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プロローグ「出産」

 俺は、これまでに何度も死を覚悟した。


 魔物の群れに囲まれたこともある。

 自分より遥かに強い魔剣士と刃を交えたこともある。

 仲間を失い、血に濡れた剣を握ったまま夜を越したことだって、一度や二度ではない。


 冒険者だった頃の俺は、それなりに名の知られた魔剣士だった。


 冒険者ランクだってA級だ。


 剣を振るい、魔法を使い、魔力で身体を強化する。


 それが俺の生き方だった。


 だが――今の俺は、剣を握っていない。


「……まだなのか」


「あなた、さっきからそればっかりね」


 妻が苦しそうに息を吐きながら、それでも笑った。


「だって……」


「大丈夫よ」


 そう言われても、落ち着けるはずがなかった。


 魔物の巣に単身で入ったときですら、ここまで心臓が騒いだことはない。


 自分の命が危ないわけじゃない。


 なのに、どうしようもなく怖かった。


 俺には、これから生まれてくる子供がいる。


 まだ顔も見ていない。


 男か女かすら分からない。


 それでも、もう大切だった。


「……頑張れ」


 妻の手を握る。


 俺の手よりずっと小さい手だった。


 その手を握りながら、何度も祈った。


 どうか無事でいてくれ、と。


 そして――


 しばらくして。


 部屋に、小さな泣き声が響いた。


 その瞬間。


 世界から音が消えたような気がした。


「……生まれた?」


 自分でも驚くほど、情けない声が出た。


 助産師が笑う。


「元気な男の子ですよ」


 男の子。


 俺の息子。


 そう理解するまでに、少し時間がかかった。


 やがて、腕の中に小さな身体が渡される。


 あまりにも小さい。


 こんな身体で、本当に一人の人間なのかと思ってしまうほどだった。


 けれど、確かに生きている。


 小さな手が動く。


 泣いている。


 ちゃんと息をしている。


「……俺の息子か」


 自然と、笑っていた。


 剣を握っていたときには、一度も見せたことがないような顔で。


 妻も疲れた顔でこちらを見る。


「名前……どうする?」


「もう決めてあるだろ」


「最後に、あなたから聞きたいの」


 俺は腕の中の息子を見る。


 名前は、ずっと前から考えていた。


 立派な人間になってほしい。


 強くなってほしい。


 誰かに誇れる人間になってほしい。


 そんなことも考えた。


 だが、今この子を見ていると、そんな願いはどうでもよくなった。


 強くなくてもいい。


 英雄にならなくてもいい。


 冒険者にならなくてもいい。


 俺と同じ道を歩く必要なんて、どこにもない。


 ただ――


 幸せになってほしい。


 それだけだった。


 俺は妻に名前を告げた。


 妻はその名前を繰り返し、小さく笑った。


「いい名前ね」


「ああ」


 俺はもう一度、息子を見る。


 この世界には、俺の知らない場所がいくらでもある。


 遥か遠くには、まだ見たこともない国がある。


 俺が歩いたことのない大地がある。


 魔物が跋扈する場所も、人間とは異なる文化を持つ土地もある。


 俺ですら、この世界のすべてを知っているわけじゃない。


 ましてや、この子は何も知らない。


 これから何を知り、何を見て、何を選ぶのか。


 俺には分からない。


 剣士になるかもしれない。


 魔術師になるかもしれない。


 冒険者になるかもしれない。


 あるいは、そのどれでもないかもしれない。


 それでいい。


 この子自身が選んだ道を歩けばいい。


 その道の先で、笑っていてくれればいい。


「……お前は、どんな人生を歩むんだろうな」


 返事があるはずもない。


 それでも俺は、そう呟いた。


 小さな手が、俺の指を握る。


 驚くほど弱い力だった。


 なのに、その力だけで俺の心は満たされた。


 ――この世界には、俺の知らないものがたくさんある。


 俺がまだ見たことのない場所も。


 知らない人々も。


 知らない出来事も。


 きっと、この子はいつかそれらと出会うのだろう。


 そのとき、この子が何を思うのか。


 何を望むのか。


 何を幸せだと思うのか。


 俺には分からない。


 だからせめて。


 この小さな命が、自分自身の幸せを見つけられるように。


 俺は、この子の父親として生きよう。


 それだけを胸に刻んだ。


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