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インナーマッスルに届け!───鍛えたのは、身体と恋と生き直す勇気だった───  作者: 宮野夏樹
第11章 もう一度、家族を選ぶという鍛錬【再選択編】

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21.過去を直視する


 その夜、颯斗はリビングのソファに深く沈み込み、眠れぬ夜を過ごしていた。隣の寝室からは、微かな衣擦れの音と、母子の規則正しい寝息が聞こえてくる。病院から戻り、自分という存在を忘却した明佳。


 けれど、今の彼女が放つ静かな覇気は、記憶があった頃のどの瞬間よりも雄弁に、颯斗の至らなさを弾劾していた。


(……俺は、何をしていたんだ)


 暗闇の中で、天井の一点を見つめる。これまで「当たり前」だと思っていた光景が、実は彼女の血の滲むような忍耐と、絶望的な沈黙の上に築かれた砂の城であったことを、今の彼は嫌というほど理解していた。


 仕事が忙しい。責任ある立場だ。家族のために稼いでいる。自分を守るための盾は、いくらでもあった。それらを並べ立てることで、家の中での自分の不作為を正当化してきた。


 深夜、疲れて帰宅した時に、暗い部屋で一人颯眞をあやす明佳の背中を見ても、「お疲れ様」の一言で済ませていた。それが彼女の「役割」だと、無意識のうちに決めつけていたからだ。


(……手伝っている、なんて……)


 かつて自分が口にしたその言葉が、今さらになって恥辱となって喉を焼く。育児も家事も、共同経営者として担うべき「当事者」の仕事であるはずなのに、自分はまるでボランティアに参加する部外者のような顔をしていたのだ。


「そんな怪しいアプリ使ったって、痩せるわけないだろ。無駄な努力だよ」


 昨日放った、あの軽口。それは、明佳が自分以外の何かに救いを求め、自分自身の足で立とうとすることへの、無意識の恐怖が生んだ「牽制」だった。けれど、返ってきた言葉は、予測もしなかった鋭さで己の胸を抉った。


『そのだらしないお腹、何とかしたらどうですか?』


 言われて、初めて分かった。一瞬で頭に血が上り、その後に襲ってきた、足元が崩れるような惨めさ。言葉は、確かに刃になる。自分はこれまで、この刃を、何の防具も持たない彼女に向けて毎日、冗談という名の毒を塗り込みながら振り回していたのだ。


(……ああ、これは……痛いな。本当に……)


 颯斗は、自分の腹部をさすった。彼女の言う通りだ。節制もせず、自分を律することもなく、ただ彼女の献身に胡坐をかいていただけの男。


 思い出すのは、妊娠中の明佳の姿だ。つわりで顔色が悪く、お腹が大きくなるにつれて歩き方さえぎこちなくなっていった彼女。それでも、彼女は「お母さん」になろうと必死だった。そんな彼女に、自分は何と言ったか。


 ───「うわ、本当に太ったな」

 ───「どすこいって感じ」


 彼女は、力なく笑っていた。その笑顔の裏で、どれほどの自尊心が切り刻まれ、どれほどの孤独を飲み込んでいたのか。自分は一度も、聞こうとしなかった。知ろうともしなかった。「笑っているから大丈夫だ」と、都合よく解釈し、彼女の心を殺し続けていたのだ。




 朝。颯眞の泣き声が、寝室から響き渡る。いつもなら、この声は颯斗にとって「明佳が起きるのを待つ合図」だった。眠い目を擦りながら、彼女が颯眞を抱き上げる気配を感じて、再び深い眠りに落ちる。それが彼のルーティンだった。けれど───。今日は、身体が先に動いた。


「……よし、今行くぞ」


 ソファから飛び起き、寝室へ向かう。そこには、ちょうど体を起こしたばかりの明佳がいた。彼女は驚いたように目を瞬かせたが、颯斗を止めることはしなかった。


「……俺がやる。……あ、いや、やらせてくれ」


 颯斗は、泣きじゃくる颯眞をぎこちなく抱き上げた。小さな、震える身体。驚くほど温かく、そして重い。異世界でトレーニングを積んだ明佳のような洗練された抱き方ではない。けれど、落とさないように、壊さないようにと神経を研ぎ澄ませる。


(……守るって、こういうことか……。ただ側にいるだけじゃなくて、この重みを、責任を、自分の腕で引き受けることなんだ……)


 ミルクを作り、温度を確かめる。オムツを替えようとして、手順を間違え、颯眞にさらに泣かれる。冷汗をかきながら、必死に向き合う。やがて、ミルクを飲み干した颯眞が、ふうっと満足げな息を吐いて、颯斗の腕の中で静かになった。


 その様子を、少し離れたドアの影から明佳が見ていた。

 以前の彼女なら「代わるよ」と手を差し出しただろう。けれど今の彼女は、ただ静かに、評価も賞賛も、そして非難も口にせず、観察するように見守っていた。颯斗は、その視線に気づき、不器用に笑った。


「……全然、慣れてなくて。……お前、毎日これを一人でやってたんだな」

「……そうですね」


 淡々とした返事。それは「当然のことを言わないでください」という冷ややかさを含んでいたが、颯斗にとっては、何よりも重い「事実の宣告」だった。


「……明佳」


 颯斗は、颯眞を抱いたまま、勇気を振り絞って彼女の瞳を見た。


「……俺、バカだった。本当に……やり直せると思ってたんだ。謝って、優しくすれば、また前みたいに笑い合えるって」


 明佳は、颯眞をあやそうと伸ばしかけた手を止め、静かに言った。


「前に戻ることは、出来ません」


 その断言に、颯斗の胸が締め付けられる。


「……私の記憶は戻りませんし、戻したいとも思いません。……あの頃の、息を止めて、あなたの顔色を伺って、自分を殺していた私には、もう二度と会いたくないんです」

「……それは……」

「でも」


 一拍置いて、明佳は微かに、けれど凛とした微笑みを浮かべた。


「これからを、どう生きるかを選ぶことは出来ます。……あなたが『家族』として、誠実に私と向き合うつもりがあるなら、私はそれを拒絶はしません」


 救いなのか。あるいは、最期の宣告なのか。颯斗にはまだ、その真意を測りかねていた。けれど、彼女が「以前の、俺に依存していた明佳」ではなく、「自分の足で立つ、新しい一人の女性」として自分を見ていることは、痛いほど伝わってきた。




 夜。明佳は、再びスマートフォンの画面を開き、シルヴァンと向き合っていた。


「……夫が、少しずつですが……変わろうとしているようです。私の機嫌を取るためではなく、自分の非を認めようとしているように見えます」

『それは、彼にとっての【トレーニング】が始まったということですね』


 シルヴァンは、静かな、けれど深い洞察を含んだ眼差しで頷いた。


『ですが、明佳。彼を許すかどうか、彼を信じるかどうか。それを決めるのは、あなた自身の魂です。……あなたは、もう二度と、誰かの期待に応えるために我慢する必要はありません』

「……はい」


 明佳は、小さく、けれど確かな力強さで頷いた。


「私は、私を一番大切にします。……その上で、あの子にとって最善の道を選びます」


 画面の向こうの師は、満足そうに微笑んだ。同じ家。けれど、物理的な壁よりも高い「尊厳」という名の境界線。


 颯斗は別室で、自分が積み上げた罪の重さを直視しながら、長い夜を過ごしていた。彼女に追いつくことは、もうできないかもしれない。けれど、せめて彼女と同じ速度で、自分の人生という地面を踏みしめて歩ける男になりたい。


 その夜、明佳の呼吸は、異世界の森と同じくらい、深く、澄み渡っていた。

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