20.返された言葉の意味
次の日の夜、榛葉家の食卓は、かつて経験したことのない静寂に包まれていた。それは、怒号が飛び交うような険悪な空気ではない。むしろ、透明で、あまりにも静謐な「絶対的な断絶」の音だった。
カチッ、カチッ。
箸が食器に触れる音。「あむ、あむ」という、颯眞のまだ幼い小さな咀嚼音。それらだけが、メトロノームのように淡々と、規則正しく流れていく。明佳は、普段通りの穏やかな表情で、颯眞の口元をガーゼで拭った。
「……おいしい? ちゃんとモグモグしてね」
にこりと、彼女が微笑む。その笑顔は、初夏の木漏れ日のように優しく、見る者の心を癒す輝きを放っている。けれど───。その光が、自分のところまでは一筋も届いていないことを、向かいに座る颯斗は嫌というほど理解していた。
彼女の愛は、今、颯眞と「自分自身」という二つの天体にのみ注がれている。かつてその愛を当然のように独占し、浪費し、踏みにじってきた男に分け与える光は、もう一滴も残っていないのだ。
(……俺には……もう……)
喉の奥が、熱い砂を飲んだようにひりつく。目の前にいるのに、まるで鏡越しに他人を見ているような距離感。耐えきれず、颯斗は絞り出すように口を開いた。
「……昨日は……」
言葉が、喉に引っかかって出てこない。謝罪の仕方も、対等な話し方も、彼はこの数年間で忘れてしまっていた。
「……言い過ぎた。その、冗談が過ぎたよ。悪かった」
明佳は、手を止めない。颯眞の離乳食を丁寧に掬い取りながら、表情一つ変えずに答えた。
「……そうですね」
肯定も、否定もない。それは、相手の言葉に価値を置いていないということの、何よりの証明だった。「ごめん」と言えば「いいよ」と返ってくる。そんな甘い相互理解のフェーズは、とうの昔に終わっているのだ。
「……でもさ、昔は……」
颯斗は、自分の正当性をわずかでも繋ぎ止めようと、過去の記憶に縋り付いた。
「……昔は、こんなことで怒ったりしなかっただろ? 明佳はもっと、なんていうか、大らかっていうか……」
「……違います」
明佳が、静かに、けれど鋼のような強さで言葉を遮った。
彼女は箸を置き、初めて真っ直ぐに颯斗の瞳を捉えた。
「昔から、傷ついていました」
「……え?」
「言わなかっただけです。あなたが満足そうに笑っているのを壊さないように、私が一人で飲み込んで、消化しきれずに心を病ませていただけ。……私が黙っていたから、あなたは私が『大丈夫だ』と思いましたか?」
その問いに、颯斗は言葉を失った。心臓が、早鐘を打つ。
「言っても無駄だと思っていました。話し合おうとしても、『お前の被害妄想だ』『もっと楽に考えろよ』と、さらに言葉で塗り潰されるのが分かっていたから。……昨日の言葉、もう一度お返ししますね」
明佳の視線が、冷静に颯斗を射抜く。
「……私を貶めて、すっきりしましたか?」
昼の光の中で放たれた言葉が、夜の静寂の中で、さらに鋭利な刃となって颯斗の胸に突き刺さる。
「……俺は……冗談のつもりだったんだ。場を和ませるっていうか、昔みたいに……」
「分かっています」
明佳は、深く、そして長い呼吸をした。横隔膜を広げ、心を整えるための「シルヴァンの呼吸」。
「だからこそ、余計に辛かった。あなたが『悪意がない』と思い込んでいるその無邪気さが、どれほど私の尊厳を削り、母親としての自信を奪ってきたか」
「……」
「冗談は、相手が笑って初めて冗談として成立します」
一音一音を刻むように、言葉が積み上げられる。
「……相手が苦しんでいるのに、それを笑えと強要するのは、冗談ではありません。……それは」
一呼吸。
「イジメや、嫌がらせです」
同じ言葉。逃げ場のない断罪。颯斗は、糸の切れた人形のように、その場に深く俯いた。
「……ごめん」
震える声。それは、初めて彼が「自分が加害者である」と認めた瞬間の声だった。明佳は、小さく首を振った。
「……謝らなくていいです。謝罪の言葉が欲しいわけではないんです」
「……じゃあ、どうすれば……」
「気づいてください」
静かな、しかし抗いようのないほど強い声。
「私が、どれだけ一人で耐えていたか。そして、あなたが当然のように踏み躙っていたものが、どれほど守られるべき一人の人間の尊厳だったかということに」
その言葉を最後に、明佳は颯眞を連れて寝室へと消えた。
食卓に残されたのは、冷めきったおかずと、空虚な虚勢を剥ぎ取られた一人の男だけだった。
夜。颯斗は、逃げるようにベランダに出た。凍てつくような冬の夜風に身を晒すと、火照った羞恥心が少しだけ冷めるような気がした。
思い出すのは、過去の自分の傲慢な姿だ。「仕事で疲れてるんだ」と、家族を盾に外で羽を伸ばしていた日々。
育児を「手伝う」と言い、自分が主体であることを拒んだ無責任さ。ボロボロになっていく明佳の変化を、感謝するどころか「女としての怠慢だ」と決めつけ、いじりという名で嘲笑した瞬間。
(……全部、俺だ。彼女を透明にして、押し潰して、記憶を消したいと思うほど追い詰めたのは……)
自分の両手を見る。この手が、彼女の心を殺しかけたのだ。リビングからは、かすかな音が漏れてくる。明佳がスマートフォンを手に、夜のトレーニングを始めたのだ。
『……今日は、少し言葉が重かったですね』
画面の向こうから、シルヴァンの低い声が流れる。
「……はい。でも、言わなければいけないことでした。……苦しいけれど、呼吸は止めていません」
『それでいい。……明佳、あなたは自分を、そして自分の大切な聖域を、正しく守りました。その痛みは、あなたが回復している証拠です』
颯斗は、窓の隙間からその会話を聞いていた。初めて、認めることができた。彼女を救い、立ち上がらせたのは、夫である自分ではない。見知らぬアプリの向こう側にいる、この「否定しない声」だったのだ。かつて自分が放った「軽口という名の刃」が、今、自分自身の心に跳ね返ってきている。
颯斗は夜空を見上げ、震える呼吸を繰り返した。許されることなど願えない。ただ、彼女が二度と息を止めなくていい世界を作るために、自分に何ができるのか。
男は、生まれて初めて「自分の弱さ」という地面に足をついた。
一方、リビングの明佳は、窓に映る自分の姿を見つめていた。そこにはもう、誰の影に隠れることもない、一人の女性が凛として立っていた。




