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第20話 億の話と、六本木の夜景

 彰彦さんから連絡が来たのは、南大沢でソフィアと別れた翌々日だった。


「素材の査定が完了しました。今日、お時間はありますか」


 午後に代々木上原の一条家別邸に出向くと、彰彦さんはいつも通りの穏やかな顔でテーブルに書類を並べた。


「では、結果をお伝えします」


 書類を一枚、俺の前に差し出した。


 俺は数字を見た。


 目を疑った。


 もう一度見た。


「……これ、単位は円ですよね」


「はい」


「八千四百万」


「素材三種の合計です」と彰彦さんは言った。「うち一種——深層核石ですが、こちらが六千二百万円を占めています。成分の希少性と研究応用の可能性を勘案した結果です。市場価格の三倍という約束ですが、正直に申し上げると、市場価格自体が存在しない素材なので、こちらで算定しました」


「市場価格がない素材を、どうやって値付けするんですか」


「研究部門の『これがないと困る度』で決めます」と彰彦さんは静かに言った。「困る度が高いほど、値段が上がります」


 俺は書類をテーブルに置いた。


「……分かりました。受け取ります」


「ありがとうございます」と彰彦さんは言って、もう一枚書類を出した。「それと、節税の話をさせてください」


「節税」


「このペースで素材を売却されると、年間の所得税が相当な額になります。探索者法人を設立して、売却益を法人所得として処理することをお勧めします。設立費用と手続きは一条グループが代行します。費用は結構です」


 俺は少し間を置いた。


「なぜそこまでしてくれるんですか」


「神楽さんが健全に稼ぎ続けてくれる方が、一条グループにとっても都合がいいからです」と彰彦さんは言って、わずかに目を細めた。「それだけです」


 穏やかな笑顔だった。ただ、この人が「それだけです」と言うとき、大抵「それだけではない」ことが後でわかる。それが彰彦さんという人間だと、俺は少しずつ学んでいた。


《補足いたします》とエルが頭の中で言った。《一条グループが法人設立を代行することで、神楽さんの財務情報を把握できるという側面もあります。彰彦さんの言葉は嘘ではありませんが、全部でもありません》


 分かってる、と俺は内心で返した。それでも、条件としては悪くない。


「お願いします」「ただ、全部は任せません。月次の報告は俺自身も確認します」


「もちろんです」と彰彦さんは即答した。「それが健全な関係というものです」


  *


 帰り際、彰彦さんが「もう一つ」と言った。


「住まいの件ですが」


「住まい」


「現在、町田市の農家にお住まいですよね」と彰彦さんは言って、少し間を置いた。「一条グループが六本木に所有する物件があります。最上階が現在空室です。よろしければ、ご使用ください」


「いらないです」と俺は即答した。「今の家で十分です」


「そうですか」と彰彦さんは言った。それ以上は何も言わなかった。


  *


 その夜、柚葉から電話が来た。


「お兄ちゃん、六本木の物件、断ったって本当?」


「本当」


「なんで!?」


「今の家で十分だと言っただろ」


「十分じゃないよ!」と柚葉が言った。珍しく声が大きかった。「お兄ちゃん、今どこに住んでるか分かってる? 古い農家の蔵の隣だよ? 蔵にダンジョンが出現してる農家だよ? しかも一人で住んでるんだよ?」


「落ち着け」


「落ち着いてる! 落ち着いた上で言ってる! お兄ちゃんの生活環境、客観的に見てちょっとおかしいから!」


 イゾルデが肩の上で「なぁ~」と相槌を打った。


「お前まで」


「ボクも広いところに住みたいにゃ」とイゾルデは言って、耳をぴくりと動かした。「走り回れる場所がほしいにゃ」


「お前は猫だろ」


「獣人にゃ」


 電話の向こうで柚葉が「ほら、イゾルデちゃんも言ってるじゃん」と言った。


 俺は少しの間、天井を見た。


「……六本木まで、南大沢に通えるか」


「電車で三十分かからないよ」と柚葉が即答した。「彰彦さんに電話する。決まりね」


「決めるのが早い」


 電話が切れた。


 イゾルデが得意げに尻尾を立てた。


「ボクの勝ちにゃ」


「負けた覚えはない」


《客観的に見ると、負けておられます》とエルが言った。


  *


 一週間後、俺は六本木の夜景を見ていた。


 ペントハウス。三十八階。窓一面にTokyo Towerが見える。東京の夜がそのままパノラマになっている。


 部屋は広すぎた。リビングだけで今まで住んでいた農家の居間の四倍はある。キッチンはほぼ業務用だ。寝室が三つある。使い道が分からない。


「広いにゃあ」とイゾルデが言って、廊下を全速力で走り始めた。


「走るな」


「走っていいにゃ。広いんだから」


 確かに走ってもぶつかるものがなかった。


 俺はソファに腰を下ろして、夜景を眺めた。


 一億円近い収入があって、六本木のペントハウスに住んでいる。


 三か月前は、ブラック企業でサービス残業をして、田所に怒鳴られていた。


 自分の人生がどこかで分岐した感覚があった。あの朝、自宅の蔵にダンジョンが出現したあの日から、何かが変わり始めた。


 いや——変わったのは世界じゃなくて、俺の方だ。


 悪くない、と思った。


  *


 夜遅く、俺はスマホを取り出してアビスゲートのサイトにアクセスした。


 登録は事前に済ませてある。匿名アカウント、支払いは暗号通貨経由。エルに設定を手伝ってもらった。


「これで合ってるか」


《問題ありません。現在のアカウントは一条グループとも、神楽凪という個人とも紐づいていません。完全に匿名です》


 出品フォームに、素材の情報を入力した。


 深層核石の余剰分——一条グループに売却した後に手元に残っている個体が三つある。同じ素材を同じルートで全部売るのは、価格の叩き合いになる可能性がある。分散させた方がいい。


 カテゴリ:深層素材(未登録)

 説明:南大沢ダンジョン深層にて採取。地上未登録素材。魔力密度極めて高。現物確認可。

 開始価格:二千万円


《相場が存在しない素材ですので、開始価格の設定は難しいところです。ただ、一条グループが六千万円以上で評価した素材です。二千万は低めの設定かと》


「わざと低めにする。競り上がった方が最終価格が上がる」


《……なるほど。主は商売が分かっておられますね》


「元社畜の知恵だ」


 出品ボタンを押した。


 翌朝、目が覚めてスマホを確認すると、入札が十七件入っていた。


 現在の最高入札額:一億二千万円。


 オークション終了まで、あと五日。


 俺はしばらく画面を見つめた。


「……エル」


《はい》


「これ、最終的にいくらになると思う」


《現在のペースだと、終了時には二億を超える可能性があります。ただし、入札者の中に複数の海外エージェントが含まれています。本格的な競り合いになれば、三億に届くかもしれません》


 俺はスマホを置いた。


 イゾルデがまだ廊下を走り回っている音がする。


 窓の外には、朝の東京が広がっていた。


「悪くないな」


 誰に言うでもなく、ただそう思った。


★ここまで読んでいただき、ありがとうございます。★

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