23.戻る記憶と選ぶ未来
冬の朝の光は、鋭利でありながらどこか優しく、カーテンの隙間から滑り込んで明佳の瞼を撫でた。彼女が目を覚ましたとき、胸の奥には、陽だまりのような奇妙な温かさが残っていた。
(……夢を、見ていた気がする)
だが、その詳細は、握りしめようとした瞬間に指の間から零れ落ちる砂のように、輪郭を失っていく。ただ一つ、穏やかに微笑む黄金色の瞳の残像だけが、網膜の裏側に焼き付いていた。起き上がろうとして、不意に視界が歪んだ。
「……っ」
こめかみを指で押さえる。頭の奥で、鋭い火花が散ったような痛みが走った。それと同時に、白昼夢のような断片的なイメージが、暴力的なまでの色彩を持って脳内に流れ込んでくる。
一面の鏡の前で、自分の骨格を一本の柱のように整える自分。「無理はしなくていい。呼吸を止めることが、最大の過ちです」という、低く、慈愛に満ちた声。汗を流しながら、異世界の冷涼な空気の中で自分の心臓の音を聴く、静謐な時間。
(……トレーニング? 私は……どこで、誰に……)
喉元まで出かかった名前。けれど、それは現実世界の「榛葉明佳」という記号には結びつかない。彼女は大きく息を吸い込んだ。シルヴァンから教わった、肺の底まで酸素を届ける「正しい呼吸」。その動作一つで、乱れていた鼓動が静まり、霧が晴れるように意識が研ぎ澄まされていく。
「……落ち着いて。私は今、ここにいる」
自分自身への確かな囁き。それはかつての彼女には持ち得なかった、絶対的な「自己への信頼」だった。
リビングからは、朝食の匂いと共に、快活な笑い声が聞こえてきた。扉を少し開けると、そこには颯斗がいた。彼は、不器用に颯眞を高い高いと持ち上げている。
「ほら、高い高い! 颯眞、いい眺めか?」
颯眞の、鈴を転がすような笑い声。その光景を見た瞬間、明佳の胸が、万力で締め付けられるような激しい痛みに襲われた。
(……大事。この景色を、私は守りたかった。守るために、一度死んだんだ……)
論理的な記憶ではない。細胞が覚えている「喪失」と「奪還」の感覚。
「……おはよう」
声をかけると、颯斗がびくりと肩を震わせて振り返った。
「あ……おはよう。……今、ちょうど離乳食の準備が終わったところだ」
彼の顔には、まだ隠しきれないぎこちなさが張り付いている。けれど、かつてのように「どうだ、俺は頑張っているだろう」という傲慢な期待はない。ただ、明佳の反応を恐れながらも、正面から目を逸らさないという、彼なりの決死の誠実さがそこにあった。
三人で囲む食卓。会話は驚くほど少ない。以前の明佳なら、この沈黙を「自分のせいだ」と責め、無理に話題を作ろうとしていただろう。だが今の彼女は、沈黙そのものを一つの音楽として受け入れていた。
箸を動かす音、颯眞がスプーンを噛む音。それらすべてが、歪んだ家族の形を矯正していくための、必要な「静止」の時間であるように感じられた。
食後の片付けを終え、明佳は吸い寄せられるようにスマートフォンを手に取った。指が迷いなく、あのアイコンをタップする。
【インナーマッスルに届け! 】
画面が起動し、いつものようにシルヴァン・アルスターが現れる。だが、今日の彼は、いつも以上にその存在が透き通って見えた。
「……今日は、身体が少し重そうですね、明佳」
その第一声で、明佳の心臓が跳ねた。
「……どうして、分かるんですか。……私は今、呼吸も姿勢も、あなたの教え通りに整えているはずなのに」
『姿勢と、呼吸の微かな『迷い』です』
シルヴァンは、画面越しに彼女を優しく射抜く。
『記憶よりも、身体は正直ですよ。あなたは今、過去と未来の狭間に立っている』
その瞬間。明佳の頭の奥で、カチリ、と硬質な音が響いた。重厚な図書館の扉が開かれたかのように、一枚の「記憶」が鮮明に剥がれ落ち、意識の表層に浮上する。
育児の孤独の中で、ボロボロになり、鏡を見るたびに涙を流していた夜。「あなたは、もう自分を責める必要はありません」と、冷え切った彼女の手を包み込むような温かな声。そして……あの、異世界のジムでの日々。
「……っ……ああ……!」
涙が、制御できずに溢れ出した。頬を伝う熱さが、今の自分が生きている証拠のように感じられた。それは、悲しみの涙ではない。自分を否定し続け、誰もいない奈落に落ちかけていた自分を、この「声」が、この「トレーニング」が、地獄の底から引き上げてくれたのだという、強烈な感謝と再確認の涙だった。
「……思い出しました。私……あなたに、救われたんだ」
シルヴァンは、画面の中で、慈愛に満ちた聖者のように微笑んだ。
『思い出す必要はありません、明佳。記憶は、時に人を縛る鎖になります。大事なのは、その身体に刻まれた『強さ』だけです。あなたが選ぶ未来は、過去の記憶が決めるのではない。今、ここに立っている、強く美しいあなたが決めるのです』
「私が、決める……」
『ええ。過去を許すのも、決別するのも、すべてはあなたの自由だ。あなたはもう、誰の所有物でもないのだから』
その言葉が、明佳の魂の最も深い場所に、重石のようにどっしりと沈んだ。彼女は、もう迷わなかった。
夜。颯眞を寝かしつけ、明佳がリビングに戻ると、そこには意外な光景があった。颯斗が、山積みになった洗濯物を、一枚一枚、丁寧に畳んでいたのだ。
几帳面とは程遠い、不器用な手つき。角と角が合わず、何度もやり直している。けれど、その背中からは「逃げ出したい」という卑怯な気配は消えていた。
「……」
自然と、言葉が零れた。
「……最近、ありがとうございます」
颯斗の手が、ぴたりと止まった。彼はゆっくりと、自分自身の罪と向き合うような重い動作で、明佳の方を向いた。
「……いや。……俺が、やるべきことだ。……今まで、お前にばかり押し付けていた分の、ほんの一部に過ぎない」
返ってきたのは、短い言葉。それでも、彼の声はわずかに震えていた。かつての威圧的な響きは消え、そこには一人の未熟な男としての、剥き出しの心が宿っていた。
「……まだ、分からないことは多いです。あなたのことを、本当に許せる日が来るのか、私にも分かりません」
明佳は、一歩も引かずに、今の真実を告げた。
「……でも。あなたが今、ちゃんとこの家の現実と向き合ってくれているのは、分かります。……それは、嘘ではないことも」
颯斗は、何も言わなかった。ただ、深く、深く頷いた。その沈黙は、かつての拒絶ではなく、彼女の言葉を全身で受け止めるための「器」のような静寂だった。
その夜。明佳は、再び夢を見た。今度は、霧の向こう側ではない。はっきりと、黄金の光に満ちた異世界の風景。
『あなたは、もう大丈夫です』
シルヴァンが、彼女の肩にそっと手を置く。その感触は、夢とは思えないほど温かく、そして確かだった。
『自らの軸で立ち、自らの声で語り始めた。……それが、リハビリテーションの真の完成です』
目が覚めたとき、窓の外では、新しい一日の始まりを告げる朝日が、地平線を白く染めていた。明佳は、鏡の前に立った。そこには、出産でボロボロになった以前の自分でもなく、ただ記憶を失って怯えていた病人でもない。異世界での過酷な修行を、そして自分を愛するという決意を血肉とした、一人の誇り高い女性の姿があった。
(……全部は思い出せなくても、いい)
大切なものは、すべてこの身体の中に、呼吸の中に、そして目の前の守るべき命の中に、確かにある。彼女は、力強く自分自身の中心を整え、リビングの扉を開けた。
「おはよう、颯斗さん」
初めて、彼を名前で呼んだ。それは、支配と依存の関係を終わらせ、一人の人間同士としての「新しい物語」を始めるための、宣戦布告であり、祝福でもあった。




