初夏の夜、八重と桜
桜からの緊急電話。切羽詰った様子の桜だが、果たしてその内容とは?
その一報を知らされたのは、奈良寺八重が自宅のリビングでソファに寝そべって本を読んでいる最中であった。初夏の過ごしやすい機構の中、愛読のSF小説を読み進めながら、時折テーブルの上のスナック菓子に手を伸ばす。のどの渇きを覚えたなら、これまたテーブル上のコーヒーを口に運ぶ。そんな風にして過ごす、プライベートな時間だった。
ソファの上、顔の真横に放り投げてあった八重の携帯電話が、不意に着信音を鳴らす。舞い散る桜をテーマにしたその曲は、親友の専用着信音だ。いつもどおりの日常に疑いも持たず、八重は携帯電話を操作する。持ち上げたときに、ストラップに付けた小さな鈴が一鳴した。
「桜ー? どったん?」
『八重、助けて』
「はい?」
親友からのSOSコール。八重は思わず携帯電話を取り落としそうになった。
「ちょ、ちょ、何? 何があったの? ていうか今どこ?」
慌てて確認する八重。桜が素直に八重を頼ってくるなど、そうあることではないからだ。電話の向こうでは、何かけたたましい電子音が鳴り響いており、尋常ではない雰囲気を放っている。がたんがたん、と物がぶつかり合うような音も聞こえてくる。八重の脳内を混乱させるには十分だった。
『八重、落ち着いて聞いて欲しい』
「う、うん。あ、ちょい待って」
すーはーすーはー。八重は深呼吸して心を落ち着かせにかかった。その間も電子音のアラートは鳴りっぱなし、物騒な物音も途絶えることなく、八重の心を焦らせる。その焦りをどうにかこうにか押さえつけ、八重は平常心を取り戻すことに成功した。
「よし、大丈夫。どんとこい」
『あのね、八重……』
「桜のバカ!」
八重は桜の家のリビングに入るなり、一喝した。対する桜はいつも通りの無表情で、それが八重にどうしようもない感情を抱かせる。この親友はちょっと抜けているところがあるが、まさかこれほどまでとは。八重は桜に向けてまくし立てた。
「洗濯機にワイヤーなんか入れたら、壊れるに決まってるでしょ!」
言いながら、洗面所の方を指差す。その先には、数本のワイヤーを巻き込んだ末、警告音を発した挙句に見事に機能を停止した洗濯機の残骸が、哀れむべき姿となって鎮座していた。
『洗濯機が変な音出しながらガタガタしてる』
先ほどかかってきた桜からのエマージェンシーコールの内容だ。要するに、桜は洗濯物の中にワイヤーの束が紛れていたのに気付かず、そのまま洗濯機に放り込んでしまったらしい。
「ついうっかり」
可愛らしい仕草の一つもあれば完璧。桜の美貌なら大抵の人間は許してしまうだろうが、そこは奈良寺八重が相手である。桜の頭を掴んで、拳でグリグリし始めた。
「八重」
「何かな?」
桜はそれでも無表情。そのまま、いい笑顔の八重に言う。
「痛い」
「痛くしてるの! お仕置きの意味なくなっちゃうでしょうが!」
「そう」
「だいたい、何であたし呼ぶの? 電気屋さんに電話しなさいよ」
「だって……」
桜が口ごもる。八重はグリグリ攻撃を中止して、桜の言葉を待った。
「電気屋さん、番号知らない」
「そのくらい調べなさいって……。ま、想像の範囲内ではあるけどさ」
八重は大きく肩を落とすと、ため息をついた。親友の天然ぶりは今に始まったことではない。それより、当面の問題を片付けることを優先することにした。
「よし、じゃあ洗濯物全部ビニール袋に入れて。コインランドリー行くよ」
「コインランドリー?」
首を傾げる桜に、八重は洗濯機から取り出した服を持ってみせる。水を吸ってずっしりと重い服から、ボタボタと水滴が床に垂れている。
「そ。洗濯終わる前に壊れたんでしょ? 中途半端じゃない」
「そっか」
桜も納得したようだ。
「わかった」
そう言って服を詰め始める桜。八重はそれを見て一つ頷くと、床掃除に取り掛かった。
日が沈んだ夜道を、二人の少女が歩いている。大き目のトートバッグを持った八重は、途中の自動販売機でコーヒーを補給していた。携帯電話のストラップに付いた鈴が、歩くごとに微かな音を立てる。
一方で桜はスポーツバッグを肩掛けにして、左手に細長い棒状の布袋を持っている。桜が肌身離さず持ち歩くそれは、既に桜のパーツの一つとして認識されていた。
二人並んで、ゆるゆると歩く。最寄のコインランドリーまでは、徒歩で約十分の道のりだ。別段急ぐ理由も無かった。普段通りの取りとめもない会話をしながら、のんびりと歩を進めていると、ランドリーの明かりが見えてきた。
「誰もいないね」
中の様子を見ると、無人の店内で洗濯機だけが稼動している。このランドリーはナンバーロック式で、洗濯物を入れたらそのまま放置するのが主流だ。八重と桜も、店内に入り適当な洗濯機を見繕って、服を投入した。続けて桜が小銭を入れ、ロックナンバーを入力してスタートボタンを押す。水の流れる音とともに、洗濯機がぐるぐると回りだした。
「ちゃんと番号覚えときなよ? あっちのヤツみたくなると面倒だから」
そう言って八重が指差したのは、ロック解除エラーの表示が出たままの一台だ。誰か慌て者が間違えて入力したのだろう。一度くらいならいざ知れず、数回連続で間違えるとリミッターが発動してしまい、事務員に連絡して解除してもらう必要がある。何を隠そう、八重はその経験があるのだった。
「終わるまで約一時間か。夕食でも食べようか?」
終了時間を確認した八重がそう提案する。桜は頷いて、店の自動ドアをくぐった。
手近のファミリーレストランを目的地に掲げ、二人が歩き出そうとしたときだった。
「八重、あれ……」
二人の先、約百メートルほど前方。街灯に照らされた黒い人影を桜が示す。八重も同じものを見て、険しい表情を浮かべた。そのまま、二人で電柱の影に身を潜める。
「ああ、うん。あたしにもわかる」
人影は全身黒尽くめだった。いかにもな怪しさを持って佇んでいる。
「どう好意的に見ても不審者だね」
二人にとって幸いだったのは、人影が後ろを向いていることだった。八重と桜に気付いた様子は、今のところは無い。それは、不審者のターゲットが二人では無いことを示すことになる。
「あっちから来る誰かさんが標的ってことかな」
「たぶんそう。意識が完全に向こう側を向いてるから」
密やかに話す二人。不審な人影はそのまま立ち尽くしている。そのまま様子を見ていると、やがて人影が路地へと消えた。
「いなくなった、わけじゃなさそうだね。どっちかというと、隠れたって感じかな」
「まだいる。遠ざかる気配がない」
八重も桜も、冷静に相手の動きを探っていた。
しばらくすると、人影が見つめていた先から一人の女性が歩いてきた。潜む二人の少女とは、どちらも面識が無い。女子大生くらいか、大人びた雰囲気の女性だった。女性は少し早足で、焦り気味だ。そのまま人影の立っていた地点を通過する。その数秒後に、再び不審人物が路地から姿を現した。
「ストーカーかな」
八重が呟く。桜は声を出さない。二人はじっと気配を消して、電柱の影に隠れている。
女性が二人の前を通り過ぎた。二人に気付いた様子はない。続けて、黒い人影。八重はそれが通過する際に顔を見ようとしたが、フードの下でよく見えなかった。
「八重」
するりと、電柱の逆側へ回り込みながら、桜が小さく呼びかける。八重も同様にして身を隠すと、視線を合わせて頷いた。
二人の位置から、ランドリーの中が見える。女性は洗濯機の前で、何か操作をしていたが、やがて機械をバシバシと叩き出した。それは先ほど八重が見ていた、ロックエラーの出ていた洗濯機。不審な人影は店の入り口付近で中の様子を窺っていたが、女性が洗濯機を叩き始めたあたりで、入り口へ向かって移動を開始した。
「しょうがないか。行くよ、桜」
「わかった」
女性が危険に晒されている。そう判断した八重は、桜に合図を送ると、電柱の影から出て行った。桜もそれに続く。人影に近寄った八重は、場違いなほどに明るく声をかけた。
「ちょっとそこ行く不審者さん、あなたは何をしてるのかな?」
「!」
八重の声に、びくりと全身を震わせて、人影が振り向く。ランドリーの明かりに照らされて、人影の顔が二人にも確認できた。
見たことの無い男の顔だった。焦りの表情を浮かべて、声をかけてきた八重と桜を交互に見る。
「ちっ、ガキどもめ。面倒なとこ見られちまったか」
男が初めて声を出した。どこにでもいる、何の変哲も無い男の声に聞こえた。しかし、その中に確かな危険を感じさせる。男は黒いジャージに黒いフード付きのジャケットを羽織っていた。ポケットに入れられていた両手を出すと、僅かに前かがみの姿勢をとる。
「いきなり!? まあ、予想できてはいたけどさ!」
男の動作は、武術でいう“構え”の姿勢への移行。八重と桜は瞬時に判断し、迎撃の態勢を取る。八重は桜の横へ飛びのき、桜は長棒を袋から取り出した。
「その袋、やはり木刀だったか!」
男が言いながら、猛スピードで突進した。間を開けて両側へ避ける二人。桜がすれ違いざまに木刀を男の胸に向けて斬り払う。
唸りを上げる木刀の一撃を、上半身をかがめて男がやり過ごす。そのまま上半身の捻りをかけ、右の拳で桜の胸を狙った。
「はぁっ!」
親友への攻撃は許さじと、八重が反体側から前蹴りを繰り出す。パンチの軸足を背後から払われて、男の体勢が崩れる。
「せい!」
桜の上段からの斬撃が男を襲った。男はそれを右手の肘から先で受け止めにかかる。その光景は、八重に妙な予感を抱かせた。
(桜の上段斬りは、普通に腕で受けられる威力じゃない。初太刀の横薙ぎをかわした時点で、向こうもそれは理解してるはず。にも関わらず、あえて腕で受けようとするってことは、腕に何か……)
がぃん、と。硬質の物体同士がぶつかる音がして、八重の予感が正しかったことを告げる。攻撃を止められた桜へ、今度は男の左拳が突き出される。それは男にとって必殺のタイミングだった。
「まだ……!」
桜は相手の腕の上で木刀を横へ滑らせる。斬撃に乗せていた体重を、膝を折って強引に下へ逃がすと、男の左拳に合わせるように、柄頭をねじ込んだ。
「ぐおっ! なんだと!」
左の拳を木刀の柄で防がれた男は、驚愕の声を上げて距離をとった。桜が予想外の達人であることを悟って、体勢を立て直そうというのである。彼は桜の技量に注目するあまり、一瞬もう一人の少女のことを失念していた。
男が飛びのいた先、背後から突然視界を奪われる。桜の投げ捨てた木刀袋を八重が拾い、男の顔面に滑らかな動作で巻きつけたのだ。そのことに男が気付いたときには、勝敗が既に決していた。
「せーの!」
「はあああ!」
男の前後に立った二人の少女が、同時に攻撃を繰り出した。桜の木刀が水平に振るわれ、鳩尾へと吸い込まれる。さらに八重の放った回し蹴りが、男の背面を強打した。前後同時に炸裂した強烈な衝撃が、どちらへも逃がすことの出来ないまま、男の肉体にすさまじいダメージを与えた。一瞬で意識が飛んだのか、男は呻き声すら出すことなくその場へ崩れ落ちる。見事なチームワークと言えよう。
「ふぅ、結構強かったねこの人」
八重が桜に笑顔を見せる。桜もそれに答えたところで。
「えっ? 何これ?」
絶妙なタイミングで、ランドリーから女性が出てきたのであった。
二人は並んで歩きながら、女性のことを思い出していた。
「本当にありがとうございました」
「いやいや、あたしたちが勝手にしたことですし」
八重と桜は、女性に非常に感謝された。二人が撃退した男は女性の別れた恋人で、復縁を迫ってしつこく付きまとっていたという。ストーカーと化した男は、しかし大陸系の拳法の使い手だったために強く出られずに困っていたらしい。
「いやあ、いいことしたって感じかな」
「うん」
二人の足取りは軽い。桜の木刀以外は特に邪魔な荷物も無く、桜の家まですぐに帰れるだろう。そう、邪魔な荷物は……。
「あーーー!」
八重が叫んだ。桜が横を向いて首を傾げる。
「どうしたの、八重?」
「桜! 洗濯物!」
「せんたくもの……。あっ!」
珍しく、桜が大声を上げた。ランドリーへ行ったそもそもの目的物を忘れてきてしまったのに気がついたからだ。
「桜、戻るよ!」
「わかった」
八重は桜の手を取って走り出す。桜は見たことも無いほど真剣な表情で、八重の真横を並んで走る。二人の少女が街灯の明かりの中を走っていく。互いの手をしっかりと握ったまま。
ある初夏の日の、それはそんな出来事だった。
八重と桜のお話第二段です。アクションシーンを意識して書きました。