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インナーマッスルに届け!───鍛えたのは、身体と恋と生き直す勇気だった───  作者: 宮野夏樹
第2章 触れたい本音と教官の仮面【葛藤編】

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09.恋人なのに

 窓の外、まだ乳白色の朝靄がヴァルキュリア・トレーニングアカデミーの尖塔を包んでいる。ナツメは、日の出と共に開放されるトレーニングホールの重い石の扉を引いた。誰もいない空間に、自分の足音だけが小気味よく響く。


「……ふぅ」


 一呼吸。肺の隅々にまで冷涼な空気を送り込む。マットの上に腰を下ろし、ナツメはゆっくりとストレッチを開始した。前世、鬼頭夏夢だった頃には考えられないほど、今の彼女の身体は柔軟で、機能的だ。股関節を割り、上体を深く倒す。以前なら「苦痛」でしかなかったこの動作が、今は「細胞の対話」のように心地よい。


 ――昨日、私たちは「恋人」になった。


 不意に脳裏をよぎったその事実に、ナツメの心拍数が跳ね上がった。あの、夕闇の中での告白。グレンが自分を抱き寄せた、あの腕の驚くべき太さと、そこから伝わってきた「震えるほどの情熱」。


(恋人。……私と、グレン教官が)


「恋人」という単語のあまりの質量に、ナツメは思わず顔を伏せた。鏡に映る自分は、運動後でもないのに耳まで真っ赤に染まっている。


「……早いな、ナツメ」


 低く、硬質な声が広いホールに響いた。心臓が口から飛び出すかと思った。振り向くと、そこにはいつも通りの――いや、いつも以上に隙のない、完璧な「教官」の顔をしたグレンが立っていた。


「お、おはようございます、グレン……先輩」


 喉の奥で「教官」と言いそうになり、慌てて「先輩」と呼び変える。


 昨日、二人の間で「これからは対等な関係になろう」と、呼び方を変える約束をしたはずだった。けれど、いざ目の前に立つと、口が勝手に「敬語」と「上下関係」を選んでしまう。グレンは特に動じた様子も見せず、ナツメの隣のパワーラックへと向かった。


「今日も身体のキレは良さそうだ。……準備運動が終わったら、ペア・ストレッチに入る。可動域を確認するぞ」

「は、はい!」


 いつも通りの指示。いつも通りの距離感。昨日、あんなに熱く抱きしめ合った記憶は、もしかして私の筋肉が見せた幻覚だったのではないか。ナツメは、戸惑いと共にマットから立ち上がった。




「背中を向けろ」


 グレンの短い指示に従い、ナツメは彼に背を向けて座る。

 背後にグレンが立つ。彼の巨大な影が自分を覆うだけで、肌の表面が粟立つような緊張感が走った。


「腕を後ろへ。肩甲骨の下部を意識しろ」


 グレンの大きな手が、ナツメの肩に触れた。その指先は、解剖学的に正確な位置――広背筋と大胸筋の境界線を捉える。


「……っ」


 ナツメの身体が、かすかに強張った。昨日の夜、彼の手に触れられたときは、熱くて、とろけるような感覚があった。けれど今の彼のタッチは、あくまで「トレーナーが教え子に向けるそれ」だった。無機質で、冷徹で、一点の私情も混じっていない。


「……ナツメ。力が入りすぎている。呼吸が浅いぞ」


 グレンの声が、耳元で低く響く。


「あ、すみません……」

「謝る必要はないと言っている。……リラックスしろ」


 リラックスなんて、できるわけがない。すぐ後ろに、愛している人がいる。その人は、自分のすべてを知っているはずなのに、今はただ「筋肉のコンディション」だけを冷徹に見極めているのだ。


「……次、正面だ」


 向き直る。至近距離でグレンと視線がぶつかりそうになり、ナツメは慌てて彼の「鎖骨」あたりに視線を落とした。


 グレンの大胸筋は、今日も服の上からでもわかるほど分厚い。その奥で、自分と同じように激しい鼓動が刻まれているのかどうか、知りたくてたまらなくなる。グレンはナツメの手首を掴み、腕を上方へ引き上げる。


「│棘下筋きょくかきんの伸びが甘い。……もっと、身を委ねろ」

「……」


 ナツメは唇を噛んだ。


(身を委ねろって……そんなこと言われても……)


 仕事モードのグレンは、あまりに完璧すぎて、隙がない。

 彼は、自分とナツメの「公私」を、鋼のような意志で切り離しているようだった。


 それがプロフェッショナルなのだと理解はしていても、ナツメの心の中には、小さな「寂しさ」という名の筋肉痛が広がり始めていた。




 日中の業務が始まると、アカデミーは多くの志願兵や市民トレーナーたちで活気づいた。ナツメもまた、新人トレーナーとして、次々とやってくる会員たちの指導に当たる。


「はい、腰を丸めないで!  視線は前ですよ!」


 明るく、元気に振る舞う。それがナツメの仕事だ。時折、広いホールの反対側で、高重量のバーベルを指導するグレンの姿が目に入る。


 彼は相変わらず、厳格な教官として君臨していた。その指導を受けた若者たちが「は、はい!  シルフィード教官!」と直立不動で答えている。


(……ああ。やっぱり、あっちが本物のグレン教官なんだ)


 昨夜、月明かりの下で見せた、あの少しだけ困ったような、優しい笑み。あれは、私だけが知っている「特別」なはずだったのに。


「……ねえ、ナツメちゃん。ちょっといい?」


 休憩中、アイナがにやにやしながら近寄ってきた。ナツメは慌てて表情を取り繕う。


「あ、アイナさん。お疲れ様です」

「お疲れ様。……で、どうなのよ。あの『鉄の壁』さんとは」


 アイナが視線でグレンを指す。ナツメは心臓が口から飛び出しそうになった。


「ど、どうって……別に、普通です。昨日も言った通り、私たちは切磋琢磨する仲で……」

「隠しても無駄よ」


 アイナは肩をすくめた。


「あんたたち、昨日より明らかに空気が『おかしい』もの」

「えっ……?」

「なんて言うか……お互いに意識しすぎて、逆に距離が開いてるっていうか。さっきのペア・ストレッチ、見てるこっちが酸欠になりそうだったわよ」


 ナツメは黙り込んだ。やはり、周囲から見ても異様な距離感だったのだ。


「恋人になったばかりの頃って、普通はもっと……こう、ふわふわしてるもんだけど」


 アイナはグレンの背中を眺めながら、溜息をついた。


「あの教官様は、どうやら『恋人』という定義を、自分の筋肉と同じくらいストイックに捉えすぎてるみたいね。ナツメちゃん、あんたがしっかりリードしないと、あの人、一生『教官』のままで終わるわよ?」

「私が……リード……」


 それは、ナツメにとって、最高重量のスクワットよりも困難なミッションに思えた。




 夕刻。すべてのセッションが終了し、ホールの灯りが半分落とされる。器具の片付けをするナツメの足取りは、いつになく重かった。


(……名前、呼びたかったな、「グレン」と)


 昨日の夜は、あんなに自然に呼べたのに。今は、「グレン先輩」という呼び方さえ、よそよそしく聞こえてしまう。ガチャン、と重りをラックに戻す音がした。振り返ると、グレンが最後の器具点検を行っていた。


「……ナツメ」


 不意に名前を呼ばれ、ナツメの肩が跳ねる。


「は、はい」

「今日の指導、見ていた。……会員への声掛け、タイミング、共に向上している。その調子で続けろ」

「……ありがとうございます」


 グレンは頷き、そのまま出口へと歩き出そうとした。その背中があまりに真っ直ぐで、遠くて。ナツメは、思わず声を上げていた。


「グレン……先輩!」


 グレンが足を止める。ゆっくりと振り返る彼の表情は、相変わらず冷静だった。


「……何だ」

「あの……。今日、一度も目が合わなかった気がします」


 沈黙が流れる。


 ホールの隅で、時計の針が刻む音だけがやけに大きく聞こえた。グレンは一瞬、視線を彷徨わせた。それは、彼が動揺した時に見せる、ほんのわずかな「癖」だ。


「……業務中だ。私情を挟むのは、お前の成長を妨げることになると判断した」

「でも!」


 ナツメは一歩、踏み出した。


「私、筋肉じゃないんです。……昨日、恋人になるって決めたのは、私という『人間』と、グレン先輩という『人間』ですよね?」


 グレンの眉が、ピクリと動いた。


「……ああ。その通りだ」

「だったら……仕事中以外は、ちゃんと私のことを見てほしいです。……『教官』としてじゃなくて」


 ナツメの声が、少しだけ震えた。前世で、画面越しに彼を眺めていた頃には、こんなわがままを言える日が来るなんて想像もしなかった。けれど、今は違う。彼の手の温もりを知ってしまったからこそ、その「不在」が、どんなトレーニングよりも身体を蝕んでいく。

 グレンは、長く、深い溜息をついた。そして、ゆっくりとナツメに近づいてくる。


 一歩、また一歩。


 彼の巨大な体躯が迫るたび、ナツメの心臓の鼓動は激しさを増し、腹圧が自然に高まっていく。グレンはナツメの目の前で立ち止まると、その大きな手を、彼女の頭の上に置いた。


「……すまない」


 低く、掠れた声。


「私の方が、臆病になっていたようだ」

「え……?」

「お前を恋人として意識した瞬間、……どう接すればいいのか分からなくなった。強く触れれば壊してしまいそうで、かといって見つめれば、仕事など手につかなくなる。……だから、あえて壁を作った」


 グレンの指が、ナツメの髪に優しく触れる。


「教官失格だな。……お前を不安にさせた」

「……グレン、さん」

「……グレン、でいい。約束しただろう」


 グレンの瞳に、ようやく「熱」が宿った。それは、昨夜見たのと同じ、不器用で、けれど一途な、一人の男の視線だった。




「……今さらだけど。名前を呼ぶの、すごく緊張します」


 ナツメが小声で告白すると、グレンは少しだけ口角を上げた。


「私もだ。……ナツメ、という響きが、これほどまでに私の自制心を乱すとは思わなかった」

「乱れて、いたんですか?」

「ああ。……今日、お前のストレッチを補助した時。……筋肉の動きではなく、お前の肌の柔らかさばかりが気になって、実は冷や汗をかいていた」


 驚きの告白に、ナツメは思わず笑ってしまった。あの鉄面皮のグレン教官が、実は内心でそんなパニックを起こしていたなんて。


「……お互い様、ですね」


 二人の間に漂っていた、氷のような沈黙が溶けていく。ナツメは自分から手を伸ばし、グレンのシャツの袖をぎゅっと掴んだ。


「明日からは、少しずつでいいから。……仕事の合間に、一度だけでいいから、笑いかけてください」

「……善処しよう」


 グレンはそう言うと、周囲に誰もいないことを確認してから、ナツメをそっと引き寄せた。抱きしめられた胸板は、やはり鋼のように硬い。けれど、その奥から伝わってくる鼓動は、驚くほど速く、力強い。


「……名前を呼ぶのは、また今度、二人きりの時に練習だ」

「はい、教官……じゃなくて、グレン先輩」

「……合格だ」


 二人の距離は、昨日よりもほんの少しだけ、近づいた。筋肉が日々のトレーニングで少しずつ、着実に育っていくように。「恋人」という不慣れな関係もまた、痛みと回復を繰り返しながら、強く、美しく形作られていく。ナツメは、彼の胸に顔を埋めながら、思った。


(この人と一緒なら、どんな筋肉痛だって耐えられる)


 ヴァルキュリア・トレーニングアカデミーの長い一日は、こうして、少しだけ甘い余韻を残して更けていった。二人の前には、まだ「恋人編」の長いロードマップが広がっている。けれど、今日の一歩は、何物にも代えがたい「基礎」になるはずだ。

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