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第16話 楠木壱成は、動き始める

 楠木壱成は、南大沢ダンジョンの前に立っていた。


 一人だった。


 村神には言っていない。大公にも報告していない。今日ここに来たのは、楠木個人の判断だ。


 大公の指示は「泳がせろ」だった。神楽凪という6級探索者を泳がせて、何者かを見極める。それが現在の方針だ。楠木はその指示に従っている。従っている、が——観察することは禁じられていない。


 支部に入り、受付の前を通り過ぎた。窓口には、黒髪の女性受付員が座っている。坂崎という名前だ。元探索者で、鋭い目をしている。彼女が先日、神楽凪の昇格審査の問い合わせを上に入れたという情報を、楠木は把握していた。


 神楽凪のファイルを、楠木は頭の中で開いた。


 登録から数週間。6級から5級に昇格。南大沢ダンジョンの五層まで単独で踏破。討伐数と帰還率、いずれも安定している。腕輪を二つ装着している理由は不明。一条彰彦と接触している。


 そして——黒猫ちゃんねるの仮面の配信者。


 大公は「同一かもしれない」と言った。楠木の目には、「同一だ」と映っていた。新宿の協会本部で見た6級の少年の目と、仮面越しに見た配信者の目が、一致している。あの種の目は、そう何人もいるものではない。


 全てを見通すような目。そして——怖がりながらも、そこから逃げない目。


 楠木は南大沢ダンジョンの入口をくぐった。


 今日の目的は、ダンジョン内での神楽凪の動きを直接確認することだ。情報だけでは不十分だ。自分の目で見なければ、判断できない。


  *


 三層まで降りたところで、楠木は足を止めた。


 前方に、人の気配があった。


 少年だ。黒い髪。黒猫を肩に乗せている。神楽凪。


 少年はこちらに気づいていない——わけではないだろう、と楠木は思った。気づいた上で、気づいていないふりをしている。


 楠木は物陰から、少年の動きを観察した。


 ワーウルフが前方に現れた。二体。四足で地を蹴り、速度が速い。6級はおろか、5級の探索者でも正面から捌くのは難しい相手だ。


 しかし少年は、立ち止まらなかった。歩みを緩めることもなく、短く何かを呟いた。


 次の瞬間、ワーウルフの動きが鈍った。


 デバフだ、と楠木は判断した。速度と知覚を同時に乱す系統。ワーウルフの最大の武器はその速さだ——それを封じるスキルの選択が、的確すぎる。5級の探索者が咄嗟に判断できる精度ではない。


 少年が右手を軽く動かすと、肩の黒猫が飛び降りた。


 黒猫が——変化した。


 一瞬のことだった。猫耳を持つ人型の存在が、短剣を二本抜いて、ワーウルフに踏み込んだ。刃が金色の光を帯びる。高速の連撃。動きの鈍った二体が、十秒もかからずに消えた。デバフがなくても仕留めていただろう、と楠木は思った。あの速度と精度なら。


 人型の存在が少年の肩に戻り、また黒猫の姿になった。


 少年が歩みを再開した。


 楠木は動かなかった。


 今見たものを、頭の中で整理した。


 少年は、ネオヒューマンだ。免許に記載されているレベルは10だが、実態は全く違う。デバフの精度と速度は、楠木が知る2級以上の探索者と比べても遜色がない。あるいはそれ以上だ。


 そして——あの黒猫。


 2級以上の探索者には感知できる、という話を聞いたことがある。楠木のレベルは21だ。感知できた。しかし、あの存在が何者かは分からない。猫と人型を行き来する。高速の二刀流。魔力を纏わせた刃。


 見たことがない。


 楠木は静かに踵を返した。これ以上の追跡は、今日の目的の範囲を超える。


  *


 地上に戻り、楠木は夕暮れの空を見た。


 報告すべきか、と考えた。


 大公への報告義務がある。しかし——今日の観察で得た情報を、そのまま渡すことへの躊躇いが、楠木の中にあった。


 なぜか。


 楠木は自分の内側を確認した。感情に流されることを、楠木は好まない。判断は常に冷静でなければならない。しかし、今の躊躇いの正体は何か。


 あの少年が、危険だから報告すべきでない、と思っているのか。


 違う。


 あの少年が、単純に大公の利用対象として消費されることへの——何か。


 楠木は顔をしかめた。自分らしくない考え方だ、と思った。感傷に近い。


 スマホが振動した。


 娘の美紗からのメッセージだった。


「お父さん、今日帰り遅い? 夕ご飯、作って待ってるけど」


 楠木は少し間を置いてから、「遅くなる」と返した。


 それから、もう一度考えた。


 美紗は黒猫ちゃんねるの視聴者だ。「逃げない」という配信者の言葉を、美紗が気に入っていることを、楠木は知っている。美紗が探索者になりたいと思っていることも知っている。それを楠木が止めていることも。


 理由は一つだ。自分が関わっていることに、娘を近づけたくない。


 ただ——美紗はもう近づき始めている。探索者バッジを取った。黒猫ちゃんねるを見ている。「逃げない」という言葉を繰り返している。楠木が止めようとするほど、美紗は前へ行こうとする。それは、楠木自身が若い頃にやったことと、同じだった。


 楠木は歩き出した。


 今日の観察結果は、まだ報告しない。もう少し確認する必要がある、という理由をつければ、大公も村神も納得する。それだけの時間を、楠木は自分に与えることにした。


 ただ——報告しないことで生じるリスクが一つある。平野だ。


 村神の直属、血脈の誓いのリーダー。あの男は楠木とは別の経路で情報を集める。南大沢で独自に動いている。神楽凪という6級に気づく前に、楠木が先に動いておく必要がある。平野に先を越されれば、制御できない事態になる。


 あの男の「手が滑る」は、比喩ではない——楠木はそれをよく知っていた。


 何のために、とは、まだ言えない。


 ただ——「目が似ている」と思ったあの瞬間から、楠木の中で何かが動き始めていた。


  *


 その夜、美紗は自室で黒猫ちゃんねるの最新のアーカイブを見ていた。


 三十五層の魔獣との戦い。魔神様が一瞬、前に出た場面。腕輪を一つ外した瞬間の、空気が変わるような感覚。


 美紗にはまだ、あの配信者が何者か分からない。仮面で顔は見えない。声は若い。ただ、コメント欄で「tk_investigator」というアカウントがたまに的確なことを言っていて、美紗はそれも毎回読んでいた。


 見るたびに思う。


 あの人は、怖いものから逃げていない。


 コメント欄に「迷える剣士:魔神様、怖くないんですか」と打ちかけて、消した。こんなこと聞いても意味がない。向こうは私のことなんか知らないんだから。


 廊下を、父の足音が通り過ぎた。


 美紗はスマホを握ったまま、動かなかった。


 父が何をしているのか、美紗は知りたくなかった。知ってしまうことが怖かった。


 でも——逃げていていいのか、という問いが、最近ずっと頭の中にある。


 美紗はもう一度スマホを開いて、コメント欄に打ち込んだ。


「迷える剣士:逃げない、ってどういう気持ちでそう言えるんですか」


 送信した。すぐに後悔した。でも、消さなかった。


 答えは、まだ出ていない。


ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

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