「誰が為に」
高宮雪は横浜市内にある高級タワーマンションを見上げていた。
「突然呼び出して、なにか用かしら?」と姉である夏華が口を開く。潮風に髪をなびかせる夏華の姿はとても美しい。
背は雪よりも少し高く、体重も夏華の方が重い。しかしそれ以外は何も変わらない。髪型やスタイル、振る舞いも瓜二つだ。
「黙っていてもわからないのだけど?」
感情のこもらぬ声と冷淡な態度。まるでロボットのように表情1つ変えない。それでも雪には、今姉が苛立っているのが分かった。
「今日のことで、どうしても伝えなきゃならないことがあるの」
「そんなこと聞きたくないわよ」
夏華は息を吐き出す。
「お願いだからちゃんと聞いて」と雪は夏華を真っ直ぐに見つめる。
「私は画家にはならない」
「だからなんでなのよ。あなたには才能があるの。数年もしたら世界を代表する画家にだってなれるわ。そしたらお父さんやお母さんだって、喜んでくれるに決まってる」
「そんなのどうだっていいの! 私は私の為に生きたいの」
夏華に生まれて初めて雪は声を荒げる。それでも夏華は表情1つ変えず、軽蔑にも近い目を向ける。
「私が私の為に生きなかったら、お姉ちゃんが私の為に生きてくれるの? 違うよね。お姉ちゃんは私のことなんてなんとも思ってないよね。進学する高校も、東京の芸大に勧めるのも全部自分や家族の世間体のためじゃない。私はあなた達家族のおもちゃじゃない」
完全に陽が沈むと、マンション下の街灯たちもぽつぽつと照らされていく。
「あの子になにか言われたの?」
夏華の眉間にシワが寄る。
あの子ーー綾瀬凛太朗。夏華を人生で初めて動揺させた人間だ。
雪は「それは違うわ」と言って、潮風になびく髪を耳にかける。
「あの人は私の決意を後押ししてくれたの」
「決してそんな子には見えなかったのだけど?」
凛太朗の顔を思い浮かべて、夏華は首をかしげる。
とてもじゃないがあの少年からは、人を変えるような力を持っているとは感じれなかった。それよりも、人を不快にさせるようなあの目つき。とことん気にいらない少年だ。
「あの人笑ってたの。まるで子供みたいに。私野球のことなんて何もわからないけど、ボールを投げる綾瀬くんはとても楽しそうだった」
「なんの話をしてるのよ」
夏華の声に少しだけ力がこもる。
「私、今まであんな風に笑ったことなんてなかった。気づくとね、あの人の絵を描いてたの。その時わかったの。私がなりたいのは姉さんみたいになることじゃないって。私はあの人みたいに笑って絵を描きたいの。それをできるのが漫画を描いてる時なの」
「そんなの絶対に後悔するに決まってるわ。あの時、画家を目指せばよかったと思うに決まってる」
「そうね。その時はーー」
そう言いかけると、風が強く吹き抜けて雪のスカートがひらつく。
「死ぬほど後悔してやるわ」
雪は悪戯げに笑って言う。
初めて自分の気持ちを打ち明ける妹に、夏華は開いた口が塞がらない。可愛がっていた犬に噛まれるのと似たような感覚だった。
「もう好きにしなさい。お母さんやお父さんには自分で伝えなさいよ」
夏華は言った。いつも通り抑揚のない、他人事のような口ぶりだ。
雪が「さようなら」と言って去ろうとすると、夏華は引き止める。
「そんなことを言う為に来たの?」
雪は「いいえ」と立ち止まって、
「今のあなたの顔が見たかったからですよ」
そう言いながら、クスリと笑って振り返る。
「なっーー」
口調は誤魔化せても、妹に感じる初めての怒りは顔に出ていたようだ。
「さようなら」
夏華の顔も見ずに短く別れを告げて、雪は道路の脇に停まっているタクシーに声をかける。タクシーに乗り込んでもなお、夏華はその場から離れていなかった。
雪は、そんな姉の姿を横目で見てから「お願いします」と運転手に場所を伝えて、車を走らせる。街灯やお店の明かり、それを歩く人々、夜の横浜市内はとても幻想的な街並みだった。
私の人生は私が決める。
にやつく顔を隠すように、雪は窓の外を見つめる。
最後まで拝読して頂き感謝です!!




