第24話 白い猫と、千年の再会
ソフィアから連絡が来たのは、南大沢で別れた三日後だった。
メッセージアプリに、短い文章が届いた。
「検討した。加入する。条件を聞かせてほしい」
俺はしばらくその文章を見ていた。
「イゾルデ」
「なぁ~」とイゾルデが飛んできた。画面を覗き込んで、尻尾をぴんと立てた。「来たにゃ!! ボクの勘は正しかったにゃ!!」
「分かった分かった」
《精霊の勘の精度については、先日申し上げた通りです》とエルが言った。
「お前まで乗るな」
俺はソフィアに返信を入れた。条件は一つだけだと書いた。
「俺の正体について、知ったことは外に出さないこと」
数分後に返信が来た。
「それだけか」
「それだけです」
「分かった」
あっさりとした返事だった。俺も同じ温度感で受け取った。
これでいい、と思った。
*
翌日、ソフィアが六本木のペントハウスに来た。
部屋に入ったソフィアは、窓からの夜景を一瞥して「広い部屋だ」と短く言った。感嘆でも皮肉でもない、ただの観察だった。
「座ってください」
「ありがとう」
ソファに向かい合って座った。イゾルデがさっそくソフィアの隣に陣取った。ソフィアがイゾルデを見て、少し表情をゆるめた。
「少し待ってください」俺はキッチンに向かった。
ペントハウスに越してから、一つだけ習慣にしていることがある。来客があるときは、自分で茶を入れる。元々、ブラック企業時代に唯一の息抜きだった缶コーヒーの代わりに紅茶を飲むようになったのが始まりで、今は茶葉を選ぶところから始める程度には凝るようになっていた。
今日はアールグレイにした。ベルガモットの香りが強めの、ドン・キホーテで買った安い茶葉だ。高級品より、なぜかこっちの方が落ち着く。ティーポットに湯を注ぎながら、イゾルデの声が聞こえた。
「ソフィアは何が好きにゃ? 甘いもの?」
「……どちらかといえば」というソフィアの声。少しだけ、警戒が抜けたような響きだった。
トレーに紅茶と、昨日柚葉が置いていった焼き菓子の箱を乗せて戻った。
「口に合うかは分かりませんが」俺はカップをソフィアの前に置いた。
ソフィアが一瞬、カップを見た。それからこちらを見た。
「……自分で入れるのか」
「業務用のキッチンがあるので、使わないともったいないですから」
「Спасибо(スパシーバ)」ソフィアはカップを両手で持った。一口飲んで、少し目を細めた。「……美味しい」
「それはよかった」
焼き菓子の箱を開けると、ソフィアが箱を見て「これは」と言った。
「柚葉——妹が持ってきたものです。有名な店らしいですが、俺にはよく分からなくて」
「北条院の御用達の菓子店だ」ソフィアは少し黙った。「……日本に来て、こういうものを誰かと食べたのは初めてだ」
それ以上は何も言わなかった。ただ、菓子を一つ取って、静かに口に運んだ。
イゾルデが「ボクも食べるにゃ」
「お前は猫だ」
「獣人にゃ」
「改めて確認させてほしい。あなたのパーティーは、今は何人だ」
「俺とイゾルデの二人です。正確にはイゾルデは俺の相棒で、パーティーという形ではないかもしれませんが」
「私が入れば三人か」ソフィアは少し考えた。「少ない」
「少ないですね」
なぜ二人揃って「少ない」と確認し合っているのかよく分からないが、事実なので否定もできない。
「当面は三人で動くのか」
「状況によっては助力を借りることもありますが、基本はそうです」
ソフィアがしばらく俺を見た。
「あなたの目的を聞いていいか」
「この国が誰かに乗っ取られると困る、というのが今のところの動機です。詳しくは話せないことも多いですが、隠す気はありません。話せる範囲では全部話します」
「正直だ」
「嘘をつくのが面倒なので」
ソフィアが少し笑った。声に出さない、口元だけの笑いだ。
「私の事情も話す。ロシアにいた頃、私のパーティーが新貴族に近い組織に壊された。メンバーは全員生きているが、活動を続けられなくなった。日本に来たのは、その組織の日本支部を調べるためだ」
「……新貴族と繋がっている組織が、ロシアにもあるということですか」
「ある」とソフィアは言って、目を細めた。「大きな組織だ。一国だけの話ではない」
《エルマキシム大公の動きは、日本国内だけに留まらない可能性があります》とエルが言った。《ソフィアさんの情報は、その仮説を補強します》
俺は少し息を吐いた。
予感はあった。ただ、こうして別の角度から裏付けが入ると、話のスケールが変わってくる。
「情報を共有しましょう。お互いに持っているものを出し合う方が、単独で動くより早い」
「同意する」とソフィアは即答した。
イゾルデが「これで三人にゃ」と満足そうに言って、ソフィアの肩に頭を乗せた。ソフィアが微妙な顔をしたが、払いのけなかった。
「……この猫、距離が近い」
「相棒なので」
「猫なのに相棒」
「獣人にゃ」とイゾルデが言った。
「……そうか」とソフィアは言って、それ以上は突っ込まなかった。
ソフィアが帰り際、玄関でコートを着た。紅茶の礼を言おうとしたのか、こちらを振り返りかけて——やめた。「また来る」とだけ言って、ドアを閉めた。
何を言いかけたのかは分からなかった。分からなかったが、少しだけ気になった。
*
ソフィアが帰った夜、俺はアリスに連絡を入れた。
《ご報告があります》とエルが静かに言った。連絡を打ちかけた手が止まる。《登録者数が、百万人を超えました》
「……百万か」
「にゃはっ」とイゾルデが窓際から言った。「凪、百万にゃ」
「実感がないな」
「ボクもないにゃ」イゾルデは尻尾を揺らした。「でも、すごいことにゃ」
《JIN_KIRISHIMAが第三回配信のアーカイブに、本日また高評価をつけています。あの方が定期的に見ている形跡があります》
「……定期的に」
確認する気にもなれなかったが、少し背筋が伸びる感覚はあった。
「アリスに連絡する」と言って、スマホを打ち始めた。
「ヴァルナさんのところに行く準備ができました。来週、一緒にどうですか」
返信はすぐに来た。
「いつでも行けます。あなたの都合に合わせます」
文字からでも、緊張が伝わるような返事だった。
*
一週間後の昼過ぎ、アリスを連れて町田の実家に向かった。
蔵の前に立ったとき、アリスが足を止めた。
石造りの門構えを見て、青白い光が漏れる文様を見て、小さく息を吐いた。
「……ヴァルナ様の魔力だ」とアリスは言った。声が、わずかに揺れていた。
「感じられますか」
「はい。この感覚は——七十年前と変わっていない」
アリスは百二十一歳のエルフだ。七十年前の記憶が昨日のことのように残っている。
イゾルデが蔵の扉に手をかけた。「行くにゃ」
三人で、階段を降りた。
*
深淵ダンジョンは、いつ来ても同じ空気だった。
魔力の濃度が高い。壁の文様が青白く発光している。音が、地上とは違う吸われ方をする。
アリスは無言で歩いていた。ただ、その目が——降りるにつれて、少しずつ変わっていった。抑えているのに、抑えきれないものが滲んでいた。
《アリスさんの魔力が、微かに波立っています》とエルが言った。《感情の揺れが、魔力に出ています》
俺は何も言わなかった。
ヴァルナの空間への扉の前に着いた。
「ここです、準備はいいですか」
アリスが少し間を置いた。
「……はい」
扉を押した。
*
石造りのアーチ。暖炉の火。白いベッドリネン。
ヴァルナが窓際に立っていた。
金髪に白いドレス。深い碧の瞳。その瞳が扉を向いて——アリスを見た瞬間、止まった。
長い沈黙があった。
「……アリス」とヴァルナは言った。静かな声だった。「大きくなった」
アリスが一歩、前に出た。
「ヴァルナ様」声が出なくなりかけて、それでも続けた。「七十年、探していました」
「知っている」ヴァルナはゆっくりとアリスに近づいた。「ずっと見ていた。ただ——声をかける方法がなかった」
「なぜ姿を消したんですか」と言うアリスの声は、怒りとも悲しみとも取れる響きがあった。「エーリスのみんなが、心配していました。私も——」
「ごめんなさい」ヴァルナはアリスの前に立った。「正直に言う。スサノオを失ってから、しばらくの間、自分がどこにいるべきか分からなかった。エーリスに留まる意味も見えなかった。ただ、あなたたちを傷つけたくなかったから、黙って消えた。それは——正しくなかった」
アリスが目を閉じた。
少しの間があって、目を開けた。
「……謝罪は受け取ります。ただ、次に姿を消すときは一言ください」
「約束する」ヴァルナはかすかに微笑んだ。「エルフは言葉を覚えているから」
イゾルデが俺の袖を引いた。「凪、こっちにゃ」と小声で言って、部屋の隅の方に引っ張った。
「分かった」と俺も小声で返した。
二人——ヴァルナとアリスを、少し離れたところから見ていた。
ヴァルナがアリスに何かを話している。声は届かない。ただ、アリスが時々頷いていた。七十年分の話が、静かに流れ始めていた。
「よかったにゃ」とイゾルデが言った。
「ああ」
《ヴァルナ様のご様子を感知しています》とエルが言った。いつもより、少しだけ柔らかい声だった。《長い間、この再会を待っていたようです。凪が連れてきてくれたことを、喜んでいます》
「俺はただ、扉を開けただけだ」
《それで十分です》とエルは言った。《扉を開けることが、いちばん難しい場合もありますから》
暖炉の火が、静かに揺れていた。
いつも読んでいただいて、ありがとうございます。
ティータイム・ストーリー(イゾルデ編)が好評だったので(?)
今夜も閑話として「ティータイムストーリー(ソフィア編)」を
三話連続でお届けします。ソフィアの可愛さが爆発します。
ここまでで、少しでも「面白そう!」「期待できる!」そう思っていただけましたら、
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