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第10話 登録者三万人と、坂崎さんの話

 朝、スマホを確認して、俺は少し固まった。


 登録者数、三万二千人。


 昨夜の配信終了時点では一万八千人だった。一晩でそこまで増えるのか。エルに聞くと「アーカイブが拡散しています」と即答された。南大沢支部に向かいながら、その数字をしばらく頭の中で転がしていた。


 窓口に着くと、坂崎さんが「お待たせしました、神楽さん」と言った。


「今日の計画書です」と差し出した。


 坂崎さんが確認しながら、「南大沢の五層まで、ですね」と言った。「単独。帰還予定、十七時」


「はい」


 スタンプが押される。いつも通りの手順だ。


 しかし今日は、スタンプが押された後も坂崎さんが計画書を俺に返さなかった。


「神楽さん」


「はい」


「昨日の夜、黒猫ちゃんねるの第三回配信、見ました」


 俺は表情を動かさないようにした。


「……そうですか」


「すごかったです」と坂崎さんは言った。仕事中の声と、少し違う声だった。「三十五層の魔獣、あれは本当に——見たことないモンスターで。魔神様が前に出た瞬間、思わず声が出てしまって」


「それは盛り上がりましたね」


「はい」と坂崎さんは言って、少し笑った。「で、神楽さん」


「はい」


「黒猫ちゃんねる、知らないんですよね」


 俺は一拍、間を置いた。


「知らないですね」


「そうですか」


 坂崎さんが計画書を返してきた。目が、笑っていた。


 受け取りながら、俺は「気をつけて、行ってきます」とだけ言って、窓口を離れた。


 後ろからイゾルデが小さく「ふにゃ〜」と鳴いた。笑ってやがる。


《主の返答、少し苦しかったかと存じます》とエルが頭の中で言った。


「分かってる。……分かってる」


《……お疲れ様でした》


 支部の扉を押して、外に出た。


  *


 南大沢ダンジョンの五層まで潜って、素材を回収して、帰還報告を済ませた。


 それだけの一日だった。


 配信を重ねるごとに、南大沢への通常潜入は「レベル10相当の練習」という意味合いが強くなっている。腕輪を両方つけたままの戦闘は、まるでリハビリのようだ。


 もっとも、それで構わない。目的は生活費の確保であって、南大沢では目立たないことが最優先だ。


 帰還報告を終えて、支部のロビーを出ようとしたとき、また坂崎さんに声をかけられた。


「神楽さん、少しいいですか」


 窓口業務の合間の声だった。ロビーの隅に目配せされたので、俺は壁際まで歩いた。


「なんですか」


「仕事の話じゃないので、手短に」と坂崎さんは言った。「黒猫ちゃんねるのことで、少し気になってることがあって」


「俺に聞いてもよく分かりませんが」


「そうですよね」と坂崎さんは言ってから、「——でも、神楽さんに聞きたいんです」と続けた。


 俺は少し坂崎さんを見た。


 元探索者の目だ。仕事の目ではなく、何かを測ろうとしている目。


「なんですか」


「あの配信の魔神様、どう思いますか。強さが本物かどうかっていう話じゃなくて——あの人、ちゃんとダンジョンを怖がってると思いますか」


 想定していない質問だった。


 俺は少し考えた。自分自身のことを「ちゃんと怖がっているか」と聞かれたのは、初めてだった。


「見た感じ、どう思いましたか」と俺は逆に聞いた。


「怖がってると思います」と坂崎さんはすぐに答えた。「三十五層の魔獣に前から向き合ったとき、あの人、一瞬止まったんです。ほんの一秒くらいですけど。それが——怖がってる人間の間だと思って」


 俺は黙っていた。


「怖くない人間は、止まらないんです」と坂崎さんは続けた。声が少し、変わった。「止まれる人間は、怖さを知ってる人間で——だからこの人は信用できるなって、なんとなく思いました」


 坂崎さんが我に返ったように、「すみません、変なことを言いました」と言った。「ただ見ていて、そう思ったので」


「いいえ、参考になりました」


 坂崎さんが少し首を傾げた。


「神楽さんが参考にして、どうするんですか」


「知らないチャンネルですけど、今度ちゃんと見てみようと思って」


 坂崎さんが笑った。今日初めて、声に出して笑った。


「なんか、すみません。本当に変な話をしてしまって」


「いや、面白かったです」と俺は続けた。


 面白かった、というのは本当だった。坂崎さんが俺の配信を見て「怖がってる」と言った。元探索者の観察眼が、そこを拾っていた。


 俺は確かに、三十五層の魔獣の前で一瞬止まった。強さじゃなくて、未知のものに対する反射だ。レベル1024の魔神でも、見たことのないものは怖い。


 それを坂崎さんは「信用できる」と言った。


  *


 家に帰って、スマホを見た。


 登録者数が、三万人を超えていた。


「三万か」


「なぁ〜」とイゾルデが鳴いた。テーブルの端で丸まったまま、尻尾だけ揺らしている。


《第三回配信のアーカイブが各SNSで拡散中です。特に三十五層戦のクリップが複数作成されており、現在も再生数が伸びています。推定ですが、登録者数は今週中に五万を超える見込みです》


「早いな」


《チャンネルの成長速度は、現時点でダンジョン系配信の中で国内最速です。……ご参考まで》


「それはすごいのか」


《かなりすごいです》とエルは言った。珍しく、端的に。


 俺はソファに座って、天井を見た。


 ブラック企業を解雇されてから、数か月が経った。


 当時の俺は、次の仕事のあてもなく、実家に転がり込んで、悪夢を見ては目が覚める生活をしていた。田所に責任をなすりつけられて、反論できなくて、そのまま終わった三年間の後遺症だ。


 今は、違う。


「イゾルデ」


「なぁ〜」


「整理するぞ。登録者三万人のチャンネルができた。未登録素材が虚空格納こくうかくのうに入ってる。彰彦さんと優先供給契約を結んだ。五十層の扉はまだ開いていない」


「なぁ〜」


「悪くないスタートだよな」


「なぁ〜」とイゾルデは鳴いて、尻尾をゆっくり揺らした。「ただ、動き始めてるものが多すぎるにゃ。新貴族、如月という調査官、「蒼」のコメント」


「お前もちゃんと把握してるじゃないか」


「ボクは最初からちゃんとしてるにゃ」


 足元は固まってきた。ただ、まだ遠い。


「最初に俺の枕元に来たとき、何を考えてた」


 イゾルデがゆっくり顔を上げた。金色の瞳が、俺を見た。


「凪が起きるかどうか、見てたにゃ」


「起きる、というのは」


「ちゃんと生きようとするかどうか、にゃ」とイゾルデは言った。「あのとき凪は、眠ってるんだか起きてるんだか分からない顔をしてたにゃ。田所のことを夢で見て、うなされてたにゃ」


「それで」


「ちゃんと起きたにゃ」とイゾルデは言って、また丸まった。「だから良かったにゃ」


 それだけだった。


 それだけだったが、俺には十分だった。


《ご報告があります》とエルが言った。《南大沢ダンジョンの五十層への扉から、微かな魔力の波動が観測されています。おそらく次の潜入を感知しているものと思われます》


「扉が、待ってるのか」


《表現が正確かどうかは分かりかねますが——そう言い換えても、おかしくはないかと》


 俺はスマホをテーブルに置いた。


 覚醒して、免許を取って、装備を揃えて、チャンネルを開いて、潜って、稼いで——気づけば、随分と動いてきた。


 ここまでは、準備だった。次は、本格的に動く番だ。


「イゾルデ、明後日また配信する」


「なぁ〜」と尻尾が揺れた。


「その前に、エル」


《はい、主》


「五十層の向こうに何があるか、分かることはあるか」


《現時点では、ほとんど何も》とエルは言った。《わたくしのデータベースにも、五十層以降の記録はありません。……ただ》


「ただ?」


《先ほど観測した魔力の波動に、見覚えのある成分が含まれていました。ヴァルナ様の魔力に、少し似ています》


 俺はしばらく黙っていた。


「分かった。調べておいてくれ」


《承知いたしました》


 夜が深くなっていた。


 町田の古い農家の蔵の下に、五十層への扉がある。エルによれば、その扉の向こうからヴァルナの魔力に似た波動が届いているという。


 次の配信は、その扉を開ける。


 悠々自適まで、まだいくつかの扉がある。——まあ、悪くない。


ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

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