9.夕方五時の出来事
帰り道。
俺は鼻歌交じりにライトラング・エリアを囲む外周道路を歩いていた。ツグミと一緒に自転車を押して、レフトラングのマイホームを目指す。
自転車のハンドルには、紙袋がひっかけてある。
中身は当然、ひよりんぷるぷるプリンだ。
町中をミュージックチャイムが流れる。
スピーカーが市内じゅうに設置されていて、そこから音楽が流れてくるのだ。
秋津洲でもかつて住宅地だった名残からか、ペンキの剥がれて錆びついたスピーカーがところどころ残置されている。
俺たちもこれを聞いて「もう五時か」と夕飯を買いに行ったり、ソシャゲのデイリーミッションをやり残してないかチェックをしたりするのだ。
『心のふるさと・たじみ』
きっと秋津洲ができる前に暮らしていた中学生たちも、この曲を聞いて夕飯を意識したり、ニュースを点けたり、学習塾へ向かう支度をしたりしたのだろう。
ピンポンパンポン。
チャイムが一回鳴る。そして『……ブツッ……こちらは、広報たじみです…………』と肉声放送が始まった。
『不審人物についてのお知らせです。ただいま秋津洲町で、二十代ほどの不審な男性に声をかけられる事案が多発しています。……服装は、黒のコートで…………』
「ああ、んなこと言ってたなぁ……」
俺が堂々と遅刻をかまして教室に入ってきたとき、ちょうど担任がそんな話をしていた。
「ノスフェラトゥ」に気をつけろ。
警察や学園が事情を聞くうちに、いつの間にかそんな通称が付いた。
間の抜けた話だ。なにせ小中学生に声をかけるゴミが恐れ多くも「ノスフェラトゥ」ときた。
「おい慎、魔人だぜ?」
「俺たちもいよいよ異形と戦うんかね?」
などと、二人で笑い飛ばした。
だが、今の俺には先輩しかいない。
声。笑顔。おっぱい。
すべてがはっきりとした実感と温もりと柔らかさを伴って、延々と脳内リピートしている。
五時ということは、約束の時間まであと二時間。
なにそれ最高じゃん。待ちきれず、ニヤけた顔を抑えられずにいた。
ツグミは何も言葉を発することなく、後ろを付いてくる。
とても珍しいことだ、抱きついてくるツグミを半殺しにすることのない穏やかな下校時間は。
本来なら変態と並んで帰るなどこの場で自害したいぐらい嫌なのだが、今日はたくさんいいことがあったので機嫌が良かった。十年に一回ぐらいは兄らしきところを見せてやってもいい。俺はこの世界で誰よりも寛大な心を持ち、優しいのだ。
「お兄ちゃん」
ツグミが急に立ち止まる。
俺はブレーキを握って自転車を止めると、「んあ?」と気の抜けた表情で振り返った。
いつになく、暗い表情だった。
「お兄ちゃん、昼休み何してたの?」
「何って、えーと、」
教室抜け出して親衛隊倒して、裏切り者を晒しチ●コの刑に処して、高等部の購買でおっぱいプリン買いに行ってました。
……あれ? 俺いったい、ほんとに何やってたんだ?
人生を無駄に過ごしていやしないか??
言い辛かったので、とっさに嘘をついてしまう。
「ちゃんと教室でお前の弁当食ってたよ?」
「嘘だッ!!」
本気で怒鳴られ、びっくりする。
今日までこいつと(不本意ながら)衣食住を共にしてきて、こんなに感情を露骨にされたことは一度だってない。
「つ、ツグミ?」
ツグミは大粒の涙をぽたぽた落とし、怒りに震えていた。
「お兄ちゃん、ひよりさんと会ってたでしょ!」
「なっ!!」
背筋が凍るような思いをした。
作戦のことは秘密であるはずなのに、なぜ知っているんだ?
ツグミは中等部生で会うことはないし、普段コイツからのメッセージには「うぜえきめえ」とだけしか返さない。学校内では、兄弟の縁は切っているのも同然なのだ。気持ち悪いから。
まさか、ずっと「見ていた」……?
ゾッと鳥肌が立ち、背中を冷たい汗が流れていく……。
「お弁当食べたなら、空の箱ボクに見せてよ」
「うっ……!」
食べる時間など、一秒もなかった。
捨てることなんてできないので、家でこっそり食べようと思っていたのだが。
「あとこれ。昼休みに慎さんのズボン拾ったの。こんなことするのはお兄ちゃんぐらいしかいない」
教室にいない証拠をつかまれた。
えっ、てか慎はまだフ●チンなの……!?
真顔になったがいやいやいや、今はそれどころじゃねえだろ。
「さっきバイト先に電話したんだ。店長、急にバックれられたって。おうち帰りたいって泣いてたよ?」
「あー頭いてー! こりゃ熱が四十度あるなー!! マジインフルパネェわぁーーー!!!」
「それに、ひよりさんと抱き合ってたじゃない! ちゅーなんかしてさぁ!」
「ちゅーまではしてねえよ!?」
俺のような非モテコミット丸出しの一般人が、ひより先輩とちゅーなんてできるわけねぇだろ。
でもだからといって他の輩がしているところを見たら、俺、その男に何をするかわかんないし土岐川で土左衛門情報が出たとしても俺知らない。
「ほら! やっぱり!」
「……あっ」
と、あっさり俺の方からボロを出すに至る。
くそっ、中々やるな。我が弟よ……!
「ボクに嘘ついてまでひよりさんに会うなんて、どーいうこと!!」
「お、俺はただひより先輩のプリンを買いに!」
「……っ、こんなもの!」
ツグミはプリンの入った紙袋を取り上げてしまう。
一目見ると「うるっ」と涙を浮かべ、慌てて俺が「よせ、やめr」と言ったのだが、遅かった。
「こんなもの、こうしてやるぅーーーーー!!!」
ツグミは箱を頭上に抱え上げ、豪快に投擲。
おっぱいは外周道路上に「べちゃっ」と悲惨な音を立てて落下し、最悪なことに、駅へ向かう循環バスが通りがかり「ぐちゃっ」と踏み潰してしまった。
「……ぁああああああ―――!?!?!?」
アゴが外れんばかりの絶叫。
がくり。
力無く、両膝を地面に付ける。
おっぱいが……。
帰宅したらすぐ亡き母の写真におっぱいを捧げ、先輩がどれだけ優しくてエッチで慈母愛の化身であるのか詳細な報告をしたあと、身を清めて宿題を済ませ、それからゆっくり食そうと思っていたプリンが。
俺の夢そのものがが。おっぱいが…………。
死んでしまった……!
ぺしゃんこになった紙箱の隙間から、黄色い臓物をぶちまけて……。
「うう……あ、ああ……っ」
握りこぶしをバシバシとアスファルトに叩きつけ、噛み締めた歯の隙間から慟哭を漏らす。地面に這いつくばって号泣することしかできない。
申し訳ありません。ひより先輩。
本当にすまない、ふんどし四天王。
廣瀬慎? 誰そいつ知らない子ですね?
「お兄ちゃん、どうしてひどいことばっかりするの?」
「っ……、お前がそんなんだからだろうが!」
もう我慢ならない。
朝から唇もプライバシーも奪われかけて、その上こいつときたら、俺からおっぱいまでも取り上げようというのか!
「いい歳こいてベタベタすんじゃねえ!!」
「だってお兄ちゃんのこと好きだもん!!」
道路を外側を囲む林から、バサバサと野鳥飛び上がった
思いっきり言い返され、逆に黙らされてしまう。
おっとりとしたツグミからは想像もできない、とんでもない大音声。
俺はあっけに取られて何も言い返せない。
「もう知らない! お兄ちゃんのばかぁ~~~!!」
ツグミは自分の自転車を置いたまま、泣き喚きながら走り去っていった。
男子のくせして両腕を左右にフリフリ振る姿は、撃ち殺したいぐらいキモい。
「どうしたもんか」
後ろ頭をかきながら、途方に暮れる。
というのも、持ち主のいなくなった自転車が寂しくたたずんでいるからだ。
「これ、俺が持って帰れっていうの?」
なぜあんな風に育ってしまったんだと大きなため息が出たとき、外周道路の街灯が次々灯っていった。
【続く】
※「ボーイズラブ」の表記は、一部分ですが、今後そのような描写が入ることが見込まれるため付けております。




