第2話 死と再生、そして魔神の産声
その部屋は、絶望を形にしたような場所だった。
高い天井には不気味に発光する赤い結晶が埋め込まれ、室内をどす黒い光で満たしている。
そして広場の中央に、それは鎮座していた。
三メートルを超える巨体。岩のように硬質な灰色の皮膚。丸太のような腕の先には、鋭い爪。
頭部に生えた二本の角が、暴力の象徴のように突き出している。
「……オーガ」
ネットの攻略動画で何度も見た。中層以降に出現する、新人殺しの代名詞だ。
一層の、それも自宅の蔵の中にいていい存在じゃない。
オーガの紅い眼が、俺を捉えた。
そこには、俺がかつて会社で浴びせられた「無能を見る目」と同じ、冷酷な品定めがあった。
――価値なし。
そう判断したかのように、オーガが動いた。
「速――っ!?」
巨体に似合わない、爆発的な踏み込み。
咄嗟に横へ跳んだが、回避が間に合わない。
左肩に、大型トラックに衝突されたような衝撃が走った。
視界が回転し、身体が石壁に叩きつけられる。
「ガハッ……ッ!?」
肺から空気が強制排出され、プロテクターがひしゃげる嫌な音が響いた。
立ち上がろうとしたが、左腕が言うことを聞かない。肩が外れたか、折れたか。
オーガが、ゆっくりと歩み寄ってくる。
必死に右手の短剣を構えるが、膝の震えが止まらない。
死ぬのか。こんな、蔵の地下のよくわからない場所で。
会社を追い出され、社会からも脱落し、最後は化け物の餌になって終わりか。
『ごめんにゃ、凪……』
遠くで、イゾルデの声が聞こえた気がした。
振り下ろされたオーガの拳が視界を埋め尽くし、俺の意識は深い闇へと落ちた。
*
次に目が覚めたとき、そこは「真っ白」な世界だった。
石造りの美しいアーチ、清潔な白いリネン。暖炉では薪がパチパチとはぜ、心地よい熱を放っている。
身体を起こすと、つい数分前まで死にかけていたのが嘘のように、全身の痛みが消えていた。
「目覚めましたか」
鈴を転がすような、透き通った声。
視線を向けると、ベッドの脇に一人の女性が立っていた。
肩まで流れる輝かしい金髪と、深い湖のような碧い瞳。白いドレスを纏ったその姿は、この世の美しさをすべて凝縮したかのようだ。
「……ここは、どこだ? あんたは……」
「私の領域です。あのままでは死んでいたあなたを、治療するために連れてきました」
女性はヴァルナと名乗った。
大精霊――。そう呼ばれる存在であること。そして、俺がここへ導かれたのは偶然ではないことを、彼女は静かに語り始めた。
「謝らなければなりません。あなたをオーガと戦わせたのは、私の意図です」
「……え?」
「あなたの魂にかけられた『枷』を外すには、死の淵で精神と肉体を極限まで追い込む必要があった。……事前に説明せず、このような荒療治を選んだこと、許してください」
ヴァルナは深々と頭を下げた。
大精霊という超越者が、俺のような人間に。怒りよりも先に、困惑が勝った。だが、不思議と嫌な気はしない。彼女の瞳には、嘘偽りのない慈しみがあったからだ。
ヴァルナの話は、俺の想像を絶するものだった。
地球とは別の宇宙にある世界『エーリス』。かつてそこを救った英雄、魔神スサノオ。グリウムという宇宙の魔王との千年前の戦争。スサノオが自らの命と引き換えに魔王を倒したこと。
「スサノオは……死んだのか」
「はい」とヴァルナは言った。声が、少し変わった。「千年以上前のことです。ただ——私はまだ、その話をするとき、昨日のことのように感じます」
超越者が、千年前の友人の死を今も抱えている。その重さを、俺はうまく受け取れなかった。ただ、ヴァルナの目が揺れていたことだけは、分かった。
そして、その魔神の血を最も濃く受け継ぎ、力の発現を抑えるために生まれてすぐに彼女の手で「封印(枷)」を施された赤ん坊。
「それが、俺……神楽凪だと?」
「はい。そして今、枷は外れようとしています」
ヴァルナが俺の手にそっと触れた。
その瞬間、身体の奥底、魂の最深部で巨大な熱源が爆発した。
「ッ、ああぁぁぁッ!!」
熱い。全身の細胞が、回路が、一気に書き換えられていく。
視界の端で、システムログのような光の文字が猛烈な勢いで流れ始めた。
《管理者権限を承認。血脈の枷を完全消去します》
《種族進化を実行――『魔神』へ》
《レベルアップ……レベルアップ……》
《――Level1024に到達しました》
「1024……?」
元システム開発者としての本能が、その数字に反応する。2の10乗。
ネオヒューマンの限界値「99」などという端数とは、次元そのものが違う。
嵐のような力が収まると、俺は自分の身体が劇的に変化したことに気づいた。近くにあった姿見を覗き込む。
そこにいたのは、三十五歳のくたびれた男ではなかった。
精悍で、しなやかな筋肉を宿し、どこか神秘的な雰囲気を纏った……十七歳当時の、若かりし頃の自分だ。
「若返った……のか。それに、この感触は……」
頭に触れると、滑らかで硬い「角」の感触があった。
「魔神の証です。力を使わないときは隠すことができますよ」
ヴァルナのアドバイスに従い、意識を内側に畳み込むイメージをすると、角はすっと消えた。
ヴァルナは少しだけ微笑み、俺の目を見て言った。「神楽凪。生きなさい。英雄スサノオが、世界のために諦めるしかなかった平穏な時間を。今度はあなたが、その力で掴み取るのです」
その言葉の重さが、ブラック企業でボロボロになっていた俺の心に、熱い芯を通した。
*
光が収まると、俺は元の蔵の中に立っていた。
ダンジョンの入り口は消え、そこにはただの古びた蔵の日常が戻っていた。
唯一の違いは、俺の隣に一匹の黒猫がいること。
「……待ってたにゃ」イゾルデが、申し訳なさそうに俺を見上げている。「怒ってるにゃ?」
俺は少し考え、それから彼女を抱き上げた。ふわりとした、清潔な毛並みの感触。
「……怒ってない。ただ、次は先に言ってくれ」
「ごめんにゃ、凪」
イゾルデが「なぁ〜」と甘えるように鳴く。
蔵の隙間から、五月の清々しい朝の光が差し込んでいた。
レベル1024。種族、魔神。
不当に奪われた俺の人生。今度は、この力を使って「悠々自適」にやり直させてもらう。
「行くか、イゾルデ」
「なぁ〜!」
俺の、新しい「仕事」がここから始まった。
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