前奏曲28-15変二長調
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「99点?」
学年トップの天才少女、清水卯月が得意の理科でそんな点数を取ったのが珍しくて、こっそり清水のテストを覗いていた俺は思わず声を出してしまった。
「うわちょっと! 見ないでよ」
「悪い悪い。どこ間違ったんだ?」
――『ヒト、トカゲ、メダカ、ペンギン、イルカ、ヘビの内、変温動物を全て選べ』
清水が間違えたのは、そんな問題だった。はっきり言ってサービス問題だ。考えるまでもなく答えはトカゲ、メダカ、ヘビだが、清水の解答用紙にははっきりとこう書かれていた。
『トカゲ、メダカ、ヘビ、ヒト』
ヒト。
なるほど、ヒトか。いや、そうじゃなくて。
ヒトが恒温動物であることくらい誰でも知っている。単なるケアレスミスだろう。
だが、清水は事も無げにこう言った。
「だって、人間って変温動物じゃない」
「え?」
「熱い人とか、冷たい人とかよく言うけど、その状態がずっと続いているわけじゃない。誰だって相手によって熱くなったり冷たくなったりする。ほら、変温してるじゃない」
「まあ、そうだけど……」
でも。それに気づいているというのなら。
「だけどお前は例外なんだろう?」
俺の言葉に、清水は一瞬きょとんとした顔をした後、面白そうに目を細めて微笑った。
「あなたもでしょ。周りに合わせて変温しているように見えるけど、実際は一定の温度から上がることはない。冷たい冷たい恒温動物くん」
今度は俺が虚を突かれる番だった。そんな俺を見て、清水はにやにや笑っている。席が隣とはいえ、あまり喋らない奴だったから油断していた。
「ねえ、どうやったら変温するの?」
それは初めての、自分の体温が変わらないと自覚した同類だった。
ただ、俺は清水ほどロマンチストではない。俺は、自分の解答用紙をちらりと覗く。清水が『間違えた』問題の解答欄には――ヒトの文字は含まれていなかった。
*
「この本を読んでみて」
翌日、待ってましたとばかりに、おはようと言う間さえ惜しんで清水は一冊の本を差し出した。
「友達に薦められたやつなんだけどね。泣けるらしいよ」
「何で俺が」
「いいから」
清水に半ば押し切られるようにして、俺はその本を受け取ってしまった。
泣ける本ですか。へえ。よりによって俺にこんなものを渡すとは、選人ミスとしか言いようがない。
最後に本で泣いたのはいつだったっけか、と記憶を辿ってみるが、答えは出なかった。そもそも、本で泣いた事があるのかどうかすら覚えていない。
とりあえず、家に帰ってから一ページめくってみる。
何事にもやる気がおきず、本気になれないクールぶってる、悪く言えば冷めた少年が、療養先から久しぶりに戻ってきた病気がちの弟と再会して、今までの日常を徐々に徐々に変えられていき、体育大会のハードルの選手にえらばれちゃったりなんかして、最終的にホットになって本気を出す……そんな話だった。
第一印象。主人公変温しすぎ。
話自体は結構良かったと思う。俺の胸を打つほどではなかったけど。
次の日、どうだった? と訊ねてきた清水にそう感想を伝えたら、「やっぱりねえ」とあの極めて微妙なにやにや笑いを浮べた。
「だってあたしも泣けなかったもん」
じゃあ何故そんな本を貸す、と突っ込みたくなったが黙っておいた。
「んじゃ、次はこれ」
清水は、帯に『爆笑必死!』と書かれた本を取り出す。
「またかよ」
「まあまあ。一時間くらいで読めるから」
清水は一体何がしたいんだ? 実は本の一ページ一ページに紙と同じ色で何か文字が印刷されていて、サブリミナル効果を与えようとしているとか。いや、仮にそうだとしても充分わけわかんないけど。
結論。結局俺は一回も笑うことはなかった。面白いこと書いてるなーとは思う。他の人なら多分狙いどおり爆笑していただろう。変温する人なら。
別に笑えなかった、と俺が報告しても、清水は悔しそうな顔をすることもなく、そうだよねえ、面白いけどそこまででもないよねえ、と微笑んだ。俺の反応程度で熱くなったり冷たくなったりするような変温動物ではないからだろう。
「今まで何か熱くなったことってある? 体育祭とか、文化祭とか」
「別に。あー、幼稚園とか小学校低学年くらいなら何かあったかも」
「んー、それははっきりした人格形成前だからねえ」
さあ、次は何にしようかな、と清水は鞄をごそごそ探り始めた。
「色々本を読ませて、一体何をしようとしてるんだ?」
ふふ。
清水はどこか含みのある笑い方をした。
「恒温動物を変温させてみたいの」
面白い。やれるものならやってみろ。
*
「今日は何の本だ?」
学校に着くと、俺は挨拶の代わりのように清水にそう訊いた。もうこれが日課のようなものだ。ちなみに、今までの戦績は俺の全戦全勝。まあ、心が動かなかったということだから、むしろ負けと取れるかもしれないけれど。
「あー、もういいよ。実験終了? お疲れ様でしたー」
少しだけ期待していた俺を見事に裏切り、清水はいかにもやる気がなさそうにそう言った。
「……何があった?」
「何もないよ?」
清水はいつものように口元に薄笑いを浮かべているが、今日はそれが非常に似合わない。
何か大変なことが起こっているのに、心がそれについて行っていない様な――そんな狂った不協和音。
「何があった」
「……」
清水は薄笑いをひっこめると、す、と目を細めた。
「はあ。やっぱり恒温動物にはわかっちゃうか。普通の人ならわかんないと思うんだけどなあ」大げさに一つため息をついて、清水はこっちに向き直る。「森崎君。私がいままで貸した本で、何か心動かされたものはある? または、ここ最近で、本気になれた事はある?」
数秒考えて、俺は特に無いな、と答えた。
変温させられたような出来事は無い。強いてひとつ挙げるとするならば――毎日清水の持ってくる本がなんなのかと考えるのが少し楽しくなりつつあったが、清水の手前、それはあえて言わなかった。
「ピアノの発表会がね、あるんだよ」
「うん」
「それでね、おばあちゃんが聴きに来るの」
「うん」
中々話の核心が見えてこない。こいつは一体何を言いたいんだ?
「そのおばあちゃんは、私のことを覚えてないんだ」
「……」
「大分ボケちゃったみたいでさ。私を見ても、どこのお孫さんですかーって言うの。おばあちゃんは音楽が好きでさ、今回私が発表会で弾く曲、おばあちゃんの好きな曲なんだ。……だから、本気で弾いたら思い出してくれるかなあ、とか思うんだよねえ」
段々この話の本題がわかってきた。俺の考えが合っているのなら、清水が貸し続けたあの本は多分――。
「でも、私は本気になれないから」
変温出来ない恒温動物だから、と清水は続ける。
「森崎君は私とよく似てる。だから色々本を貸して、このどれかで森崎君が心動かされたり、本気になれるような出来事があったりしたら、私も本気になる事ができるかもしれない、と思ったの」
だけど、俺は今までどおり変わらなかった。変温することは無かった。
確かに清水と俺は同じ恒温動物だ。でも、俺が本気になれたからと言って清水もそうなれるとは限らない。ただ、俺が変温したのを見て安心したかっただけだ。だから、清水は……。
「怖がってるんじゃねーの」
「え?」
「お前は、もし、本気で弾いてもそのおばあちゃんがお前のことを思い出してくれなかったら、っていう最悪の結末を怖がってるんじゃないのか」
「――!」
清水がわずかに目を見開いた。
「やる前から怖がって逃げ出そうとするなんて、お前らしくもない」
「別に逃げ出そうとしてなんか……」
「そのおばあちゃんが関わってるんじゃないのか。お前が恒温動物になった原因に」
びくん、と清水の肩が不自然に震える。今度は、その驚きを押しとどめることが出来なかったようだ。
「……何でもわかっちゃうんだねえ、森崎君は……」
俺にとっては、わかるというより、『知っている』といった方がより正確に思う感覚だった。
最初に清水が俺を恒温動物だと見抜いたのと同じように。同類である俺は、清水の気持ちを知っている。
*
「段々誰かに忘れられていく経験、あるかな?」
清水はそう問いかけた。質問に質問を返して話を進めるのが、こいつのスタイルらしい。おれは首を横に振った。さきほどと同じようなやりとりだ。
「おばあちゃんが少しずつ、少しずつ、私のことを忘れていくの。私にとっては生まれたときから知っていて、けして忘れることの無い存在なのに、おばあちゃんにとって私は、膨大な時間のうちのたった数年分でしかないんだよ」
単純計算で、80分の14、約分して40分の7だもんねえ、と清水は微笑った。それが無理して作った表情であることくらい、俺にわからないはずがなかったけれど。
「私はどうにか忘れられないように頑張った。それこそ本気で。でも、どうしようもなかったんだよ。最初のうち、私は泣いて、怒って、そりゃあ酷い状態だった。今では考えられないほど、毎日変温してたよ。負の方向へ負の方向へ」
ああ――。聞いた事がある。同じような話を俺は聞いた事がある。
「でもさ、世界は変わらなかった。おばあちゃんは私のことを忘れたし、私もおばあちゃんの記憶を掘り起こすことが出来なかった。本気でやって、何も帰ることが出来なかったんだよ。それから、かな。私が何にも本気になれなくなったのは」
なるほど、確かに俺と清水はよく似てるんだろう。ほとんど同じだと言ってしまってもいいかもしれない。
俺の場合は、犬だった。小さい頃から一緒に育ってきた、一匹の犬。道路に飛び出した馬鹿な俺の代わりに、交通事故で死んでしまった。
どんどん冷たくなっていく体に触れながら、泣いて、自分の浅はかさを責めて。それでも――犬が死んでしまうことは止められなかった。その時俺は、この世に自分がどうしたって変えられないことがあるのだと知った。
そうして、犬が死んだ次の日。世界はいつもとまったく変わっていなかった。ただ、朝起きたときに彼の鳴き声が聞こえないだけで。持ち主を失った首輪が転がっているだけで。皿に誰も食べることの無いドックフードが無意味に入っているだけで。何も――変わっちゃいなかった。
「森崎君の言うとおり、私は多分怖いんだと思うよ。本気になって、それでもやっぱり変わらなかったらどうしようかって。その時私は一体どうなってしまうんだろうって。そんなリスクの大きい賭け、逃げれるものなら逃げ出したほうがずっといい……!」
多分。と俺は思う。もし清水が普通の友人だったら、俺は何も考えず、無責任に、機械的に、大丈夫だと笑って背中を押すのだろう。
でも、相手が自分なら? 問題を抱えているのが自分なら、俺は果たしてその背中を押すのだろうか。
清水は俺にそっくりだ。まるで自分の鏡像を見ているように。
「変温してみろ、恒温動物」
考えた末、俺はそう言った。
どうやっても変えることの出来ない世界があることを、俺と清水は知っている。
それでも、闇の中に一筋でも光を見てしまったら、それを無視することはできない。もしかしたらまだ、世界は変えられるのかもしれない、という希望を捨てることはできない。
けれど、一つだけはっきりしていることがある。
恒温動物は世界を変えられない。
本気じゃない人間には、何にも心動かされる事の無い人間には、世界を変えることは出来ない。それだけははっきりわかっている。
世界を変えることが出来るのは、変温動物なのだ。
本気で泣いて、怒って、笑うことのできた時の、かつての自分達なのだ。
世界が変わるかもしれない、そんな曖昧で形のない望みに俺と清水は本気を賭ける。
*
発表会、当日。
俺は清水を見守りに、会場に来ていた。清水の出番まではまだ時間がある。
と、マナーモードにしていた携帯が震えた。清水からだ。
『やっぱりまだちょっと、怖いよ。
おばあちゃんに思い出してもらうことだって、何年も努力してきたけど出来なかったんだもん。
ねえ、本気で弾いたら、世界を変えることは出来るかな?』
大丈夫、変えれるさ。なんて言葉は返せなかった。だから、俺はこう返事を出した。
『本気でやれば、悔いは残らない』
返事は、来なかった。
こういう発表会と言うのは、大抵は年齢順で、中学生や高校生でピアノを続けている人はそんなにいないから、清水の出番は後のほうだ。
一人、また一人と、壇上に上がって、白と黒の鍵盤を響かせては降りていく。
30分以上が経過しただろうか。――ついに清水の番が来た。
白い肌によく映える黒のドレスを着た清水は、ゆっくりと壇に上がり、客席の前に立つ。
俺は、携帯を小さく開け閉めして明かりを出した。
清水の表情に変化は見られない。けれど、俺のサインに気づいたらしいことはわかった。
一礼。
拍手。
清水は椅子の高さを軽く調節すると、スカートがしわにならないように気をつけて座る。ペダルを二回ほど踏んで調子を確かめ、準備は万全。
そうして。
すう、と膝の上に置いてあった手を鍵盤の上に乗せた。
ショパン、前奏曲28−15変二長調。
『雨だれ』の呼び名にふさわしく、静かにぽたぽたと、音が零れだす。
優しく包み込むような音。かと思いきや、一転、激しくなる。何かが近づいてくるかのような、一種の恐ろしさすら感じさせる旋律。
体まで一杯に動かしながら、清水はひたすらに指を動かす。
絶え間なく動くその指が白黒の平面を滑るたびに、耳に雨が響く。そうしてまた、最初のメロディーに戻ってきた。
指の動きが速度を落とし、それに伴って音量が小さくなっていく。やがて――静かに静かに、雨は元通り、静寂の空気へと溶けていった。
鍵盤から離れた指が、膝へと戻る。
清水は立ち上がり、再び客席の前へと現れた。
誰が手を打ったのが早いか。一礼する清水に、次々と割れんばかりの拍手が降りかかる。
気づくと、俺まで激しく手を叩いていた。心が。変温する。変音する。ぽたん、と頬を滑って、膝に落ちるものがあった。ああ。俺は自分でも驚いた。こいつを見るのはずいぶんと久しぶりだ。
――大丈夫だ清水。
俺はようやく、確信を持って大丈夫と言ってやることが出来る。
世界はきっと――変わる。
*
発表会も終わり、清水が客席の方へやってきた。俺より前の方の席に座っていた、おばあさんの所へと駆け寄る。きっとあれが、清水のおばあさんなのだろう。
清水は一瞬、迷って迷って、ようやく口を開く。
「――どうだった?」
おばあさんは、にっこりと微笑んだ。
「上手になったわねえ……卯月」
清水の目から、どこまでも透明な粒が零れた。
次から次へと、それはまるで、雨のように。
恒温動物だった清水は最早そこにはいなかった。そこにいるのは、世界の温度までも暖かく変えてしまった、変温動物だけだ。
*
「テストの結果を返しますよー。これで最終的な順位などの結果通知をつくるから、間違ってるところがあったらテスト用紙を持ってその教科の先生のところまで行ってね」
世界が変わった翌日の月曜日。
学校は相変わらずで、テストの結果なんてものが返って来た。自分の教科ごとの点数と合計点が載っている、細長い紙だ。
清水の合計点を見て俺は眩暈がした。
「本気になれないんじゃなかったのかよ」
「本気にならなくてもこのくらい出来るわ」
さいですか。
さて、どうするか。俺は理科の点数を見た。良くもなく、悪くも無い、極めて平均的な数字だ。
――うん。
俺は、鞄から解答用紙と筆箱を取り出し、シャープペンで答えを『書き足した』。
「先生、間違ってました」
運よく、担任は理科の先生だったので、訂正作業も楽に済む。
「ここの――『ヒト、トカゲ、メダカ、ペンギン、イルカ、ヘビの内、変温動物を全て選べ』って問題。ああ、そこです。間違ってるのに丸になってました。今気づいたんですけど」
正直ねえ、なんて言いながら、先生は一点引いた。
元々多くない点数が更に少なくなったというのに、不思議に心は穏やかだ。いや、むしろ、弾んでいると言ってもいいかもしれない。
俺の解答用紙には、はっきりとこう書かれていた。
『トカゲ、メダカ、ヘビ、ヒト』
お読み頂きどうもありがとうございました。
後半は実際に「雨だれ」を聴きながら書いてみました。少しでも雰囲気が伝わっていれば良いのですが。
ちなみに、序盤に出てくる「泣ける本」は実在の本がモデルになっています。主人公は気に入っていないようですが、私のとても好きな本です。このあらすじだけでわかったら、是非ご一報を(笑)