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インナーマッスルに届け!───鍛えたのは、身体と恋と生き直す勇気だった───  作者: 宮野夏樹
第10章 思い出せない棘と、否定しない言葉【修復編】

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16.ただいまを言う場所


 白い天井が、ゆっくりと、そして執拗なまでの鮮明さで視界に戻ってきた。瞬きをするたびに、網膜に焼き付いた異世界の青い空が薄れ、代わりに無機質な蛍光灯の光が滲む。鼻を突くのは、あの森の香りではなく、消毒液と石鹸が混ざり合った、病院特有の乾いた匂いだった。


 (……ここは……現実?)


 明佳は、指先から順に、身体の感覚を確かめるように動かした。驚くほど身体が軽い。過労で倒れる前の、あの鉛を詰め込んだような倦怠感は消え去り、四肢には一本のしなやかな筋が通っているような、凛とした感覚が残っていた。異世界での日々は、夢ではなかった。身体が、それを証明している。


「……あ、目が覚めましたか。気分はどうですか?」


 カーテンを引いて現れたのは、穏やかな表情の看護師だった。


「……ここ、は……」

「市立病院ですよ。自宅で倒れてから、丸1日間、眠り続けていたんです。検査の結果、ひどい栄養失調と過労……。本当、よく頑張りましたね」


 3日。異世界で過ごしたあの濃密な時間は、こちら側ではわずか24時間の出来事に過ぎなかったのか。明佳は、枕元に置かれた自分のスマートフォンに手を伸ばした。


 画面は割れていない。電源を入れると、指紋認証がスムーズに通り、見慣れた壁紙が表示される。その一番端に、あのアプリ――『インナーマッスルに届け!』が、確かに鎮座していた。


 アイコンに触れる勇気はまだなかったが、それがそこにあるだけで、胸の奥が温かな安堵で満たされた。シルヴァンは、私を捨てなかった。


「……はや……」


 名前が、自然とこぼれた。異世界の境界で、叫ぶように取り戻したあの愛しい名。


「……あ……」


 けれど、違和感があった。「はや」の後に続くはずの音が、喉の奥で霧散してしまう。胸の奥に、ぽっかりと不自然な空白があった。パズルのピースが一つだけ欠けているような、奇妙な感覚。


 (何かが……思い出せない?)




 その時、病室の扉が、音を立てるのを躊躇うように静かに開いた。


「……明佳……」


 聞き覚えのある声。けれど、その響きにはどこか聞き慣れない「怯え」が混じっている。明佳がゆっくりと首を巡らせると、そこには一人の男性が立っていた。


 肩を落とし、無精髭を蓄え、目の下に深い隈を刻んだ、ひどく疲れ果てた様子の男。だが、明佳の視線を奪ったのは、その男ではなかった。男の腕の中に抱かれた、小さな、温かい存在。


「……!!」


 瞬間、身体が思考を追い越して動いた。点滴のチューブが引き攣れるのも構わず、明佳はベッドから身を乗り出すようにして、その存在を求めた。


「……颯眞そうま……っ!」


 その名は、魂に刻まれていた。男の手から奪うようにして、小さな身体を引き寄せる。柔らかな髪、ミルクと日向を混ぜたような懐かしい匂い、自分を求めて伸ばされる小さな手。


「……よかった……。無事で……本当に、よかった……」


 頬を寄せ、あの子の心臓の鼓動を確かめる。涙が、堰を切ったように溢れ出した。異世界で何度もシミュレーションした「抱っこ」の姿勢が、完璧に機能する。あの子の重みを、今の明佳の身体は「負担」ではなく「喜び」として、最適に支えきっていた。


「……ごめんね……。寂しかったよね。……ごめんね、颯眞……」


 何度も、何度も、その小さな額にキスを落とす。その様子を、連れてきた男は、ただ呆然と立ち尽くして見ていた。唇を強く噛み締め、何かに耐えるように拳を握りしめて。


「……あの」


 ひとしきり泣いた後、明佳は顔を上げた。涙で滲んだ視界の向こうにいる男に、今の彼女にできる最大限に丁寧な、けれどどこか「距離」のある声で告げる。


「……この子を、連れてきてくださって……本当に、ありがとうございます」


 明佳は、胸の中で颯眞を抱いたまま、深々と頭を下げた。男の目が、見開かれたまま、激しく揺れた。


「……明佳……?  何を、言ってるんだ……?」

「……え?」


 明佳は、不思議そうに首を傾げた。


「……あの、あなたは……失礼ですが、どなたですか?  颯眞を預かってくれていた……私の親族、でしょうか?」


 空気が、一瞬で凍りついた。傍らにいた看護師が、ハッとしたように息を呑む。男───榛葉颯斗は、まるで目に見えない刃で貫かれたかのように、一歩、たじろいで後退した。


「……俺は……。俺だ。……お前の、夫だろ……?」


 その言葉は、明佳の胸の表面を滑り、どこにも届かなかった。彼女の記憶の海には、自分を否定し、追い詰めた「顔のない棘」のイメージはあっても、目の前にいるこの男と自分の人生が繋がっているという確信が、綺麗に消失していた。


シルヴァンによって「整えられた」明佳の精神は、彼女を壊そうとした存在を、防衛本能として完全に排除パージしてしまったのだ。


「……すみません」


明佳は、困ったように眉を寄せた。拒絶ではない。怒りでもない。ただ、道ゆく他人に話しかけられた時のような、淡白で、決定的な「無関係」の眼差し。


「……覚えていないんです。……でも」


腕の中の颯眞を、壊れ物を扱うように、けれど力強く抱き締め直す。


「……この子は、私の……。私の、命よりも大切な、息子です」


涙が再び頬を伝う。その言葉の対比が、颯斗の心をこれ以上ないほどに残酷に打ち砕いた。息子への愛は戻ったのに、夫への愛……いや、存在そのものが、消えてしまった。


「……そんな……」


颯斗は、その場に崩れ落ちそうになるのを必死で堪えた。


───忘れられた。

───蔑ろにし続け、追い詰めた結果。


自分は彼女の人生から「いなかったこと」にされた。看護師が、震える颯斗の肩にそっと手を置いた。


「……榛葉さん。……今日は、もうお帰りになった方が。……奥様は、まだ混乱されていますから……」


颯斗は、何かを言おうと口を動かしたが、結局、声は出なかった。ただ一度だけ、愛おしそうに、そして絶望的な顔で明佳を見つめると、踵を返して病室を出て行った。扉が閉まる音が、静かな病室に冷たく響いた。


夜。病院の消灯時間が過ぎ、病室は深い静寂に包まれていた。明佳は、隣のコット(ベビーベッド)で眠る颯眞の、紅葉のような小さな手を握り締めながら、もう片方の手でスマートフォンを胸に抱いていた。


「……シルヴァン……」


画面を点けても、アプリが立ち上がることはない。けれど、暗い画面に映る自分の顔───かつての怯えが消え、静かな強さを宿した今の自分の顔を見ていると、確かに彼がそこにいる気がした。


「……私、帰ってきたよ」


真っ暗な天井を見上げ、独り言をこぼす。


「……でも、なんだか迷子みたい。……知っているはずの家も、知っているはずの人も……。全部が、知らない物語の中の出来事みたいで」


明佳は、スマートフォンのひんやりとした感触を、頬に寄せた。思い出せない「夫」という存在。彼と過ごした日々。なぜ、あんなにも彼に否定されなければならなかったのか。なぜ、あんなにも自分を嫌いになってしまったのか。その「原因」だけが抜け落ちている。けれど、不思議と不安はなかった。今の明佳には、異世界でシルヴァンと共に作り上げた「軸」がある。


「……それでも。私は、お母さんで……。そして、私は、生きてる」


暗闇の中で、不意に、あの懐かしい声が聞こえた気がした。


───ゆっくりでいい。

───あなたのペースで、歩きなさい。


その声を、胸の最も深い場所に刻み込みながら、明佳は颯眞の寝息に合わせて深く呼吸をした。呼吸を止めない。自分を殺さない。

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