「夏の英雄」
執筆中は時間関係なしにチョコレートを食べています。
最近お肌の治安が悪いのはきっとそのせい。
夏休みが終わったからといって、涼しくなったり、蝉が鳴き止むわけでもない。
一夏の思い出を振り返るクラスメイトたち。どこの海に行っただとか、彼氏とデートしただとか。そんな会話で昼休みは大盛り上がりだ。無理もない。今日が夏休み明け最初の登校日なのだから。
凛太朗はコーヒー牛乳を買うために、騒がしい教室を後にする。この夏休み、ひたすら野球漬けの毎日だった。だから特に話すこともないし、勝部と三嶋に関しては昨日会ったばっかりだ。まあ、クラスで話すとなると、この二人しかいないのだが。
歩いていると違和感を感じた。なんだかズボンがピチっとなっている気がする。
階段を降りている最中に、太もも周りを触ってみる。明らかに下半身が太くなり、サイズが合っていなかった。慌てて伸ばしたりしてみるが、返って破れそうになるだけだ。久しぶりに制服を着たため、最初袖を通した時は特に気にならなかった。まさかこんな短期間でここまで逞しくなるとは誰も思わないだろう。
心の中でクソっと嘆くと、どこからどう見ても不審者面の山県が頭に浮かんでくる。
思い返せばこの夏休み、凛太朗は走ってばかりだった。白球と触れ合う時間よりも、走っている方が断然長かった。走り疲れて木陰で休んでいると、「投手にとって下半身は命みたいなもんだぞ」と耳にタコができるくらい山県から言われた。お陰様で下半身くらいは高校球児らしくなっただろうか。
食堂に着いた凛太朗はゆとりがなくなったポケットから、100円玉を取り出して自販機に手を伸ばす。そしてお目当ての紙パックのコーヒー牛乳を大事そうに取り出して、校則なんて御構い無しに、堂々と歩きながら飲む。
紙パック片手に教室に戻っていると、先ほど通った階段の踊り場に人溜まりができていた。
邪魔臭いと呟いて、不満げに人混みをすり抜けようとする。その時に皆の視線の先を横目で確認してみた。
踊り場の壁には一枚の絵が飾られ、『神奈川県コンクール最優秀作品 「夏の英雄」1年3組高宮雪』と大々的に紹介されていた。
凛太朗は思わず足を止める。よく見るとそこには真っ白なユニフォームを着た少年が、マウンドから投げる姿を描いていた。顔こそ描かれていないが、とても細かく、尚且つ大胆に投手の投げる仕草を再現していた。心臓の鼓動が早くなる。これが心奪われるという感覚か、とひとり納得する。
さぞかしモデルとなった人間は喜ぶだろう。こんなにも美しく描かれ、学校中に注目されているのだから。
ズゴーっと音を立てて、紙パックの中身を飲み干す。
凛太朗が教室に戻ると勝部と三嶋は、ニヤニヤしながらこちらを見ていた。
「英雄さんのお帰りだな」
勝部は憎たらしい笑顔を浮かべて言う。
「なに言ってんだお前」
「見たんだろ? 高宮さんの絵。ありゃーすげぇや。よく描けてるよ」
三嶋が得意げに語る。三嶋、お前はなに様だ。
「どうだモデルになった気分は?」
悪戯げに笑って勝部は訊いてくる。
「だからなんの話だよ」
「はあ? まだわかんないのかよ。あれは絶対綾瀬、お前だよ。あの陰湿な感じといい目つきの悪さといい、な?」
勝部は隣に座る三嶋に同意を求める。すると三嶋も首を縦にふる。
「陰湿な感じもなければ、顔が描かれてなかったんだから、目つきもクソもないだろうが!」
珍しく声を荒げる凛太朗をよそに、二人の間でドッと笑いが起こる。「ごめんごめん」と勝部が笑い声を上げながら謝る。
「まあ、冗談だよ。だけどどう考えてもあのフォームは綾瀬なんだよなー」
「そんなのわかんないだろ」
「じゃあ本人に聞くか?」
後ろを振り返って勝部は一人の少女を見つめる。凛太朗は「いや大丈夫」とすぐさま断る。周りと違って読書をしているからだろうか、なんだか見えないバリアーのようなものを感じたからだ。
それにしても初めて見るような、見ないような。そういえば1年3組って書いてあったな、と目を細めた。
◆◆◆
桜商高校のグラウンドは極めて狭く、男子野球部は端の方に追いやられるような形で練習を行う。円になって行うストレッチですら窮屈に感じるほどだ。
「またこの状況に逆戻りかよ」
小原に背中を押されながら林が呟く。二人一組で柔軟トレーニングを行うのだが、見た目の割に林の柔軟性が高いのがムカつく。
すかさず「そんなこと言ったって仕方ないだろー」と村上が声を上げると、林は「ちっ」と舌打ちだけして黙り込む。
あの打撃馬鹿が嘆く気持ちもよく分かる。
夏休みの間は朝から晩までグラウンドを使用していたので、陸上部やサッカー部と上手く譲り合いながら練習に励んでいた。当然、野球部だけがこの狭いグラウンドを独り占めできる日もあり、凛太朗を除いた面々は打撃練習に精を出していた。しかし夏休みが終わった今、平日となると硬くて危ない硬球を打つことは難しいだろう。
だから打つことしか能のない林は、誰よりも落ち込んでいた。そんな男に哀れみの目を向けていると、村上が凛太朗の背中を何度か強く押して、
「綾瀬はほんとに体が硬いなー。全然曲がんないんだもん」
と言って笑い出す。
うるせぇ、と適当に遇らうが、事実凛太朗の体はめちゃくちゃに硬い。前屈なんてつま先に手が届くことはおろか、膝をタッチすることすら怪しい。
村上が力尽くで背中を押していると、校内放送のチャイムが聞こえてくる。
1年3組綾瀬凛太朗くん、と2回繰り返して、
「至急美術教室、柳の所まで来なさい」
と荒い鼻息混じりのアナウンスが聞こえてきた。
「なにかやらかしたの?」と村上が訊いてくる。
「やっぱりダメだったか・・・・」
「え?」
「いや、なんでもないんだ」
凛太朗は目をそらして答えた。すると村上が、行かなくて大丈夫? と訊いてくるものだから、数秒ほど考えて行く事を決意する。
確実に怒られる。とあの甲高い声でアナウンスされた瞬間に悟った。
思い当たる節が凛太朗にはあった。
美術は選択授業だ。音楽、書道、美術この3つから1つ選ばなくてはならない。凛太朗は特に何も考えず、楽そうだからという理由で選択した。それが全ての間違いだった。
身近にある物を2つデッサンしなさいというのが夏休みの課題だった。部活が忙しく絵なんか描く暇のなかった凛太朗は、シャーペンで適当に野球ボールと金属バットを描いて提出したのだ。誰が見たって手抜きなのは一目瞭然なのだが、提出しないほうが悪だと考えた。
しかし、それがどうやら柳先生の逆鱗に触れたらしい。
凛太朗は、絶望的に絵心が無いと自分で自覚していた。だから何時間もかけて丁寧に描いたつもりでも、出来栄えは適当に描いたのと大差ない。それなら素早く描いて、他の課題をした方が良いに決まってる。凛太朗は効率が悪いのが大嫌いだった。
そんなことを柳先生に言ってしまえば、火に油をそそぐだけだろう。軽い火傷ですむと良いのだが。
必死に言い訳を考えながらグラウンドを歩いていると、背後から声をかけられる。
「やあやあ、夏の英雄さんじゃあないですか。もしかして、これから美術教室かな?」
野球帽を被った女はニヤつきながら言った。
「うるせぇよ。ランニング中だろ。早くどっか行けよ」
凛太朗の歩くスピードに合わせて、隣を走る真帆。
距離が近いからか、肩にかかるほどもない短な髪の毛から、お風呂上がりのようないい匂いがした。
しばらく沈黙が続くと「言われなくても行きますよー」と口をとんがらせ、真帆は走り去っていく。とても女子とは思えないほど綺麗で、しなやかな走りだった。
ほんの少し前まで自分に嘘をついて、現実から逃げていた人間だ。ただの卑怯者だ。そんなやつのどこが英雄なのだろうか。
あんなのは俺じゃない俺じゃない、と言い聞かせながら小走りで階段を上がっていく。
「きゃっ」
階段の踊り場で凛太朗は誰かにぶつかってしまう。
なんだかとても柔らかいものに触れたようなーー。
凛太朗の目の前には一人の少女が倒れこんでいて、周りには画用紙のようなものが散乱していた。
「あっ」と凛太朗は声を漏らす。腰まである長い髪の毛と、ニーハイソックス姿には見覚えがあった。前髪で目元が隠れているが間違いないーー高宮雪だ。
「だ、大丈夫か?」
そう言って散らばった紙をかき集めようとする凛太朗を押しのけて、高宮は慌てて拾い集める。そして物凄いスピードで階段を降りて凛太朗の視界から消えていく。
「・・・・おいおい、これいらないのかよ」
凛太朗は床に落ちた一枚の紙を拾う。
そこには綺麗な女性が描かれていた。高宮によく似た女性だ。けれど、無数の黒い線がそれをかき消すように描かれていた。
このまま床に放置しておくのも気が引けるからと、丁寧に畳んでお尻のポケットにしまう。
もし次会ったらこれを届けたお礼に絵でも描いてもらおうかなと、やましい事を考えた。もちろん冗談なのだが。
しかしその罰か、凛太朗はこの後柳先生にかなりキツくお灸をすえられるのだった。
どうやら夏の英雄は学校の課題には敵わなかったようだ。




