22.寄り添うという選択
朝の空気は、冬の気配を含んで凛と冷えていた。その冷たさが、今の颯斗には心地よかった。昨夜までの自己嫌悪で火照った頭を、現実の温度が冷ましてくれる。彼は、人生で初めて「家族が起きる前」に自発的に目を覚ました。
静まり返ったリビング。以前なら「まだ寝ていられる」という特権を享受していた時間だが、今の彼は、迷わず台所へと向かった。
冷蔵庫の扉を開ける。整然と並ぶ食材、小分けにされた作り置きのタッパー、賞味期限ごとに整理された卵。その光景を眺めて、彼は立ち尽くした。
(……俺は、これを作るために、どれだけの思考が必要なのかさえ知らなかった)
献立を考える。栄養を考える。颯眞が食べられるもの、明佳の体力を支えるもの。「用意されている」ことが自然法則のように当たり前だと思っていた食事の裏側に、これほど膨大な「選択」と「労働」が隠されていたこと。
レシピサイトを必死に検索し、不器用な手つきでフライパンを握る。コンロに火をつけ、油を引く。卵を割れば、不格好に殻が混じり、指を汚しながらそれを取り除く。そんな、子供でもできるような瑣末なことの一つひとつが、今の彼には高く険しい壁のように感じられた。
「……よし」
三十分以上かけて作り上げたのは、少し焦げたトーストと、形が崩れた目玉焼き、そしてカットしただけのフルーツ。
プロフェッショナルだった明佳の朝食に比べれば、あまりに無様で、貧相な出来栄えだった。それでも、彼はそれを丁寧にテーブルに並べ、背筋を伸ばして彼女を待った。
パタパタという、柔らかな足音。颯眞を抱き、いつものように凛とした姿勢で現れた明佳は、台所に立つ颯斗と、テーブルの上の惨状を見て、一瞬だけ足を止めた。その瞳に宿ったのは、驚きか、あるいは困惑か。
「……あ、その。朝飯、作ってみたんだ。不格好だけど……」
颯斗の声は、自分でも情けないほどに上ずっていた。明佳は数秒の間、無言で彼を見つめていたが、やがて静かに椅子に腰を下ろした。
「……いただきます」
彼女が、焦げた目玉焼きを一口、口に運ぶ。颯斗は生きた心地がしなかった。味付けは薄すぎないか、焼きすぎてゴムのようになっていないか。かつての自分なら「なんだこれ、焦げてるじゃん」と笑い飛ばしていただろう一皿。その鏡写しの恐怖に身構える彼に、明佳は淡々と言った。
「……頑張りましたね」
突き放すような冷たさではない。かといって、過剰に持ち上げる優しさでもない。ただ、そこにある「労働」の事実を、事実として受け止める声。その一言だけで、颯斗の胸の奥に溜まっていた澱のような緊張が、ふっとほどけていった。
「……今まで、全部、任せきりだったんだな。……ごめん、なんて言葉じゃ足りないくらいだ」
「……言葉より、続けることです」
明佳は、颯眞に離乳食を与えながら、一度も颯斗と視線を合わせずに答えた。
「今日だけ頑張って、明日には忘れる。そんな謝罪は、私にはもう必要ありません。……生活は、死ぬまで続くものだから」
その言葉は、どんな罵倒よりも重かった。颯斗は、深く頷くしかなかった。
「分かった。……続けるよ」
その日から、榛葉家の空気は少しずつ、しかし劇的に変わり始めた。颯斗は、仕事が終わると真っ直ぐに帰宅するようになった。かつては「付き合い」や「息抜き」として逃げ込んでいた居酒屋の灯りは、もう彼を惹きつけなかった。帰宅後、まずはネクタイを外し、腕を捲る。
「……颯眞をお風呂に入れます」
「お願いします」
泣き叫ぶ颯眞を前に右往左往し、浴室で自分までびしょ濡れになりながらも、彼は決して明佳に助けを求めなかった。彼女が異世界で培った「軸」を維持するために必要な、貴重な一人の時間を守りたかったからだ。洗濯物を畳み、ゴミの分別を覚え、排水溝の汚れを落とす。
「……これは、どこの棚に入れればいい?」
「……そこです。左の奥に」
会話は、必要最低限。甘い言葉も、思い出話もない。けれど、そこには確かな「二人分の生活の音」が響き始めていた。颯斗は、自分が主役として振る舞うことをやめ、明佳という一人の人間が、心地よく呼吸できるための「環境」の一部になろうと努めた。
夜、明佳がいつものようにアプリを起動し、シルヴァンと向き合う時間。颯斗は、隣の部屋でそれを聞きながら、自分自身の「トレーニング」として家計簿や翌日の準備をこなす。
「……シルヴァンさん。夫が、変わりました。……いえ、変わろうと、もがいています」
画面の中のシルヴァンは、月光のような静かな微笑みを湛えていた。
『それは、彼がようやく自分の足で『現実』という地面に立ったということです。……ですが、明佳。彼が変わったからといって、あなたが彼を許す義務はありません』
「……信じて、いいのでしょうか」
『信じるのではありません。あなたが、自分を裏切らない選択をするだけです。彼を隣に置くことが、あなたの『美しさ』や『健康』を損なわないのであれば、その選択を尊重しなさい。……あなたは、誰の所有物でもないのだから』
明佳は、深く息を吐き、目を閉じた。妻として。母として。その役割の檻から出た今、彼女に見えているのは、自分という一人の女性の、真っ新な未来だった。
翌日の帰り道。颯斗は、駅前の花屋の前で足を止めた。かつての自分なら「何の日でもないのに」と鼻で笑っただろう行為。けれど、今の彼は、名前も知らない淡いピンク色のガーベラを一本、手に取っていた。
「……これ」
帰宅し、差し出すと、明佳は一瞬、心底驚いたような顔をした。記憶を失って以来、初めて見せる、感情の剥き出しの揺らぎ。彼女は戸惑いながらも、その花を丁寧に受け取った。
「……ありがとうございます。……何のお祝いですか?」
「いや、お祝いじゃない。……ただ、そこに咲いていたのが、綺麗だったから。……それだけだ」
笑顔は、まだ返ってこない。けれど、明佳はその花を、一番日当たりの良い窓辺の瓶に挿した。それだけで十分だった。深夜、颯眞を寝かしつけた後。リビングに一人座る明佳が、ぽつりと漏らした。
「……疲れました」
その、無防備な呟き。颯斗は一歩、彼女に近づいた。触れることはしない。ただ、彼女の視界に入る場所で、力強く言った。
「……明日の朝まで、俺が颯眞を見る。……お前は、耳栓をして、朝まで一回も起きなくていい。……俺に、任せてくれ」
「……そうですか。……では、お願いします」
明佳は、迷うことなく立ち上がり、寝室へと向かった。それは、彼を「信用」したというよりは、自分の限界を認め、彼を「利用」するという、一人の自立した人間の合理的で正しい判断だった。
一人残されたリビングで、颯斗は深く、肺の底まで冷たい空気を吸い込んだ。寄り添うということは、甘い言葉を囁くことではない。相手の背負っている荷物の半分を、黙って自分の肩に載せ替えること。そして、相手が一人で歩むための「道」を、掃除し続けることなのだと。
(……逃げない。……今度こそ)
颯眞の小さな寝息を守りながら、颯斗は暗闇の中で誓った。彼らの物語は、ハッピーエンドという名の「完成」ではなく、地道な「継続」という名の新しい章へと、確かに歩みを進めていた。




