグローブの中で硬球の縫い目に指をかけ、握り直す。最後は高めのストレートでーー。
金属の乾いた音が鳴る。
凛太郎はしまった、と顔を歪める。回を追うごとに、ストレートの球威が落ちている事には気付いていた。それでも、この程度の相手なら抑えられると思っていた。
力のない打球が、レフトを守る佐々木の所に飛ぶ。
白球は風に乗り、高々と舞っていく。




