08.筋肉は嘘をつかない、心もまた
その日の朝、トレーニングホールを包む空気は、いつも以上に研ぎ澄まされていた。
ナツメは、鏡の前で最後の一呼吸を整える。踵から頭頂までを通る一本の軸。それは、かつて画面越しのグレンから教わった「正しい姿勢」であり、今、この世界で彼女が手に入れた「生きる姿勢」でもあった。
「……早いな、ナツメ」
背後から響く低い声。グレンだ。いつも通りの距離、いつも通りの朝。けれど、ナツメは今日、その「いつも」の境界線を越える決意をしていた。
「グレン先輩。……お話があります」
ナツメが振り返ると、グレンの動きが止まった。
「あなたが寂しがっていた、あの会員のことです」
グレンの瞳に、鋭い動揺が走る。
「食事やトレーニングのデータが、ある夜を境に止まった理由。……彼女は、事故に遭ったんです。あなたを裏切ったわけでも、飽きたわけでもない。……命を落とすその瞬間まで、彼女はあなたの言葉を、その声を、唯一の支えにしていました」
「……なぜ、お前がそれを」
グレンの声が、微かに震える。
「分かります。……私が、その人だから」
ナツメは一歩、グレンの懐へ踏み込んだ。
「見てください。この姿勢も、呼吸も、継続の仕方も。……全部、あなたが作ったものです。形を変えても、名前を変えても、筋肉に刻まれたあなたの教えは、消えなかった」
沈黙が、ホールを支配した。グレンは立ち尽くし、目の前の「新人」を食い入るように見つめた。その瞳の奥で、かつての夏夢の影と、目の前のナツメが、静かに、けれど完璧に一つに重なっていく。
「……ナツメ」
絞り出すような声。グレンはゆっくりと手を伸ばし、ナツメの肩に触れた。
「そうか……。生きて……いや、ここに、いたのだな」
「はい。……遅くなって、ごめんなさい」
ナツメの瞳から、一筋の涙がこぼれる。
「……謝るな。私が、情けなかっただけだ。毎日データの向こう側にお前を感じていながら、目の前で汗を流すお前の正体に、確信を持てずにいた。……お前の努力を、この熱を、誰よりも信じていたはずなのに」
グレンはそう言うと、震える手でナツメの頬を包み込んだ。その掌は、画面越しには想像もできなかったほど、熱く、そして慈しみに満ちていた。
「グレン先輩」
ナツメは、彼の掌に自分の手を重ねた。
「あなたは、どちらの私を見ていますか? 会えなくなった過去の会員ですか? それとも……」
グレンは、迷わなかった。彼はナツメを強く引き寄せ、その逞しくも柔らかな身体を胸に抱きしめた。鋼のような大胸筋の鼓動が、ナツメの心臓と共鳴する。
「……過去の影を追っていたのは事実だ。だが、お前が誰であろうと関係なくなるほど、私はすでに『ナツメ』という一人の人間に魅了されていた」
グレンは耳元で、誓うように囁いた。
「懸命に、私に追いつこうと足掻くお前の姿。誰よりも美しく筋肉を躍動させる、今の、生身のお前を愛している」
ナツメは、彼の背中に腕を回した。広背筋の力強い盛り上がり。触れ合うことでしか得られない、圧倒的な生の充足感。
「……嬉しい。……私も、ずっと好きでした。画面の向こうにいた時から、ずっと」
「……よし、休憩は終わりだ」
不意にグレンが身体を離し、いつもの「教官」の顔に戻った。けれど、その瞳には隠しきれない甘い光が宿っている。
「えっ、もうですか?」
「これからは、私の目の届く範囲で、一秒たりともお前の変化を見逃さない。……当然、食事も、生活のすべてだ」
「それ……公私混同じゃないですか?」
ナツメが茶化すように笑うと、グレンは彼女の額に、吸い付くような短いキスを落とした。
「指導者としての責任、そして……愛する男としての、独占欲だ」
ナツメの顔が真っ赤に染まる。
「……はい、教官。……いえ、グレン先輩」
ホールの窓から、眩い朝の光が差し込む。かつては「データ」でしか繋がれなかった二人の物語は、今、同じ空気を吸い、同じ汗を流す「現実」へと昇華した。
恋人として。そして、共に筋肉の頂を目指すパートナーとして。二人のトレーニング――恋という名の過酷で甘いルーチンは、まだ始まったばかりだ。
「さあ、ナツメ。次のセットだ」
「……はい、先輩!」
二人の笑い声が、筋肉の聖域に響き渡った。




