13.ノスフェラトゥ
ノスフェラトゥがついにその口を開く。
俺たちは固唾をのんだ。
「あ、あ、あ、あと少しのところでつつつつつ、ツグミきゅんの体液をいただけたのにぃ……!!」
「…………は?」
変な沈黙。
「あと少しのところでツグミきゅんの体液を!」
「繰り返さんでええわ!」
ほんっとこの町、ロクなのがいねえな?
体液って、血液のことだよな?
そうと言ってくれないと色々困るんですけど??
ノスフェラトゥは生まれたばかりの小鹿みたいにぷるぷる震えながら、長い爪をコートのボタンにかける。爪は次々と剥がれてボトボト地面に落下し、しょうもないつけ爪であることももうバレた。
「邪魔するというのなら、たたたたたっ、ただじゃ済まんぞ!」
ガバッと、大きなコートを開いた。
色白ガリガリ、肋骨の浮いた上半身を爪楊枝のごとき頼りない両脚がガニ股で支えている。そして骨盤の突き出た貧相な下半身には、よく目を凝らしてみなければ確認できない「き●この山」。……って、なんで俺こんなものをまじまじと見せられてんの?
彼はショタを見境なく襲い、性的いたずらをしようと迫るただの挙動不審者だった。本物に惨たらしく殺されればいいと思う。
「てめえ、人の弟に何しようとした!」
言ってて情けなくなる字面だが、事実なのだから仕方ない。
兄である以上は悪漢に毅然と対応せねばならぬ。ツグミも寄り添い、二人でノスフェラトゥと対峙した。
「ううう、うるせえ。お前にはか、かかかかか、関係ねえ」
「関係ねーもクソもあるかこの野郎! ゲスが!」
「ボクのカラダはお兄ちゃんのものなの!」
「お前は黙ってろ!?」
救いようのないアホに怒鳴った、そのときだ。
ギラリ、鈍い光が横目に入る。
公園の照明灯が生きていなければ、それが何かはわからなかっただろう。
ノスフェラトゥが「刃物」を取り出したとき、さすがの俺も言葉を失う。
「おい、やめとけ? 捕まりたくないだろ?」
「く、来るんじゃねえ!!」
ナイフをこちらに向け、震える両手で握っている。
この怯えようなら大したことはないと考え、俺は不用心に前へ出てしまった。
「はあ……。あのな? 俺たちはこれでも学園に守られてる立場なんだぞ? 手を出してみろ、そのときは――」
しかし、これで何かを吹っ切らせてしまった。
「あ、あ、あ、あ、……ぁああああああ!!!」
一閃。
ツグミが「お兄ちゃん!」と悲鳴を上げた。
「っ…、ぐっ……!」
激痛。切りつけられた肩を抑えると、生暖かい血液が指と指の隙間を縫って、溢れ出ているを感じた。
「お兄ちゃん、大丈夫!?」
「浅く切っただけだ、心配すんな」
ノスフェラトゥは目を血走らせ、フー、フーと白煙のような吐息を口から炊いている。
カチカチカチと歯を鳴らしながら、身の毛のよだつ三白眼が俺を見据えていた。
あっ、これはちょっと、ヤバい。
本当に刺されるやつだ。
「お兄ちゃん」
俺の服の裾を、ツグミが指で引く。
「こわぁい……!」
俺の背中に寄り添い、涙声で言った。
その怯える姿に一瞬気を取られてから、
「心配するな」
ツグミの手を取り、一気に、全力で駆けだした。
「待てぇーーー!!」
ノスフェラトゥもすさまじい形相で追ってきたが、あの貧弱貧相な足腰じゃそう追いつけないだろう。
ツグミの温もりを感じたとき、ほんの一瞬だけ、トクンと胸の内が熱くなった。
同時に、今になってあの割れそうな痛みが俺の脳を苦しめ始めたのだが……。奥歯が割れんばかりに本気で噛み締め、痛みをこらえ、それからツグミに言ってやる。
「お兄ちゃんが、守ってやるから」
「くそっ、どこに行ったあ!」
俺たちは滑り台に身を潜めていた。
ノスフェラトゥは近くにいる。ザッと砂を擦って歩く音がいつまでも離れていかず、じれったい。
二人で滑り台に寝そべり、ツグミを抱き寄せ、なるべく姿が見えないようにする。だがもし奴がこちら側に来てしまったら何の意味も無い。
「お兄ちゃんのカラダ、あったかぁい」
「こんなときに何言ってんだ、ボケ!」
やむを得ず身体を上半身から下半身まで、隈なく隙間なく密着させていた。
俺が手酷く罵っても全く耳に入らないのか、ツグミはずっと蒼い瞳をうるうるさせ、俺の口元に熱い吐息をかけ続けている。俺に言わせればツグミもあの強姦魔と同じぐらい怖い。
一本一本絡み合う、指と指。
ツグミは俺の手を強く握って、こう言った。
「ねえお兄ちゃん」
「んだよ」
「前もこんなこと、あったよね」
「っ……、おま……!」
衝撃を受けた。
すぐにわかった。
こいつの言う「前のこと」とは、俺たちの「過去」のことであると。
ツグミは血だらけの俺の体に触れ、血液を指先ですくってから話を続ける。
「ボクもお兄ちゃんみたいに、はっきりとした記憶がないの。だからボクたちに何があったのかとか、そういうのはボクも知らない」
すくった血液を、うっとりと見つめてから――、
「でも、この味は『知ってる』」
俺の血液の塊を、そのまま口に含んでしまった。
「ツグミ……? おい、何を……!」
ぬちゅ。ぴちゃ。
吐息交じりに、指を舐る。
舌先で救い上げる。
ちゅぱちゅぱと音を立てる。
ぽっ、と親指を抜きっとったツグミの頬は、今まで見たことがないぐらい紅潮していた。
「体中が熱くなって、鼓動が早くなって、エッチで乱暴な気分になって――ボク、この感覚知ってる。ボクは、――わたし――私は――――」
「わ、わたし……?」
「私、ほんとは男の子じゃない!」
「……!?」
「こんなの、ほんとうの私じゃない! ねえお兄ちゃん! 何で私男の子になってるの!? なんで!?」
ツグミは今にも泣き出しそうな声で、必死に問い出した。
……突然ですがみなさん、ここで残念なお知らせをしなければなりません。
とうとううちの弟はパラメータ振り切って、度し難い変態になってしまいました。だって、自分で自分のことを男の子じゃないとか言い始めたんですよ? 本当に、何をどこでコイツは人として間違ったのか? もう兄として付ける薬はない。
かといって、目の前の馬鹿をぶん殴る気にもなれなかった。
頭痛がますますひどくなる。
ツグミの叫びに呼応するかのように、頭の中がミキミキミキと、膨張して破裂しそうなぐらいに痛い。気持ち悪い。
ちっ、おかしいな。
俺は特に頭痛持ちじゃなかったはずなんだがな――?
――違う。俺も何かに目覚めつつあるのだ。
封印された悲しき記憶を解き放ち、ありのままの姿に回帰するときが来た。
俺の心臓が、心が、ハートが、そう激しく主張しているのだ。
声をますます大きくして……。
「お兄ちゃん、戻して」
「戻す? 何をだよ?」
「お兄ちゃんならわかるはずだよ? 私を、元に戻す方法――」
「知らねえよ、そんなもの! ……ぐっ……! ああああ!!」
「お兄ちゃん!!」
頭が破裂して、吹き飛ぶのかと思った。
激しくのたうち回ったときに、滑り台の板を「ガコン」と叩いてしまう。
「……そこかぁ!」
まずい! 見つかった!
ノスフェラトゥは血走った目で、折り重なるように密着している俺たちを見下ろした。
どうする!? このままだと殺される!!
「う、う、う、う、羨ましいぞお前ら! なんだ、お前らそんな関係だったのかぐふふ♡ 俺も混ぜてくれよお♡」
――どうやら俺の周りには、死ぬ前に殺しておいた方がいい輩が多いみたいだ。
「混ぜてくれないなら――どうなるかわかってるだろうな?」
俺の血で黒ずんだナイフを、ノスフェラトゥは突き付けてきた。
滑り台の前に立たれてしまい逃げ道も塞がれる。
冗談を抜きにして、俺たちはここで死んでしまうかもしれない。
ツグミは俺の両肩を掴んで揺らし、涙を散らして懇願し続けた。
「お願いお兄ちゃん! 私を元に戻して!」
「元に戻せっつっても、どうやって!」
「私がずっとお兄ちゃんとしたかったこと……わかるでしょ?」
「…………ま、まさか…………?」
ツグミは小さな唇を俺に向けてきた。
まさか、「キス」???
あの白雪姫でおなじみの古典的手法である「キス」???
えっ? えっ? 男同士でキス??????
ふざけんなとしか言いようがない。俺がツグミとキスしろって言うの??
こんな倒錯した行為で封じられしものが解き放たれるなんて、あまりにもひどすぎやしないか?
大混乱に陥る俺の顔を、ツグミが覗き込んでくる。
「お兄ちゃん……っ」
ゾクッ。全身が震える。
しかし、それは恐怖ではない。
「やめろ」
目にかかるぐらいの柔らかな前髪。
まつ毛の長い、ぱっちりとした二重まぶた。
「お兄ちゃん……っ」
「そんな目で見るな……!」
俺の本来よく知っている、俺好みの甘ったるい温もりや匂い。
五感が鈍る。輪郭がぼやける。甘い甘い闇の世界に身を投じたくなる。
そしてツグミは妖しく微笑みながら、こう俺を煽った。
「お兄ちゃん好きだったでしょ? みんなに隠れてする、私とのえっちなキス」
それを耳にしてしまった瞬間。
俺の心臓は爆発しそうなぐらい激しい伸縮を繰り返し、役立たずな脳みそに大量の血液を叩き込み――、
そして、ひと際大きな激痛と共に何か封じられていたものが「破られた」。
【続く】
※「ボーイズラブ」の表記は、一部分ですが、今後そのような描写が入ることが見込まれるため付けております。




