17.同じ家、違う距離
玄関の鍵を回す、乾いた金属音。それは、数日前まで明佳を絶望させていた音と同じはずだった。扉を開ければ、逃げ場のない家事が、泣き止まない子供が、そして自分を否定する夫が待っている。かつて、この音は彼女にとって「監獄の閉門」を意味していた。
「……ただいま」
けれど、口をついて出たその言葉に、以前のような湿り気はない。明佳は、凛とした足取りで一歩を踏み出した。廊下を進む。壁に掛かった家族写真、使い込まれた掃除機、角が擦り切れたカーペット。網膜に映る景色は、間違いなく「自分の人生」の断片だ。しかし、今の明佳にとっては、まるで誰かの生活を丁寧になぞった映画のセットを歩いているような、奇妙な剥離感があった。
「おかえり。……体調は、大丈夫か?」
台所の入り口から、声がした。
───榛葉颯斗。
振り向いた彼の顔は、病院で見た時と同様、確かに「知っている顔」だ。整った目鼻立ち、少し神経質そうな眉の寄せ方。けれど、それだけだ。胸の奥にあるはずの「愛」も「憎しみ」も「恐怖」も、この男に対しては一切反応を示さなかった。
「……はい。おかげさまで。荷物、こちらに置きますね」
明佳は、小さく会釈をした。それは、不仲な夫婦の沈黙ではなく、よく訓練された秘書か、あるいは洗練された異邦人が見せるような、完璧に礼儀正しい、けれど決定的な「距離」を含んだ仕草だった。
そのよそよそしい態度に、颯斗は一瞬、殴られたような衝撃を受けたように目を瞬かせる。かつての明佳なら、彼の顔色を伺い、「ごめん、遅くなって」と謝罪を口にしながら、縮こまるようにして家事に取り掛かったはずだった。
「……颯眞なら、起きてるよ。……さっきまで、俺が遊んでたんだ」
「ありがとうございます。すぐに行きます」
その名を聞いた瞬間、明佳の瞳にだけは、生きた灯が宿った。
居間のソファ。そこに寝かされていた小さな身体を見つけた瞬間、明佳の全身から、先ほどまでの冷徹なまでの冷静さが消え失せた。
「……そうま……」
駆け寄る。抱き上げる手は、計算されたかのように淀みがない。骨盤で体重を支え、腕の力を抜き、子供の重みを自分の「軸」へと逃がす。異世界でシルヴァンと繰り返したあのフォームが、無意識のうちに実践されている。
「……ああ、あったかい……」
頬を寄せる。颯眞の柔らかい肌の感触、鼓動。記憶の中の「夫」は消え去っても、この「重み」に対する本能的な愛着だけは、筋肉の一つひとつが、細胞の一つひとつが鮮明に記憶していた。颯眞は、母親の変化を察知したのか、何事もなかったかのように明佳の指を小さな手でギュッと握り返した。
(……覚えてる。この子だけは、私の魂の延長線上にいる)
その光景を、颯斗は部屋の隅で黙って見ていた。妻が戻ってきた。それも、以前よりずっと美しく、健康的な姿で。それなのに、自分の胸にあるのは、手放しの安堵ではなかった。
そこにいるのは、自分の知っている「弱くて守ってやるべき、支配しやすい明佳」ではない。自分の手の届かない、高潔な何かへと変貌を遂げた「誰か」であるという、言い知れぬ違和感と恐怖。
夕方。台所に立つ明佳の手際は、以前とは比較にならないほど効率的だった。
無駄な動きが一切ない。重い鍋を持つ時も、以前のように腰を丸めるのではなく、下半身のバネを使い、優雅に、そして力強く。包丁がまな板を叩く、小気味よいリズム。立ち上る湯気の向こう側で、彼女の横顔は、聖堂で祈りを捧げる修道女のような静謐さを湛えていた。
「……記憶、本当に……戻ってないのか?」
食卓に運ばれる料理を眺めながら、颯斗が耐えかねたように口を開いた。明佳は、一度も手を止めることなく、感情の平板な声で答える。
「……戻っていません。あなたのことも、ここで私たちがどんな風に暮らしていたのかも。……白紙のままです」
「じゃあ、なんで……なんで、そんなに迷いなく飯が作れるんだ。掃除機の場所も、颯眞の寝かしつけ方も……。全部知ってるみたいじゃないか」
明佳は火を弱め、ようやく彼の方へ視線を向けた。
「身体が、覚えているだけです。……知性で覚えているのではなく、この手が、この足が、日々の反復を記録していた。……ただの、慣性の法則のようなものです」
その言葉は、颯斗がかつて彼女を「家庭を回すためのパーツ」としてしか見ていなかった事実を、残酷な形で鏡合わせに突きつけた。心がないのに、身体だけが動く。それは、彼が彼女に求めていた「理想の家事ロボット」に近いものだったが、いざその現実を突きつけられると、これほどまでに寒気がするものだとは思わなかった。
食卓を囲んでも、会話は一切弾まない。颯眞が離乳食を一口食べた、機嫌がいい、それだけの事事実確認。以前なら、颯斗の仕事の愚痴を延々と聞き、明佳が相槌を打っていたはずの時間。今の明佳は、彼が話し始めても、「そうですね」と一言で切り上げ、自分の食事を適正な栄養バランスで摂取することに集中していた。
夜。颯眞を無事に寝かしつけた後、明佳はリビングのソファの端に座り、スマートフォンを手に取った。これが、今の彼女にとって唯一、自分が自分であることを確認できる「聖域」だった。画面を開く。
【インナーマッスルに届け! 】
アイコンが放つ淡い光。そこに触れた瞬間、明佳の表情が、本日初めて「女性」としての柔らかさを帯びた。
『……こんばんは、明佳。……無事に着いたようですね』
スピーカーから、聞き慣れた、低く穏やかな声が流れる。それは録音されたデータなのか、あるいは時空を超えたリアルタイムの通信なのか。今の明佳にはどうでもよかった。その声が届くこと、それ自体が救いだった。
「……こんばんは。……はい、なんとか。……少し、重力が強い気がします。でも、教えていただいた呼吸を続けています」
自然と、慈しむような微笑みが浮かぶ。その様子を、キッチンの暗がりに立ち、水を飲むふりをしていた颯斗は、息を殺して見守っていた。
(誰だ……? あんな、とろけるような顔で、誰と話しているんだ……)
颯斗の胸が、激しい嫉妬とざわつきで掻き乱される。自分に向けられるのは、透明なガラスのような、無機質な礼儀正しさだけ。なのに、その小さなスマートフォンの向こう側にいる誰かには、あんなにも深く、親密な感情を晒している。
「……最近、そればっかりだな。……そんなに面白いのか、そのアプリ」
耐えきれず、颯斗が影から声をかけた。明佳は驚くこともなく、スマートに画面を閉じると、淡々と答えた。
「面白い、というのとは違います。……師事することが、増えただけです」
「師事? 誰にだよ。ダイエットのコーチか?」
「……ええ。私の、人生の立たせ方を教えてくれる……大切な師です」
「立たせ方」という不可解な言葉。そして、夫である自分を完全に「圏外」に置いた物言い。颯斗は、目の前にいるこの美しい女性が、自分の妻であることを誇らしく思う以上に、決して手に入れることのできない「未知の存在」になってしまったことに、絶望を隠せなかった。同じ屋根の下に暮らし、同じ空気を吸っている。
けれど、明佳の心は、百億光年離れた異世界のジムにあった。彼女は今、現実という名の荒野を、シルヴァンという名の「軸」を道標にして、一人で歩き始めている。その距離は、言葉で埋められるほど甘いものではないことを、二人とも、肌で感じていた。




