「そんだけだ」
神様なんていない。ましてや野球の神様なんているはずがない。
誰かが言っていた「野球の神様は毎日バットを振る姿を見守ってくれているんだよ」と。じゃあ何故、誰よりもバットを振り続けた兄が、あの時怪我をしなくてはいけなかったのだろうか。見守っているのではなかったのか。
凛太朗は圭太が苦しむ姿を誰よりも近くで見てきた。
怪我が影響で圭太は、元の左打ちから右打ちに変更を余儀無くされる。それからは推薦取り消しの電話が鳴り止まず、家中に響くコール音が耳にこびり付いて離れない日々が続いた。
それでも当の本人が恨み言の1つも言わないのだから、凛太朗は余計に胸が痛んだ。
ーー神様なんていない。
雑木林を抜けた先に例の池がある。
池の周りは急な斜面に囲まれていて、降りるのも登るのも一苦労だ。
「ーーちっ」
雑木林から下を覗くと、一人の少女が足首を押さえてうずくまっていた。青色の体操服姿、間違いない。桜商の生徒だ。
足元には大きな石ころが転がっていたり、無数の枝や草が滑り下る凛太朗の邪魔をする。
「大丈夫か?」
乱れた呼吸を落ち着かせながら、うずくまる真帆に声をかけるが、返事はない。ずっと地面に座り込んで俯いたままだ。
土で汚れた体操服。おそらく足を滑らして転落したに違いない。
「・・・・なんでここにいんのよ」
真帆がポツリと呟いた。いつもと違って声に覇気がない。
「別に理由なんてどうだっていいだろ。それよりも雨が降る前に帰るぞ」
分厚い雲に覆われた空を見上げる。もし今雨が降ると、この角度のついた斜面を登るのはきつい。
「ほら」と凛太朗はしゃがんで真帆を担ぐ体勢になる。
「なにカッコつけてんのよ。別にあんたの助けなんてーー」
真帆は自力で立ち上がろうとするも、すぐに地面に膝をつく。そして泣くのを堪える子供のような顔で、真帆が凛太朗を見る。
「ほらみろ。そんな左足じゃ無理だろ。わかったらさっさと乗れ」
「変なとこ触んないでよね」
「当たり前だ」
凛太朗の決して大きくはない背中に、嫌そうな顔をして真帆が乗りかかる。
「意外と重ーー」
そう言いかけると、後頭部に痛みが走る。真帆が拳で殴りつけたのだ。
お約束みたいなもんだろ、と凛太朗は思いつつも口にはしなかった。
「ほんとに大丈夫?」
真帆が心配そうに訊いてくる。
「なんの為に毎日走ってると思ってんだ」
真帆は少し黙って「そっか」と小さな声で答えて、凛太朗のジャージを握りしめる。
夏休みから今まで、散々走ってきた日々が頭に浮かぶ。ただ、いくら凛太朗でも人一人おんぶした状態で登るのは自信がない。
背中に柔らかな感触を感じた。もちろん高宮と比べると少々小ぶりだ。だがそんな事を口にすれば、次は息の根を止められかねない。余計な事を考えるな、と凛太朗は頭を振る。
真帆の鼓動が早まっているのが分かった。凛太朗には真帆の体温、吐息、全てが背中を通じて伝わってくる。それが伝染したのか、凛太朗の鼓動も早まる。
「ごめん」
凛太朗の震える足を見たのか、真帆が弱りきった声を出して、背中に顔をうずめる。
立つだけで精一杯な凛太朗は何も言わない。
崖のような斜面も残すとこ半分になり、後ろを振り返る。ゾッとした。もし足を滑らして落ちるようなことがあれば、二度と登れる気がしなかった。
ひんやりとした雫が頬に触れた。ーー雨だ。
幸いにも雨はぱらついてるだけで、登るにはまだ問題なかった。しかし、土砂降りになって地面がぬかるんだら、その時は終わりだ。早く登りきらなくては。
凛太朗は息を吐き出して、足先に力を込める。奥歯を噛み締めて一歩、また一歩と地面を踏みつける。
息遣いが荒くなる。足が鉛のように重くなる。真帆を支える腕も痺れだす。凛太朗の体は限界だった。
真帆の程よく筋肉のついた太ももの感触とか、柑橘系の甘い匂いがするとか、そんな事はどうだっていい。凛太朗は「うぐぅう」と声を出して最後の力を振り絞る。それに反応して真帆も力強く抱きしめる。
視界が広がる。辺り一面草木が生い茂っている。
呼吸が乱れて上手く言葉が出ない。
「やるじゃない」
真帆が耳元で囁く。
「ま、まあな」
「雨、強まっちゃったね」
「ああ。ゆっくりしてらんないな」と言って凛太朗は一度真帆を下ろす。
「な、なによ」
「いいから黙って着ろ」
半袖短パンの体操服を着た真帆に、凛太朗は自分の着ていたジャージを手渡す。するといつになく素直に、凛太朗のジャージに袖を通す。着てみるとぶかぶかで、まるで寝間着を着た子供のような姿の真帆が恥ずかしそうに目を逸らす。
「あんた明後日試合じゃない。私の心配より自分の心配しなさいよ」
「馬鹿は風邪引かないんだよ」
「それ自分で言ってどうすんのよ」
「・・・・ほら行くぞ」
凛太朗は再び真帆を背負う。
今いる雑木林から野外活動施設まで30分くらいだろうか。いや、この状況なら1時間は見積もったほうがいい。雨音が次第に強くなる。
「なんで助けにきてくれたの」
「・・・・」
凛太朗は歩き続ける。お互いにずぶ濡れで、真帆の髪の毛を伝って落ちてくる雫が首元に流れて冷たい。
「助けに来るようなガラじゃないでしょ」
「馬鹿にしそびれたんだよ」
「は?」
「だから」と凛太朗は、降りしきる雨の音にかき消されないように声を張る。
「野球の神様なんて、いるわけないだろバーカって言ってやりたかったんだよ」
「なにそれ。そんだけなの? ほんとにバカなの?」
真帆が笑う。
「そんだけだ」
凛太朗は即答する。
それからどんな会話をしたとか、どれだけ歩いたのか、あまりよく覚えていない。
分かることは今、ベッドの上に横たわっているという事だった。小窓からは朝日の眩しい光が差し込んでいる。隣には布団がめくれたベッドがあった。
凛太朗が目を見開いて辺りを確認していると、「目を覚ましたのね」とジャージ姿の女性におでこを触れられる。この女性が保健室の先生であると理解するのに時間がかかった。いつもの白衣を着ていないとわからないものだ。
「綾瀬くんすごい熱だったんだからね。西野さん担いで現れた時は本当にみんな驚いてたよ」
凛太朗の額にタオルをのせて、先生が微笑む。
そういえば高宮に「あなたがいないお陰で美味しいカレーが食べれたわ」と嫌味を言われたような気がした。
「先生、西野は?」
「左足の足首を捻挫してるけど、西野さんは元気よ。今はもうクラスの子たちと合流してるかな」
「なるほど。あいつの方がバカってことか」
「え? どういうこと?」
「いや、なんでもないっす。それよりも俺はこれからどうなるんですか?」
「そうね、綾瀬くんはこれから親御さんが迎えにきてくれます。申し訳ないけど、みんなと一緒にはお別れできないね」
寝込む凛太朗の顔を、悲しそうな顔で先生が覗き込む。
「俺友達いないんで大丈夫っすよ」
「あらそうなの?」と先生はニヤニヤしながらポケットから折り畳まれた紙を取り出した。
「西野さんから手紙を預かってたの」
「あいつからっすか」
渡された手紙を広げるとそこには大きな文字で、『明日の試合負けるな!』とだけ書かれていた。
「誰のせいで熱出してると思ってんだよ」
うっすらと笑みを浮かべて、凛太郎は手紙を枕元に投げる。
先生は用があると言って出ていった。テントには凛太朗だけになる。雨で濡れた木の匂いが室内に充満する。昨日の雨が嘘かのように、外は晴れ晴れとしていた。
凛太朗が仰向けで天井を眺めていると、LINEの通知で携帯が震えた。ポケットからだるそうに取ると、画面には『村上』と表示されていた。
開くと『早く元気になれ。野球部1年一同』と一文だけ来ていた。
男子野球部にとって初めての公式戦は、明日に迫っていた。
最後まで拝読ありがとうございます!
次回は公式戦です!お楽しみに!




