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痙攣

作者: 草里了

 土蜘蛛が部屋の天井を這っていた。子供の掌ぐらいの大きさがあるだろうか。

 私はぼんやりとした頭でそのじりじりと動くのを見ていた。

 私の部屋。私は部屋の中央の万年床に仰向けになって、ぼうっと天井に焦点の合わない目線を向けている。

 鈍い、部屋中に低く振動するような音がした。

 誰かが私の部屋の扉を叩いたことがわかった。

「…ぉうさんが、危ないって!起きて!」

 私は目だけをそちらに向けた。母らしき輪郭の影が見えた。暗くて表情はうかがえなかった。

 私は上体を起こそうとする。体がいうことをきかない。

 強い眩暈を感じた。

 自分の体が、ふらふらと揺れているのがわかった。私は起きかけて、再びばたりと横になった。

 床のすぐ脇にのけてあったビール瓶が、私の体に当たって倒れた。床に打ち付けられた瓶は鈍い音をたてて転がった。

 中身がこぼれて、床に広がった。


 母は強引に私を引き起こすと、すぐに着替えて外出すると命令した。



 冷汗がこめかみから流れた。とめどなく額から顔へと流れた。

 私は額の汗を腕でぬぐいながら、己の足取りのふらつくのを、意識した。


 私は酒に酔い、精神安定剤と睡眠薬とを一緒に飲んで、気絶していたのだった。

 そのころの私は精神安定剤と酒の呑み合わせが、私に心地よい非現実感をもたらすのを知り、そこに逃げ込むようになっていた。

 私はあらゆる現実を逃れ、私自身を傷つける私の自意識を麻痺させる必要があった。


 私は後ろめたさより、自分の酒臭いことを嗅ぎ取られることを嫌って、家族から離れたところから父の遺体を眺めていた。

 親族の皆が順々に父の顔を眺めた。死の瞬間に間にあわなかったことが、親族達の感傷を買っているようであった。私は顔が赤くないかばかりを気にしていた。

 礼儀的に死人の顔を拝んだ。

 血の気がうせた父の死に顔は、生前よりも整って見えた。

 目が半開きに虚空に向けられていた。母や看護師が何度それを閉じようと指で伏せても、じわじわと開いてゆくのだった。

 まるでそれは父の何らかの思念の残滓のようで、私は不気味に思った。


 私と父の関係は、私が中学に入学した頃を境に、険悪なものへとなっていた。

 その頃私は、過剰な自意識に悩んでいた。

 外を歩くと人の目が気になり、まるで自分が見世物小屋にいるような気分になった。

 私の性格は暗く内向的な性質を帯びていった。

 私は人を恐れるようになった。全ての人が、私の容姿を嘲笑し、私の人間性を馬鹿にしているように思われた。人の前に顔を出すこと自体が私には苦痛だった。

 父は、私の気持ちなど把握できない人であった。

「なぜ学校にいかないのか」「先生から電話があった」「腹が痛いくらいで学校を休むな」「ずる休みをするな」

 父は、私にとって敵対者であった。私の恐怖をあざ笑う、「大人」であった。

 私は父を軽蔑した。そうすることでわが身を守った。父もそんな私を嫌っていたように思う。

 

 父がはじめに病に倒れたのは、私が大学を中退し、ある工場にアルバイトを始めた頃のことだった。

 脳溢血。豊かだった髪を丸刈りに刈られて、頭に縫い傷を作ってベットに横たわる父を、私は無感動な目で眺めた。

 醜い。いっそ死ねばいい。

 中途半端に生き残った父に対して、私は哀れみと安堵との入り混じった複雑な感情を持て余した。

 意識を取り戻し、病院食を無心に貪り食う父の姿は、餓鬼道に落ちた餓鬼のようでひたすら醜かった。

 家族達は父の生還を喜んでいるようだった。私は一人、父の病状の悪くなることを希望した。醜いからだ。


 思えばその頃から父は、次々と大きな病を患っていった。

 父は新たな病を背負い込む度毎に、生死の淵をさ迷い、そして生き残った。

 まるで死神が、虫にじゃれつく猫のように父の生命をもてあそぶように。

 だが、父は確実に衰えていった。

 その挙措は亀のように鈍くなり、足を引きずるように歩き、ろれつが怪しくなった。

 腕は細かく震え、しゃっくりのような息をするようになった。

 それでも父は生きていた。


 そうなった父に対しても、私は以前にまして冷酷な態度をとった。

 父は哀れむべき存在であり、彼はそれを意図して誇張するように振舞っている。

 弱者の立場に立つことで、私の非情を強調し、私を糾弾されるべき対象として仕向けている。

 私の精神は、私に向けられるすべての意識が私に対して悪意をもって感じられるのだった。




 床に転がっていた瓶を踏みつける。均衡を失った重心が後ろに傾き、そのまま後頭部から倒れこむ。

 大きな音が家中に響くのを私は他人事のように聞いた。痛みは感じなかった。



 ぼやけた視界の先、天井にまたあの土蜘蛛が張り付いていた。

 蜘蛛は天井をすばやく這い廻り、壁を下って床に降りると、私に向かってきた。

 私は大声で、わけのわからぬ悲鳴をあげた。ばね仕掛けの人形のように飛び上がった私は、四つん這いの姿勢で扉のある方へ逃げだした。ドアノブに取りすがる。必死でノブをガチャつかせる。開かない。その間、私は一瞬たりとも蜘蛛から目が放せずにいる。私の目の前で、蜘蛛はあっという間に私の足を這い上がり、胴を伝い、私の首もとまで登ってきた。

私はめちゃくちゃに手を振り回し足をばたつかせ、身をよじってそれを払いのけようともがいた。

 やがて私は疲労し、抵抗をやめた。身体を改めても、どこにも蜘蛛はいなかった。私は自分の荒い呼吸を聞きながら部屋を見回した。あの蜘蛛はどこへ消えただろう。


 いつの間にかドアが開いており、人の気配があった。

 振り仰ぎ見上げると、母が私を見下ろしていた。

 瞬間に目が合った。母は、嫌なものから目を逸らすように私を視界から外した。

 まるで狂人を見るみたいに。

 母が次に私を見たとき、彼女に私を拒絶する色合いは全く見て取れなかった。彼女は私を心から心配するように抱き起こし、「病院へ行きましょうか?」と優しく問いかけた。


「母は、私を狂人にしたてあげたがっている」

 私は己の一連の行動を省みて、そう思われることも仕方がないと思うと同時に、裏切られたような、身勝手な苛立ちも処理しかねていた。

 確かに私は取り乱したが、それは薬と酒の呑み合わせのせいであって、私の精神の異常とは別のことだと、それだけを私は言いたかった。

しかしそれをいくら私が説明したところで、母の私に対する警戒心は解けないであろうことも、私は分かっていた。

 普通の生活を送ることだ。

 母を安心させるために、私ができることはそれしかなかった。


 あの大きな土蜘蛛は、その後も度々私の部屋に現れた。しかしそれを見て騒ぐことはもうなかった。

 私が目を逸らすと、蜘蛛は私の視線を逃すまいとするかのように、一瞬で部屋の中を移動して、私の視野に納まった。

 私は自分が蜘蛛に呪われたのではないかと考えた。

 御祓いをしよう。

 そう思い立った私は、部屋の南向きの壁際に祭壇を設けた。

 塩と米と水と蜀台を並べ、中央には神札を拝した。

 私はそれを毎日拝むことで、呪いに対抗する気になったのである。


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