11.急展開
――俺は手を広げて、両側のこめかみを抑える。
ピクピクと血管が波打つ。呼吸は荒くなり、変な汗までにじんできた。
変な感覚だ。
俺自身が、いったい何の話をしているのかよくわからない。
秋津洲以前の記憶は、全て「失われたはずだ」。
それは役立たずの脳みそを経由せず、心臓がありのままのことを、声帯を使って語っているかのような――あいまいな意識の中での独白だった。
虚ろな視線のまま、話し続ける。
「狼は俺たちを見つけると、すぐに突進してきました。俺はツグミを庇って前に出たんですが、あっけなく吹っ飛ばされて……頭をぶつけて……。たくさん出血して……。そして見たものが――」
そのときだった。
ブチンと、直接こめかみから電気を流し込まれたかのような感覚。
頭が、中身から破裂したかと思った。
「くっ! あっ! ぐああああああ!!」
「健介くん!」
座席から真横に崩れ落ち、床の上で激しくのたうち回った。
店員も「お客様!」と呼びながら駆けつけて、一時騒然となる。
すぐにひより先輩が体を起こして、ぎゅっと抱きしめてくれた。おっきくて、底が感じられないぐらいに柔らかくて、それでいて温かくていい匂い。ブレザーを着こんでいるにも関わらず、なんという感触だ。
「ごめんなさい、刺激が強すぎたかしら」
「はい、大変刺激が強すぎました」
俺はひより先輩の胸に包み込まれていた。
湯上りのような、ぽーっとのぼせた表情で先輩を見るのだが、彼女はそんな俺の切ない気持ちなどお見通しであるかのように、胸を押し付けながら「えっちー……♡」と、妖艶な微笑みで頭を撫でてくれる。
「いい子いい子……。ほら。いたくなーい、いたくなーい……♡」
もう俺になすすべはなかった。イケナイお人だ――。
店員が「イチャついてんじゃねえよ」といった視線で、ケッと吐き捨てて離れていく。
気を取り直して椅子に座り直した。ひより先輩も華麗に後ろ髪を払い、再び、俺とテーブルで向き合う。
「では、その狼が何らかの事件を引き起こした。それに、健介くんたちが巻き込まれた。そういうことね?」
「だと思います。――あと、そうだ」
「何でしょうか? 話してください」
「ツグミが豹変して、暴れ出したんです」
「ほう……?」
「ここばかりは本当に怖くて思い出せないんですが……。人が変わったみたいに、『くふふ……♡ のろまなオオカミさん♡』とか、『あは。きったない血。つぐみ吐き気がしちゃいそう♡』だとか言って笑いながら……。色んなものを血まみれにして……。ゾッとします」
するとひより先輩は、不敵に笑いながらこう言ったのだ。
「まるで『女の子』みたいですねえ……?」
「おっ、女の子ぉ……?」
自分の心に深く刺さった一言だった。
確かに小さかった頃は女の子みたいな顔だったし、今だって「女の子みたい」ともてはやされるぐらいには可愛い……らしい。……全くもって理解できないし、する気も一切ないが。
でも、ツグミは正真正銘「男」だ。
まことに遺憾であるが、れっきとした俺の「弟」だ。
でも。もしかしたら、だ。
日ごろの甘ったれた性格や発言は、まさに「女の子」のそれなんじゃないか?
頭を左右に強く振った。
そんなわけがない。ツグミは昔から男に決まっている。
あいつはただ、ちょっと育ち方を間違ってしまった、将来有望なオネエの幼体に過ぎない。ゴキブリ同様、小さくて弱いうちに踏み潰しておくべき人間界のミュータントだ。
「健介くん。本当に、つぐみちゃんは男の子なんですか?」
しかし俺は再度の問いに、真っ向から否定することができなかった。
いったい何が正しくて。
何の状態が正位で。
何が、何によってひっくり返されてしまったのか。
俺にはわからなかった。
学生の町である秋津洲では、ほとんどの店舗は二十一時の時点で営業を終える。
ここ秋津洲ヒルズも、コンビニやコメット珈琲、大人たちのための居酒屋二件を残してすっかり真っ暗になっていた。
ひより先輩は「う~ん」と両腕を上げ、気持ちよさそうに背伸びをしている。
大きく上下するおっぱいと、口元から吐き出される白い息を前に、もうすぐ雪が降りそうだと思った。
鼻の奥が冷気でツンとする。
急に名残惜しくなった俺は、先輩に声をかけた。
「ひより先輩! そういえば先輩ってどこに住んで」
「健介くん、お母様の旧姓、覚えてますか?」
「は、はぁ?」
勇気を出して探ろうとしてみたのが、突拍子もない話題で遮られた。
せっかく「送っていきましょうか?」と繋げていこうと思ったのに。この後のこと、とても期待していたのに。
「……んと、『河垂』ですけど」
半分いじけたような視線を送りつつ、不貞腐れながら答える。
「そう。変わった名前ですね。……少し調べればわかるかも」
「え? 何か言いましたか、先輩?」
「何でもないですっ。じゃあ健介くん、また今度会いましょうね♡」
「ちょっと、先輩!」
慌てて声をかけたときには、黒髪は闇夜に溶けてしまっていた。
一人取り残された俺は、持て余した体内の火照りを全部吐き出してから、がっくり肩を落してしまうのだ。
「母さんの名前が、何だっていうんだよ……?」
俺の母さん――前田ひたきは、普通の人とは違っていた。
とにかく長く、ウェーブのふんだんにかかった銀髪。「蒼い目」。
どこからどう見ても日本人離れしたその容姿は、遠い昔、それも鎖国をしていた時代、ヨーロッパから海を渡ってやってきた民族の血を引いているという説がある。信じられない話だが、事実ツグミも色素の薄い髪と、蒼い目を持っている。
確かに珍しい話だが、それ先輩の何の興味を引いたのかはわからない。
それよりも「また今度」とう魅惑的な一言が頭の中を共鳴し、ソワソワしながら俺も帰途につくのだった。
遅い時間になってしまった。
鉛色の雲が空を覆いつくし、いつ降雪のときを迎えてもおかしくない。
押しつぶされそうな静寂のなか、早く帰って熱い湯に漬かりたいと思った。
さすがにツグミも帰宅しているだろう。スマホの電源を入れ、暗証番号を入力。
今から帰ると一言送ろうと、緑色SNSのアプリを起動したときだった。
ツグミからの、無数の「未読」。
えっ……。
一瞬、言葉に詰まる。
最新のメッセージにはこうあった。
『お兄ちゃん、たすけて』
わけもわからないまま、トーク欄を開いた。
その瞬間、血の凍り付くような思いをする。
ツグミは、いつもの悪ふざけをしているわけではなかった。
『だれかにつけられてる』
『こわい』
『ずっとおってくる』
『ほんとにこわい』
『お兄ちゃん、たすけて』
一体、ツグミの身に何が起きているのか。
返信のため指を動かそうとしたのと同時に、ツグミから『お兄ちゃん!』とリアルタイムでレスがついた。俺が既読を付けたからだ。
俺は凍えて震える指を、液晶画面に滑らせた。
「どうした、なにがあった」
と。
数秒立ってから、ツグミは恐るべき名を俺に送り付けてきた。
『ノスフェラトゥ』
【続く】
※「ボーイズラブ」の表記は、一部分ですが、今後そのような描写が入ることが見込まれるため付けております。




