18.否定しない声
朝の光は、以前の明佳にとっては「義務の始まり」を告げる冷酷な合図でしかなかった。だが今、寝室に差し込む光は、彼女の肌を優しく撫でる新しい一日の祝福に感じられる。
明佳は、目覚めてすぐに隣で眠る颯眞をそっと抱き上げた。小さな身体を腕の中に収め、目を閉じてゆっくりと深呼吸をする。吸って、吐く。かつては肺の入り口で止まっていた空気。
(……まだ、少し浅いな……)
自分の身体の状態を、感情を挟まずに客観的に把握できる。それはシルヴァンとの修行で得た、何にも代えがたい「自分を制御する力」だった。産後の身体は、現実という名の重力に晒されると、今も無意識のうちに前方へ、守るための姿勢へと引っ張られてしまう。それを放置すれば、またかつての「呪われた身体」に逆戻りしてしまうことを、彼女は本能で理解していた。
「……よし。いきましょう、颯眞」
颯眞をベビーベッドに安全に寝かせると、明佳はリビングの端に慣れた手つきでヨガマットを敷いた。そして、今や彼女の魂のコンパスとなったスマートフォンを立てかける。
【インナーマッスルに届け! 】
アイコンをタップすると、画面の向こう側に、あの超越的な静謐さを纏った白髪の男が現れる。───シルヴァン・アルスター。その姿を見た瞬間、明佳の全身から「戦うための力み」が、砂のようにこぼれ落ちた。
『おはようございます、明佳。呼吸の状態はどうですか?』
「……おはようございます。少しだけ、胸に引っかかりがあります。現実に戻ると、どうしても肩が上がってしまうみたいで……」
『それは仕方のないことです。適応しようとするあなたの身体の誠実さですから。……では今日は、“戻す”トレーニングに集中しましょう』
「戻す、ですか?」
『ええ。あなたの身体は、長い間ずっと“耐える形”を強いられてきた。守るために、抱き寄せるために、自分の中心を明け渡して前に出続けてきたのです』
シルヴァンの言葉には、微塵の憐れみも、そして批判も含まれていなかった。ただ、気象予報士が空模様を語るように、彼女のこれまでの人生を「事実」として肯定する。
(……否定、されないんだ……)
その事実に、明佳は改めて胸が震えるのを感じた。現実の生活では、何かをすれば「もっとこうしろ」と言われ、何もしなければ「怠けている」と揶揄される。呼吸をすることさえ、誰かの許可が必要な気がしていた日々。
『今日は、骨盤の底から呼吸を通します。仰向けになり、膝を立て、腰のカーブを床の重みに預けてください。……重力と喧嘩をしてはいけません』
指示は極めてシンプルだった。明佳は床に寝そべり、重力に身を委ねる。
『吸って。……肩で吸うのではなく、お腹の底に、新しい光を入れるイメージで』
吐く。
『……力を抜いて。あなたはもう、ここで誰からも攻撃されません』
その声に意識を預ける。
(……楽……なんて楽なんだろう……)
不思議なほど、身体に抵抗がない。シルヴァンの声が、凝り固まった筋肉の繊維を一つずつ解きほぐしていく魔法の旋律のように響く。
『……頑張ろうとしなくていい。あなたは、もう十分すぎるほど頑張ったのですから。今はただ、自分が自分であることを許しなさい』
胸の奥が、じん、と熱くなる。視界が急激に滲み、こらえきれなかった一筋の涙が耳の後ろへと流れていった。
『泣いても構いません。涙もまた、内側の圧力を逃がすための大切な呼吸の一部です。……今は、ただ本来の位置に戻りましょう』
頷き、ただ息をする。それだけなのに、歪んでいた骨格が、圧迫されていた内臓が、あるべき場所へと静かに、誇らしく収まっていく感覚があった。
その様子を、キッチンの物陰から颯斗が見ていた。コーヒーカップを握りしめたまま、彼は言葉を失っていた。マットの上で、恍惚とした、それでいて極めて澄んだ表情で呼吸を繰り返す妻。自分に対して見せる「完璧な仮面の笑顔」でもなく、かつての「怯えた顔」でもない。そこにあるのは、自分という男が一度も触れることのできなかった、彼女の魂の最深部にある美しさだった。
(……あんな顔、しばらく見たことない……)
画面の中から聞こえる、あの男の声。
───「あなたは十分頑張った」
───「否定しなくていい」
その言葉が、颯斗の胸にちくりと、毒針のように刺さった。
自分がこれまで彼女にかけてきた言葉を、脳内で反芻する。
───「まだ戻らないの?」
───「母親なんだから当たり前だろ」
───「もっと効率よくやれよ」
冗談のつもりだった。軽口のつもりだった。けれど、それらはすべて「今のままの君ではダメだ」という、執拗な否定の連呼だったのではないか。
昼。仕事中も、颯斗の頭からその光景が離れなかった。
自分が「良かれ」と思って与えていたアドバイス。自分が「場を和ませるため」に言っていたいじり。
それが、彼女という人間をどれほど削り、呼吸を止めさせ、ついには自分という存在を記憶から消去させるほどの絶望に追い込んだのか。
(俺は……彼女の、何を愛していたんだ?)
「守ってやる対象」として見下すことで、自分の優越感を確認していただけではなかったか。現実という重力で彼女を縛り付けていたのは、他ならぬ自分だった。
夜。颯眞を寝かしつけた後、リビングに再び静寂が訪れる。明佳はソファで、再びスマートフォンのアプリを開いていた。
「……シルヴァンさん。今日は、今までで一番身体が軽く感じられました」
「そうでしょう。否定されないという環境だけで、人間の身体は自己治癒力を発揮し、勝手に動き出すものです。……明佳、あなたは今、自分を愛するための新しい軸を手に入れつつある」
画面の中のシルヴァンは、微かに、けれど確かに、戦友に向けるような信頼の眼差しで微笑んだ。
「……はい。おかげで、この家の中でも……少しだけ、自分の居場所を見つけられた気がします」
そのやり取りを、少し離れたダイニングチェアに座りながら、颯斗は聞いていた。同じ屋根の下、同じ空気を吸っているはずなのに。彼女の周りには、目に見えない強固な結界が張られている。それはシルヴァンという「否定しない声」によって編み上げられた、彼女だけの聖域。
「……明佳」
勇気を出して、颯斗が声をかける。明佳はゆっくりと視線を上げた。その瞳には、恨みも怒りもない。ただ、道端の草花を眺めるような、穏やかで無機質な静寂があった。
「……何でしょうか、榛葉さん」
「……あ、いや。……明日、もし良ければ、三人でどこか……公園にでも行かないかと思って」
明佳は一瞬、アプリの画面を見てから、静かに首を振った。
「明日の午前中は、骨盤の調整に最適な時間帯だと師に言われています。……自分を整えることが、今の私の最優先事項ですので。……すみません」
丁寧な拒絶。以前なら、自分の希望を殺してでも「分かった、行こう」と言ったはずの彼女。今の明佳にとって、自分を否定しない世界との対話こそが、生きるための糧だった。
颯斗は、何も言い返せなかった。彼女を否定し続けてきた自分が、今さら「家族」という名の絆を盾に彼女を誘うことの滑稽さを、今の彼女の凛とした背中が雄弁に語っていたからだ。届かない距離。二人の間に広がるその隔たりは、冷たい断絶ではない。
それは、明佳が自らを守るために、そして再び一人の人間として呼吸するために作り上げた、誇り高い「境界線」だった。その夜、明佳が吐き出した息は、昨日よりもさらに深く、透明なものになっていた。




