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インナーマッスルに届け!───鍛えたのは、身体と恋と生き直す勇気だった───  作者: 宮野夏樹
第11章 もう一度、家族を選ぶという鍛錬【再選択編】

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19.軽口という名の刃


 夕食の準備をしていると、背中に刺さるような、それでいてどこか品定めをするような視線を感じた。振り返らなくても、それが誰であるかは明白だった。榛葉颯斗。この家の「主」であったはずの男。


 キッチンに立つ明佳の背筋は、かつてのように卑屈に丸まってはいない。骨盤が正しく立ち、横隔膜がスムーズに上下する深い呼吸。異世界でシルヴァンから授かった「身体の自律」は、彼女の佇まいに、侵しがたい神聖なまでの美しさを与えていた。


 その変化が、颯斗にはどうしようもなく落ち着かないものに映った。自分の知らないところで、自分の制御できない力によって、妻が「完璧」になっていく。その焦燥感が、彼の口を最悪の形で滑らせた。


「……なあ、最近さ」


 ダイニングチェアにふんぞり返り、箸を弄びながら、颯斗が鼻で笑うような声を出す。


「そのアプリ、やたら開いてるよな。依存症かってくらいさ」

「……はい」


 明佳の返事は、短く、そして温度がない。鍋の中の野菜の火通りを確認するその手つきは、精密機械のように正確だった。


「いや、そんな怪しいアプリ使ったところでさ。どうせ───今さら痩せるわけないだろ。出産で一度崩れたら、もう終わりなんだよ、女は。無駄な努力、見てて痛々しいっていうかさ」


 それは、彼にとって「いつもの冗談」だった。こうして彼女の自信を削ぎ、自分の下に留めておくための、無自覚な、けれど計算された「支配」の言葉。だがその瞬間、小気味よく響いていた包丁の音が、ぴたりと止まった。


 明佳は、ゆっくりと、それでいて流れるような動作で振り返った。その視線は、かつてのように床を這うことはない。まっすぐ、射抜くような強さで颯斗の瞳を捉えた。


「……あなたこそ」


 声は、驚くほど落ち着いていた。怒りに震えることも、悲しみに潤むこともない。ただ、冷徹な事実を告げる裁判官のような響き。


「その、だらしなく弛んだお腹と、清潔感のない姿勢。何とかしたらどうですか?  自分の管理もできない人に、他人の身体を評価する資格があるとは思えませんが」

「な……っ!」


 颯斗は、一瞬何を言われたのか理解できず、口を金魚のようにパクつかせた。病院で「覚えていない」と言われた時以上の衝撃。これまでの明佳なら、今の言葉を「ごめんね、頑張るね」と笑って受け流したはずだった。


「それに」


 明佳は、まな板の横に立てかけられたスマートフォンを指し示した。


「このアプリの向こうにいる方は、決して私を否定しません。改善のための道筋を、敬意を持って示してくださる。……あなたとは、正反対ですね」


 静かに、けれどはっきりと。颯斗の頬が、屈辱と困惑で一気に熱くなる。


「何だ、その言い方は……!  冗談だろ、冗談。昔みたいに、ちょっといじっただけだ。それくらい笑って返せよ。余裕がないなあ」

「笑えません」


 被せるように、明佳が言った。


「あなたが今、私にその言葉を返されて、どんな気分になりましたか?  恥ずかしいですか?  腹立たしいですか?  ……今、あなたが感じているその不快感を、私はこの数年間、毎日、毎分、浴びせられ続けてきたんです」


 彼女の歩みが、一歩。颯斗との距離を詰める。


「言って、すっきりしましたか?  私を貶めることで、自分の優位を確認できて、満足ですか?」

「……っ……」

「私は───」


 一拍置いて、明佳は寂しげに目を伏せた。


「今のあなたの言葉を聞いて、ただ悲しくなりました。同じ屋根の下で暮らすパートナーを傷つけることでしか、自分を保てないその精神のあり方が、あまりに貧しくて」

「……」

「笑えない冗談は、いじりではありません。それは単なる、イジメや嫌がらせです。私はもう、それを受け入れる『明佳』ではありません」


 明佳はそれ以上、彼を責めるようなことはしなかった。ただ、包丁を丁寧に置き、鍋の火を止めると、泣き声を上げ始めた颯眞の元へと、静かに、そして優雅に去っていった。キッチンに一人残された颯斗は、握りしめた箸が指に食い込むのを感じながら、ただ立ち尽くしていた。


 こんな風に、完膚なきまでに「論破」されたことはなかった。彼女の放った言葉の一節一節が、今さらになって己の胸を抉る。自分が「コミュニケーション」だと思っていたものが、いかに幼稚で、醜悪な暴力であったか。その鏡を突きつけられ、彼は自らの姿に戦慄していた。




 夜。颯眞を寝かしつけた後、明佳はリビングのソファで、深い溜息と共にスマートフォンを開いた。現実世界での「戦い」は、身体的なトレーニング以上に、魂のエネルギーを磨耗させる。


「……シルヴァンさん。今日は、少しだけ……疲れました」


 画面が点灯し、あの懐かしい、そして絶対的な信頼を置ける師の姿が映し出される。


『そうでしょう。目に見えない言葉という刃は、時に鋼の刃よりも深く肉体を損なわせます。……明佳、よく耐えましたね』


 シルヴァンは、静かに、けれど誇らしげに頷いた。


『今日は、“守る”トレーニングをしましょう。筋力を強化するためではなく、外側からの悪意から、あなたの内なる聖域を守り抜くための姿勢です』

「守る、トレーニング……」

『ええ。言葉に傷つけられた時、身体は防御反応で丸まろうとします。ですが、丸まれば丸まるほど、呼吸は浅くなり、心はさらに閉ざされてしまう。……こういう時こそ、あえて胸を開き、鎖骨を左右に広げ、堂々と酸素を吸い込むのです。姿勢で、心をプロテクトするのです』


 シルヴァンの指示に従い、明佳はソファの上で背筋を伸ばした。肩の力を抜き、顎を引き、頭頂部を天に吊るされるような意識。


『吸って。……あなたは、一人の気高い人間です。………吐いて。……他人の無知な評価は、あなたの価値を、一ミリも損なわせることはできません』


 画面越しの、重厚で温かな声。


『あなたは、間違っていない』


 その一言が、颯斗から受けた心の傷を、急速に癒していく。明佳は、現実の重力に負けそうになっていた自分を、再び「整え」直した。




 その夜、隣の寝室で、颯斗は一睡もできずにいた。暗闇の中で、明佳の毅然とした言葉が、何度も、何度も呪文のように頭の中で反芻される。


『笑えない冗談は、イジメや嫌がらせです』


 これまで、自分がいかに彼女の「自己肯定感」という貯金を、日々少しずつ削り取ってきたか。それを「夫婦の仲の良さ」だと思い込んでいた自分の傲慢さ。彼女が自分を忘れたのは、病気や記憶喪失のせいではない。あんな風に自分を切り捨てるような眼差しを向けられるまで、彼女を追い詰めたのは、他ならぬ自分自身だったのだ。


 ふと、リビングの方から、かすかにスマートフォンの音声が漏れてくるのが聞こえた。


『あなたは、十分に美しい』


 シルヴァンのその声が、壁越しに、颯斗の耳にも届く。


(……俺が、一番言わなきゃいけなかった言葉を……)


 その男の声が、今の明佳を支えている。自分は、彼女にとっての「毒」であり、あのアプリは「薬」なのだ。颯斗は、掛け布団を頭まで被り、声を殺して嗚咽した。失ったものの大きさに、ようやく気づき始めた夜だった。


 一方、リビングで静かに瞑想を終えた明佳は、かつてないほど澄んだ心境で、窓の外の月を見上げていた。


(……シルヴァンさん、私、負けません。この軸で、颯眞と一緒に、新しい私を立ち上げます)

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