空色は、笑っていた
たった一ヶ月。それでも、彼は、みんなの中に残り続けました。
※ この作品には、自殺を扱う描写があります。苦しくなったら、無理せず読むのをやめてください。
空色は、笑っていた
一 遅刻の朝
(やばい、遅刻)
灯は廊下を走っていた。角を曲がった瞬間、誰かにぶつかった。
「わっ! ごめんなさいっ!」
空みたいな水色の髪が、視界いっぱいに揺れた。腰まで届く長い髪。同じ色の大きな目が、まっすぐ自分を見上げている。
(……女の子。すごい、きれい)
一秒だけ、本気でそう思った。視線が落ちる。ブレザー。スラックス。
(……男?)
胸の奥が、すっと冷えた。
(は? 気持ち悪い)
「ほんとごめんね! 怪我ない?」
今にも泣きそうな顔で、ぺこぺこと頭を下げてくる。
(なにその顔。男のくせに。ぶつかっただけで泣きそうとか、意味わかんない)
「……前、見て」
それだけ言って、灯は走り去った。
一年三組の教室では、担任が出席を取っていた。「灯、遅刻」と呆れられ、窓際の席に座る。隣は空いている。
「今日から、三組に転校生が来る。入っておいで」
ドアが開き、空色の髪が光を受けて揺れた。
教室が、静まった。誰かが小さく「えっ」と声を漏らし、前列の男子が慌てて口を押さえた。耳まで赤い。
「湊です! よろしくお願いしますっ!」
ぺこっと頭を下げた拍子に、長い髪がさらりと肩から落ちる。男子の何人かが、あからさまに目を逸らした。
(……うそ。同じクラス)
顔を上げた湊が、灯と目を合わせた。
「あ、さっきの! 同じクラスだったんだ」
全員の視線が、灯に集まる。席は、灯の隣だった。
「よろしくね、灯ちゃん」
灯は返事をせず、窓の外を見た。
「あ、そっか」
湊はふふっと笑って、それ以上何も言わなかった。
(……怒りもしないの)
休み時間、湊の席は一瞬で囲まれた。
「か、髪、きれいだね。さ、触ってもいい?」
声が裏返った男子に、湊は即答した。
「え? いいよー!!」
「うわ……さらっさら……」
触った男子は、自分の手を見つめたまま固まった。後ろの男子が「おい、顔」と小突く。
「シャンプー何使ってんの!?」
「わかんない! 気づいたらあったやつ!」
どっと笑いが起きる。男子も女子も、湊の周りではしゃいでいた。灯は隣の席で、それを聞いていた。
灯に話しかける人は、もともとあまりいない。いつも静かで、笑わなくて、なんとなく声をかけづらい。灯自身も、それでいいと思っていた。
(うるさい。気持ち悪い。関わらない)
そう決めたのに、胸の奥が少しだけざわついていた。理由は、考えたくなかった。
二 湊がいる教室
一週間もすれば、湊は教室の真ん中にいた。
体育では、どの種目でも歓声が上がった。バスケでは誰にも触れさせずにゴールを決め、リレーではアンカーで三人抜き。ゴールした湊が「やったー!」と両手を上げて振り返ると、髪がふわっと広がって、グラウンドの男子の半分が同時に下を向いた。
「湊、俺と勝負しろ!」
毎回そう言って絡んでは、毎回きれいに負ける男子がいた。負けても「もう一回!」と笑うので、名物になった。
昼休みは、いつも四人組だった。ムードメーカーの陽介。素直じゃない蓮。穏やかな律。そして湊。
「湊、膝貸して」
「え、いいよー!」
陽介は本当に湊の膝に座ろうとして、「重い重い!」と笑われながら落ちた。けれど、笑う湊に顔を覗き込まれた陽介は、なぜか耳まで赤くなっていた。
「……近えよ」
「え? ごめん、近かった?」
「いや、別にいい」
蓮は「別に興味ねえし」と言いながら、湊の髪が揺れるたびに視線だけを向けていた。目が合うと、ぱっと逸らす。律がそれを見て「蓮、見すぎ」と笑う。
「見てねえよ!」
「見てたよ」
「湊、蓮のほっぺ赤いよー」
「言うな!!」
少し離れた席から、湊が笑って手を振った。
「聞こえてるよー。俺、耳いいんだ」
五時間目には、数学の黒田が現れた。
「転校生。今日の問題だ」
黒板に見たこともない式が並ぶ。制限時間は五分。黒田は腕を組み、勝ち誇った顔で待った。
湊は黒板の前に出て、さらさらと答えを書いた。
「えっと、こうですか?」
黒田の顔が固まり、数秒後、ゆっくりとドヤ顔に変わった。
「……悪くない。明日はもっと難しいのを用意する」
胸を張って出ていった黒田は、廊下で別のクラスの教師に自慢していた。それが「毎日一問」の始まりだった。
翌日は理科の教師が雑学クイズを出し、英語の教師が変な英作文を出した。一週間後には、湊に問題を当てるのは全教科の名物になっていた。
「湊ー、今日の一問ー」
「はーい!」
湊は必ず解いた。悩むふりも、得意げな顔もなく、ただ楽しそうに。
灯は隣の席で、それを毎日見ていた。
(なんで、いつもあんなに楽しそうなの)
見たくないのに、視界に入る。
九月に入っても暑さが残っていて、最後のプール授業の日、濡れた髪を一つに結んだ湊が、水から上がって首を傾げた。
「あれ、みんなどうしたの? 顔赤いよ?」
男子も女子も、なぜか目を逸らしている。見惚れていることを、湊だけが知らなかった。灯は冷めた目で、それを見ていた。
(バカみたい。気持ち悪い)
それでも、視線を外すのが、ほんの一拍遅れた。
掃除当番の日、灯は、ゴミ袋を一人で運んでいた。
「持つよ」
横から、湊の手が伸びた。
「頼んでない」
「あ、そっか」
湊は、あっさり手を引いた。そして、少し先の階段で、何も言わずにドアを押さえて待っていた。
灯は、何も言わずに、その横を通った。
(……押しつけがましくないのが、余計に腹が立つ)
その日、灯は気づいた。
みんなが笑う中で、湊の笑顔が、一瞬だけ止まることがある。瞬きくらいの長さ。
すぐに誰かが名前を呼び、湊はまた笑う。
(……見間違い、かな)
屋上の話が出たときも、そうだった。
「屋上、鍵かかってるよな。一回行ってみたい」
陽介がそう言うと、湊は「あー、どうだろ! あ、それよりさ」と話を変えた。その場では、誰も気に留めなかった。
三 文化祭
文化祭の三組の出し物は、メイドカフェに決まった。
「湊は絶対メイド!」
「え、いいよー! 楽しそう!」
おまけに、湊は体育館のステージで単独ライブまですることになった。冗談みたいな企画は、なぜか本当に通った。
転校から二週間が過ぎて、準備期間に入った。湊は何でもやった。看板の絵、衣装の縫い直し、ダンスの振り付けの手伝い。
美術の教師は、湊の描いた背景をじっと見て言った。
「上手いね。……上手すぎて、ちょっと不思議だな」
「そうですか? 嬉しいです!」
美術室の棚の奥に、湊が誰にも見せない一枚があった。見つけたのは、灯だけだった。
空だけを描いた絵だった。鳥も雲もない、青いだけの空。
(……変な絵)
「あ、それ、下手だから見ないで!」
後ろから湊の声がして、絵は笑顔で取り上げられ、棚に戻された。いつもの声だった。
(気のせい。私、なんでこいつのこと気にしてるの)
看板の裏の作業は、灯の担当だった。人が来ない場所だった。
気づくと、少し離れたところに湊が座っていた。筆を持って、黙って色を塗っている。
「……何」
「ここ、静かでいいなって。邪魔だったら行くね」
灯は、答えなかった。湊も、それ以上、話しかけなかった。
十分ほど、二人は並んで、黙って筆を動かした。
誰も見ていないときの湊の横顔は、ただ、静かだった。
(……この顔、初めて見た)
灯は、そのことを、誰にも言わなかった。
準備期間のある日の放課後、理科の柏木が、湊を理科室に呼び止めた。
「今日の一問だ。解けたら、ジュースをおごってやる」
「やったー!」
柏木は、湊が答えを言う前から、機嫌が良かった。机の上では、ノートと鍵束が広げたままになっている。
「鍵、いっぱいですね!」
「全部、俺の担当だ。なくしたら怒られるんだぞ」
「正解! すごいな、お前は」
「えへへ、ありがとうございます!」
柏木は上機嫌で、自販機にジュースを買いに出ていった。
湊は、理科室に一人残された。
文化祭当日は、雨だった。
灯は傘を忘れて、昇降口で立っていた。教室に戻ると、机の上に折りたたみ傘が置いてあった。
(……誰)
見渡すと、少し離れたところで、メイド服の湊が客に囲まれていた。こちらを見てはいない。
(違う。あいつじゃない)
そう思いながら、灯は傘を握っていた。
メイドカフェには、朝から行列ができた。
「い、いらっしゃいませ……じゃなくて、おかえりなさいませ、ご主人様!」
少し噛みながら、にこっと笑う。それだけで、客の男子高校生が、注文表を握りしめたまま動かなくなった。
「あ、あの……お、お名前……いえ、オムライスを……」
「はいっ! ケチャップでお絵かきしますね!」
湊がテーブルに身を乗り出すと、長い髪が客の腕に触れた。客はびくっと背筋を伸ばし、顔を真っ赤にして、他のテーブルの友達に助けを求めるような目を向けた。
「……あれ、ほんとに男、だよな」
「言うな。考えるな」
厨房の陽介は、ホールを覗いては「やべえ」と呟いて、何度も水を飲んだ。
蓮は最後まで「俺は別に」を貫いたが、湊が通りすぎるたびに皿を落としそうになった。
夕方のステージは、満員だった。
湊は空色の髪を揺らして、笑いながら歌って踊った。手を振るたびに、客席から悲鳴に近い歓声が上がる。前列の男子が、胸を押さえて後ろに倒れそうになっていた。
歌の途中、ふと、客席の一番後ろにいる灯と目が合った。
一瞬だけ。ほんの一瞬、湊は笑うのをやめて、静かに、灯にだけ手を振った。
それから、また満面の笑みに戻った。
(……今の、なに)
灯は、目を逸らせなかった。
その夜、客の一人が撮ったメイド服とステージの動画がネットに上がった。学校はすぐに削除を依頼したが、一度広がったものは消えきらなかった。
「湊、動画めっちゃ回ってるぞ!」
「えっ、ほんと? すごいね!」
湊は無邪気に驚いた。
四 尾行
文化祭の翌週の金曜日。放課後、陽介と蓮と律は、湊のあとをつけていた。
「尾行ごっこな。バレたら負け」
「小学生かよ」
「蓮、声でかい」
湊は帰り道、いつも通りだった。荷物を持つおばあちゃんに「持ちますよ!」と声をかけ、小さな子どもを連れた親子に「こんにちは!」と笑いかける。すれ違う人がみな、振り返るほどの笑顔だった。
「……今のおばあちゃん、絶対ファンになったぞ」
「尾行してる俺らが一番ファンだけどな」
湊が家の鍵を閉めようと振り向いた。物陰に、三人がいた。
「……えっと」
「バレたか」
「ば、ばっ……いや、その、遊びに来た!」
湊はきょとんとして、それから笑った。
「なんだ、言ってくれればよかったのに! 入って入って!」
玄関で、陽介が「尾行成功記念」とスマホを構えた。湊の後ろには、開けていない宅配の箱が写っていた。陽介は、その写真を三組のグループLINEに送った。
中は静かで、必要最低限の物しかなかった。三人がそれに気づく前に、湊は手を洗い、エプロンをつけた。
「ご飯食べる? 作るね!」
エプロン姿で振り返った湊に、陽介が「うっ」と声を漏らした。蓮は顔を背け、律は苦笑しながら自分の耳を触った。
「俺は食わねえ」と、蓮が腕を組んだ。「男の手料理とか、別に」
「えー」と湊が頬をふくらませる。「そっか。じゃあ蓮のはなしね」
拗ねる湊を見て、陽介がスマホを構えた。
「やば、かわいい」
撮った写真を、一年三組のグループLINEに送る。すぐに反応が来た。
〈うわ何これ〉〈かわいすぎ〉〈もっと〉
最初は、ただ可愛い湊を、みんなにも見せたかっただけだった。みんなが喜ぶのが、嬉しかった。
陽介は面白くなって、もう一枚、もう一枚と撮った。
湊は、皿を洗う手を止めなかった。
「……」
シャッター音が、背中で鳴り続けている。
律は「やめなよー」と軽く言うだけだった。
料理を食べた陽介が声を上げた。
「うまっ! こんなうまいの食ったことない!」
その一言のあと、湊は今度はお菓子を作り始めた。焼ける匂いが、部屋に広がる。
湊は焼きたてを、拗ねている蓮の前に置いた。
「食べて? お願い」
首を傾げて頼まれた蓮は、しばらく黙ってから、小さく言った。
「……一個だけな」
一個食べて、また一個食べた。喜んで尻尾を振るみたいに笑う湊を見て、陽介はとうとう動画を撮り始めた。
送信。反応が爆発する。
「電話、つなげちゃえよ」
「いや、それは」
陽介はもう止まれなかった。三組のグループでビデオ通話を繋ぎ、「今、湊んち」と実況を始めた。
画面の向こうで、三組の何人かが見ていた。けれど、人数を増やしたのは、彼らではなかった。
陽介が面白がって中学の友達を招待し、その友達がまた別の友達を招待した。他校の生徒、誰かの知り合いの大人まで。連鎖は止まらず、参加者は十人、二十人、やがて百人を超えた。
〈この子誰!?〉〈かわいい〉〈男!? 嘘だろ〉
律は何度も「もうやめなよ」と言ったが、止めはしなかった。
そのとき、陽介が、ある一つのコメントを見つけた。
『私もお菓子食べたいな』
陽介は、最初に送った玄関の写真を開いた。写り込んだ宅配の伝票の住所が、拡大すれば読めた。
「それはマズいって」と、律が言った。
「ちょっとだけ。すぐ消すから」
陽介は、軽い気持ちのまま、指を動かした。
湊の家の住所を、グループに書き込んだ。
五 差し出す
それから三十分もしないうちに、家の前に、知らない人影が集まり始めた。
インターホンを鳴らし続ける音。窓の外から名前を呼ぶ声。ドアノブを回す音。
湊は、部屋の真ん中で静かに立っていた。
(——ああ)
無邪気な笑顔が、そこで、初めて消えた。
陽介は青ざめて、湊の後ろに立っていた。「湊、ごめん、俺、こんなつもりじゃ」
「うん。分かってる」
湊は淡々と答えた。声が、いつもより低かった。
湊は警察を呼んだ。ドアの外にいた人たちと、陽介の名前を、順に告げた。
「この人たちは、住所を見て来ました。この人が、教えました」
「湊」と、陽介が言った。
「陽介、ごめんね」
湊は、笑わずに謝った。
駆けつけた警察官に家族のことを聞かれ、湊は「遠くにいます。高校に通うために、一人で暮らしてます。連絡は僕からします」とだけ答えた。警察官は、それ以上は聞かなかった。
警察官が陽介を連れていく前、湊は静かに付け加えた。
「反省してくれたら、帰してあげてください。お願いします」
蓮と律は、その場から動けなかった。
湊は悪くない。分かっていた。それなのに、二人は一瞬、湊が怖かった。さっきまでのあの笑顔が、全部、作りものだったように思えて。
六 怖くて、ごめんね
警察の聴取が長引いて、終電がなくなった。蓮の家は遠く、律の家には迎えも来られない。
「うち、学校から一番近いから。泊まっていく?」
湊がそう言って、蓮と律は、湊の家に泊まることになった。
「布団取ってくるね」
湊が部屋を出ていった。
二人だけになった。
「……なあ」
「ん」
「湊、怖くね」
蓮が言った。
その瞬間、廊下のほうで、物音がした。
湊は耳がいい。聞こえていた。
戻ってきた湊は、布団を抱えて、いつもの笑顔を作れずに、小さな声で言った。
「怖くてごめんね」
心の底から、謝る声だった。
「急にあんなふうになったら、怖いよね。ごめんね。おやすみ」
そのまま、湊は別の部屋に入っていった。
蓮と律は、眠れなかった。
天井を見つめたまま、蓮がぽつりと言った。
「……俺のせいだ」
「蓮」
「俺があの日、飯を食わねえって言って、陽介があんなふうに」
「違うよ」と、律が言った。「僕も止めなかった。止められたのに」
湊は何も悪くない。それなのに、謝らせた。
「……朝、謝ろう」
「うん」
朝、湊は台所に立っていた。
「おはよう! 朝ご飯できてるよ!」
いつもの声。いつもの笑顔。昨日のことが、なかったみたいに。
二人は謝るタイミングを失った。
「……お、おう」
「ありがとう」
言えたのは、それだけだった。
味噌汁は、温かかった。
その週、湊は、いつも通りに登校した。
通学路では、知らない人にスマホを向けられた。「あの子だ」と囁く声が、離れた場所からでも、はっきり聞こえた。湊は、笑って会釈した。
昼休み、蓮と律が「この前は」と言いかけると、湊は「あ、今日の一問、見た? 黒田先生、顔やばかったよね」と笑って話を変えた。二人は、また謝れなかった。
数学の時間、湊は、初めて、黒田の問題を間違えた。
「あれ? ごめんなさい、もう一回やります!」
黒田は目を丸くして、それから、少しだけ嬉しそうな顔をした。
「……人間らしいところもあるじゃないか」
教室が笑い、湊も笑った。
その間、湊の机の中で、スマホはずっと震えていた。隣の席の灯は、それに気づいていた。湊は、一度も、出さなかった。
七 戻ってきた陽介
数日後、陽介は保護者に引き渡されて、家に帰された。学校からの自宅謹慎が明けたのは、その翌週だった。
警察は「反省の様子が見られた」と判断した。捜査そのものは、まだ終わっていなかった。
けれど、教室に入ってきた陽介は、へらへらと笑っていた。
三組の誰も、目を合わせなかった。陽介は、それに気づかないふりをして、いつもの声を出した。
「よお、湊」
湊の席の前に立ち、いつものノリでスマホを向ける。
「なあ、なんか言えよ。もっと伸びること、しようぜ。あの通話、切り抜かれて六万回も見られたんだぜ? 次、何する?」
笑っていないと、立っていられないように見えた。
ニヤニヤとカメラを向ける陽介に、湊は、笑顔のまま言った。
「……陽介」
「ん?」
その声を遮って、椅子が倒れる音がした。
蓮だった。
「てめえ」
蓮の拳が、陽介の頬に入った。スマホが床に落ちる。律が続けて陽介の胸ぐらを掴み、壁に叩きつけた。
「湊が、どんな思いで」
「やめなさい!」
担任が飛び込んできた。陽介は担任に腕を掴まれ、教室から連れ出される。笑ってはいなかった。けれど、反省の色も、なかった。
蓮と律は、まだ肩で息をしていた。怒りが、収まらなかった。
クラスは、凍りついていた。
「……ごめんね、二人とも」
湊が、静かに言った。いつもより、ずっと小さな声だった。
二人は、その意味が分からなかった。
数日後、蓮と律に、学校内での暴力行為として、停学処分が下った。陽介には、すでに警察と保護者を交えた別の対応が進んでいた。
湊は、職員室の前で、その知らせを聞いた。
八 被害届
蓮と律のいない教室は、静かだった。
昼休み、湊は、四人で座っていた席に、一人で座っていた。膝に乗ってくる人も、喧嘩を売ってくる人も、いなかった。それでも、誰かが話しかけると、湊は笑って輪に入った。
隣の席で、灯は、湊の弁当箱を見た。蓋が開いたまま、ほとんど減っていなかった。
(……食べなよ)
そう思った自分に、灯は驚いた。
湊は、自分が傷つけられることには、ほとんど怒らなかった。
笑顔を向けて、笑顔で返される。それが、湊にとっての世界だった。
けれど、蓮と律が、自分のせいで停学になった。
湊に向けられた悪意が、周りの人を傷つけている。それだけは、許せなかった。
このままでは、陽介の悪意は、また誰かに向かう。今度は、自分ではない誰かに。
その日の昼休み、灯は、廊下の窓際に一人で立つ湊を見た。
声をかけかけて、何を言えばいいのか分からず、やめた。
湊が、ふとこちらを見た。
「あ、灯ちゃん」
いつもの笑顔だった。ほんの少しだけ、遅れて。
「変な顔してた? 眠くてさ」
「……別に」
灯はそれだけ言って、通り過ぎた。通り過ぎてから、傘のことを、また言いそびれたと思った。
放課後の教室。帰り支度をする生徒たちの声が、遠くなっていく。
灯は、カバンの中の折りたたみ傘を、握っていた。
(言う。今日こそ、ありがとうって)
隣の席で、湊が立ち上がった。
「先生に呼ばれてるから、行ってくるね」
灯は、口を開いた。けれど、声にならなかった。
「ばいばい、灯ちゃん」
湊は、いつものように笑って、手を振った。
灯は、小さく頷くのがやっとだった。
湊が教室を出ていく。廊下側の窓ガラスに、その横顔が映った。
笑顔が、止まっていた。
いつもの一瞬より、ずっと長く。
(……明日、言おう)
灯は、傘を握ったまま、その背中を見送った。
湊は、担任のところへ行った。
担任は、穏やかな人だった。湊が差し出した紙は、警察に出す被害届の下書きだった。
「……いいのか」
「はい」
「明日、警察に持っていきたいです。一緒に来てもらえますか」
湊は、笑っていた。けれど、その笑顔は、どこか無理に作ったように見えた。
「反省してくれたらいいなって、思ってたんですけど。僕、勝手でしたね」
「湊」
「先生、いつもありがとうございました」
湊は、ぺこりと頭を下げた。
担任は、紙を受け取ったまま、何かを言おうとして、やめた。
「……今日は、もう遅い。明日、一緒に行こう。今日は帰りなさい」
「はい」
「気をつけて」
「はい。さようなら」
湊は、職員室を出ていった。
廊下で、黒田とすれ違った。
「湊。明日の問題は難しいぞ」
「楽しみにしてます!」
いつも通りの声だった。
その頃、職員室で、担任は受話器を取っていた。あの夜の警察官に、明日のことを相談するために。
九 その夜
その日の夕方、校舎の外で、誰かが悲鳴を上げた。
職員室にいた担任は、廊下を走った。
校舎の裏で、湊が倒れていた。もう、息をしていなかった。
担任は、その場に膝をついた。
目を閉じた湊の顔は、傷もなく、静かだった。けれど、笑ってはいなかった。担任は、湊が笑っていない顔を、初めて見た。
「……湊」
声が出なかった。
さっき、この手で受け取った紙のことを思った。「明日、一緒に行こう」と言った、自分の声を。
(あのとき、引き止めていれば)
担任は、声を殺して、泣いた。
母親の迎えを、指導室で待たされていた陽介が、騒ぎを聞きつけて廊下に出てきた。
人だかりの向こうで、担任が膝をついている。その先に、湊が横たわっているのが見えた。
陽介は、足を止めた。
「……は?」
誰も、答えなかった。
「嘘だろ。おい、メンタル弱っ」
口が、勝手に笑った。
「あんだけ愛想振りまいといて、これかよ。笑」
笑い声が、途中で、喉に引っかかった。
次の瞬間、陽介の顔に、拳が入った。
蓮だった。その後ろに、律がいた。あの一件以来、誰も使わなくなった三組のLINEに代わって、咲が作り直したばかりのグループ。二人はそこで湊のことを知り、停学中の家から走ってきたのだった。
「てめえ」
蓮の声は、震えていた。律は何も言わずに、陽介を押し倒した。
誰も止めなかった。担任は、湊の前から動けなかった。生徒たちは、ただ立ち尽くしていた。
しばらくして、警察官が来た。あの夜の件は、まだ捜査が続いていた。陽介への再聴取のために学校へ向かっていたところに、担任の電話を受けた人だった。あの夜、陽介を連れていった人と、同じだった。
「……湊くんは」
そう尋ねかけて、警察官は言葉を止めた。説明を受けたあと、彼は、しばらく黙っていた。
それから、帽子を外して、目元を押さえた。
「湊くんは、最後まで、陽介くんを責めていませんでした」
それ以上は、言えなかった。
やがて警察官は、顔を上げた。床に倒れた陽介の顔は、血で汚れていた。蓮と律の拳も、赤かった。
警察官は、それを見て、何も言わなかった。ほんの数秒、目を逸らした。
それから、陽介の肩に手を置いて、静かに言った。
「あの夜の件で、もう一度、話を聞かせてもらう。一緒に来なさい」
陽介は、もう笑っていなかった。
その夜、担任は、湊の保護者欄にあった連絡先に、何度も電話をかけた。遠方に住む親戚の番号だった。つながったのは、三度目だった。
「……そうですか」
電話の向こうの声は、驚くほど静かだった。湊の話は、何も出てこなかった。
担任は、湊のことを自分が何も知らなかったと、そのとき初めて気づいた。
同じ夜、理科の柏木は、鍵ボックスの前に立っていた。
屋上の鍵の管理は、柏木の担当だった。その鍵が、なかった。
管理簿の最後の記録は、二週間以上前。文化祭の準備の日だった。
あの日、理科室で、湊に雑学クイズを出した。机の上に、鍵束を置いたまま。「正解!」と笑った自分を、思い出した。
鍵を抜いたのが誰なのか、彼は、もう確かめなかった。
翌朝の全校集会で、湊の死が伝えられた。
灯は、何を言われているのか、理解できなかった。
隣の席は、空いていた。
十 問題
翌日、数学の黒田は、いつもの時間に教室へ来て、黒板に難問を書いた。
「今日の問題だ」
誰も、手を挙げなかった。
黒田は、湊の席を見た。ドヤ顔になるはずの口元が、動かなかった。
「……解けたら、宿題は免除だ」
誰も答えなかった。黒田は、そのまま教室を出た。
一週間後には、他の教師たちも、問題を出さなくなっていた。それが「当たり前」になっていくことが、誰にとっても怖かった。黒田だけが、ノートに問題を書いては、閉じていた。
ある日の放課後、湊の机の上に、数学の問題が一枚置かれていた。誰が置いたのかは、分からなかった。
半年後、黒田は、また授業の最初に一問だけ出すようになった。誰も手を挙げなくても、最後まで解説して、ドヤ顔で帰っていった。
十一 咲
咲は、湊を思い出すたびに、廊下を走る姿が浮かんだ。陽介たちをからかって、追いかけられて、「捕まらないよー!」と振り返る、あの顔。
(あれ、全部、嘘だったのかな)
そう思ってから、咲は首を振った。
(違う。あの笑顔は、ちゃんと、あった)
今、廊下は静かだった。走る足音は、もう聞こえない。
十二 灯
灯は、湊の席の隣に、まだ座っていた。
傘は、まだ返せていなかった。
看板の裏で、黙って並んでいた十分間のことを、灯は、誰にも話していなかった。あの横顔が本当の湊だったのかも、分からない。灯は、湊のことを、ほとんど何も知らなかった。
文化祭の動画は、ネットに残っていた。ステージで、空色の髪を揺らして笑っている湊。再生数は、今も少しずつ伸びている。
灯は、動画を何度も見返した。
歌の途中、客席の一番後ろに向かって、湊が小さく手を振る。一瞬、笑顔が消える。そして、また笑う。
(……私にだけ)
あの一瞬は、演技だったのか。本心だったのか。
なぜ、あの日、笑顔が止まっていたのか。なぜ、あんな絵を描いていたのか。何を、伝えたかったのか。
何も、分からなかった。
(あんなに、気持ち悪いって思ってたのに)
灯は、傘を、湊の机の上に置いた。
涙が、ぽとりと落ちた。
「……ありがとう。傘」
答えは、なかった。
十三 二年後
二年が過ぎた。
三年生になった春、咲が言い出した。
「ねえ、一年三組のみんな、久しぶりに集まらない?」
駅前のファミレスに、一年三組だった十数人が集まった。
「うわ、久しぶり!」
「背、伸びた?」
「伸びてねえよ!」
再会の挨拶が一通り済むと、蓮がメニューを開いて、ぼそりと言った。
「……湊がいたらさ」
全員が、蓮を見た。
「このメニュー、端から全部頼んでたよな」
「絶対頼んでた」と律が笑う。「『これもおいしそう! あれも!』って」
「で、食べきれなくて陽介に回す」
「陽介は、いないけどな」
一瞬だけ、空気が沈んだ。
「陽介、あのあと学校を辞めて、地元を離れてたんだって。去年、戻ってきたらしいよ」
咲が言うと、全員の手が止まった。
「……マジか」
「学校には来てない。でも、湊のお墓には行ったって。近所の人が見たって」
律が、少し黙ってから言った。
「手を合わせたまま、ずっと動かなかったらしい」
蓮はメニューを閉じた。
「……あいつ、湊に、何て言ったんだろうな」
誰も、答えられなかった。
「……湊なら、どうしてたかな」と咲が言った。
誰も、すぐには答えなかった。
「たぶん」と律が言った。「『久しぶり!』って、笑ってたんじゃない?」
「……かもな」
蓮は、メニューを閉じたまま、小さく笑った。
その光景を、全員が、それぞれの頭の中で見ていた。
咲も、笑った。
「待って、湊、リレーのとき覚えてる? アンカーで三人抜いたやつ」
「覚えてる! ゴールしたあと、『やったー!』って飛び跳ねてた」
「黒田の問題も、毎回秒で解いてたよな」
「文化祭のオムライス、ケチャップで俺の名前、間違えて書いたの」
「あれ絶対わざとだろ」
「いや、あれは天然」
誰かがそう言って、また笑いが起きた。
話題は、ずっと湊のことだった。あのときの髪が、あのときの笑顔が、あのときの声が。二年経っても、誰の口からも、途切れなかった。
「……でもさ」
蓮が、ぽつりと言った。
「俺ら、湊と、一ヶ月ちょっとしか一緒にいなかったんだよな」
笑い声が、止まった。
「……そうだっけ」
「そう。転校してきて、一ヶ月ちょい」
「嘘でしょ。もっと、何年も一緒にいた気がする」
咲が、コップを両手で包んだ。
「たった一ヶ月だよ。たった一ヶ月なのに、湊のことだけ、全部覚えてる。笑い方も、声も、髪の揺れ方も」
「ずるいよな、あいつ」と、律が笑った。「一ヶ月で、二年分、居座って」
「しかも、消えねえし」
誰も、否定しなかった。
たった一ヶ月。けれどその一ヶ月は、ここにいる全員の中で、今も、ちゃんと続いていた。
蓮が、静かに言った。
「俺、あいつに、謝れてねえんだ」
「知ってる」と、律が言った。「僕も」
「でもさ」と、咲が言った。「湊、怒ってないと思う。『え、いいよー!』って笑ってる気がする」
全員が、その声を頭の中で聞いた。
「そういえば、黒田先生、今でも授業の最初に一問出すんだって」
「マジで? 三年の授業でも?」
「うん。誰も手を挙げないのに、毎回。で、最後は自分で解説して、ドヤ顔で帰っていく」
「あの人、ほんと変わんねえな」
「湊がいたら、秒で解いてたのにな」
誰かが笑った。誰かが、鼻をすすった。
灯は、一番端の席にいた。ほとんど、話さなかった。
湊の笑顔が、本当だったのかどうか。灯には、最後まで、分からなかった。
けれど、みんなが湊の話をして笑う声を聞いているうちに、灯の口元が、ほんの少しだけ、ゆるんだ。
(……ばか)
心の中で、小さく呟く。
席が一つ、余っていた。
誰も座らなかった、空けたままの席。
「湊がいたらさ」
誰かがまた、そう言った。
窓の外は、あの日と同じ、水色の空だった。
(了)
最後まで読んでくださって、ありがとうございます。
湊が何を考えていたのか、あの笑顔が本当だったのか、この物語はあえて答えを書いていません。私にも、決まった答えはありません。ただ、一ヶ月という短い時間でも、人の中に残り続けるものがあると、書きたかったのです。
名前にも、少しだけ意味を込めました。
「湊」は、人が集まり、また旅立っていく場所。「灯」は、その港に光を当てる灯台のつもりです。タイトルの「空色」は、湊の髪の色であり、灯が最後に見上げた空の色でもあります。
この作品には、自殺を扱う場面があります。もし読んでいて苦しくなったり、似た気持ちを抱えていたりしたら、一人で抱え込まず、身近な人や相談窓口に話してみてください。
あなたの中にも、誰かの笑顔が、ずっと残っていますように。




