24.家族という答え
朝の空気は、前日までの重苦しさが嘘のように、どこまでも澄み渡っていた。明佳が目を覚ました瞬間、脳内の最後のピースが音もなく噛み合った。
───戻った。
欠けていた記憶が、激流のように一つの大きな河へとつながっていく。胸に手を当てて、深く呼吸をする。そこにはかつての閉塞感はなく、異世界で培ったしなやかな「軸」が、確かに自分の肉体を支えている感覚があった。
キッチンからは、朝食を準備する音が聞こえる。まな板を叩くリズム、味噌汁から立ち上る湯気。その背中を見つめると、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。
不器用で、口下手で、けれど確かに自分を想ってくれていた、かつての颯斗。自分を否定する刃に変わってしまった彼を、どこかで許せずにいたけれど、今の明佳には彼を直視する強さが備わっていた。
「……颯斗」
名を呼ぶと、彼は肩を揺らして振り返った。
「……明佳? おはよう。あ、今、すぐできるから」
戸惑いと、拒絶されることへの怯えが混じった、弱々しい声。明佳は無言でテーブルに歩み寄り、スマートフォンを置いた。開かれていたのは、一枚の古い写真。結婚する前、照れくさそうに笑う若き日の颯斗だ。
「……覚えてる? これ」
颯斗は息を呑み、画面を凝視した。
「……それ、……昔の俺か」
「ええ。優しかった頃の、あなた」
明佳は穏やかに微笑み、画面をスワイプした。そこに現れたのは、異世界のトレーナー、シルヴァン・アルスター。黄金の瞳と、すべてを包み込むような静謐な佇まい。
「『インナーマッスルに届け!』で私を救ってくれたのは……私の記憶の中にいた、理想のあなただったの」
颯斗は言葉を失った。画面の中の聖者のような男と、自分を見比べる。
「……この人が、俺……? 俺が、お前を助けたってことなのか?」
「無意識にね。あなたが私を否定するようになった後も、私は心のどこかで、この優しさを信じていたかったんだと思う」
颯斗は拳を握りしめ、やがてゆっくりと崩れるように椅子に座り込んだ。
「……俺は……いつから、あんな風にお前を……。ごめん……本当に、ごめん」
涙がテーブルに滴り落ちる。それは、数年分の慢心と傲慢を洗い流すような、本当の意味での謝罪だった。
「過去を責めたいわけじゃない。ただ、気づいてほしかったの。あなたは元々、こんなに素敵な人だったんだって」
そのとき、寝室から「まま……」と小さな声が聞こえた。明佳は颯眞を抱き上げ、その温かさに瞳を潤ませる。
「ただいま」
その言葉は、異世界への別れであり、現実を生き抜くための新しい誓いだった。
夜、アプリの中のシルヴァンは、満足げに微笑んでいた。
『おめでとう、明佳。あなたはもう、自分の足で立っています』
「……ありがとう、シルヴァン」
光が消え、アプリは静かに待機画面へ戻った。リビングでは、不器用ながらも颯眞を寝かしつける颯斗の姿がある。過去に戻るのではない。今の自分で、新しい未来を選び直す。明佳は、その光景を愛おしく見つめながら、静かに微笑んだ。




