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インナーマッスルに届け!───鍛えたのは、身体と恋と生き直す勇気だった───  作者: 宮野夏樹
第10章 思い出せない棘と、否定しない言葉【修復編】

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15.帰りたいという言葉


 夜のトレーニングルームは、昼間の活気が嘘のように、別の顔をしていた。異世界の月の光が、高い窓から銀色の帯となって差し込み、整然と並ぶ器具たちの影を長く引き伸ばしている。かつては威圧的に感じられたその空間も、今では明佳の心と身体を静かに受け止める聖域のようだった。明佳は、ひんやりとしたマットの上に座り、膝を抱えていた。


 指先が、自分のふくらはぎの筋肉に触れる。数週間前には感じられなかった、しなやかな弾力。背骨を支える確かな芯。身体が整えば整うほど、反比例するように心の中に空いた「穴」が、風を切るような音を立てて疼き始めていた。


「……帰りたい……」


 唇から零れた瞬間、その言葉が重力を伴って胸の奥をきゅっと締め付けた。この世界に来てから、ずっと心の片隅にあった想いだ。けれど、自分を「整える」ことに必死だった日々の中では、それはどこか遠い国の出来事のように感じられていた。


「……帰りたい……」


 もう一度、今度は確信を込めて呟いた。誰に向けた言葉でもない。けれど、言わずにはいられなかった。自分の声が、夜の静寂に波紋のように広がっていく。


「……抱き締めたい。あの、ミルクの匂いがする、小さな身体を……」


 名前が、喉のすぐ裏側まで出かかっている。なのに、そこから先が透明な壁に阻まれたように出てこない。愛している。命よりも大切だと思っている。それなのに、あの子を呼ぶための「鍵」だけが見つからない。それが、これほどまでに残酷で、血の出るような苦しみだとは知らなかった。


「……私、母親なのに……。自分の命の半分を忘れるなんて……」


 握りしめた拳が震え、涙がマットの上に一粒、二粒と吸い込まれていった。


「……明佳」


 背後から、衣擦れの音と共に静かな声がした。振り返ると、長い影を従えてシルヴァンが立っていた。いつも通り、氷の彫刻のように穏やかな表情。だが、その黄金色の瞳には、今までに見たことのない鋭い緊張と、去りゆく者を見送る覚悟のような色が宿っていた。


「……聞こえてしまいましたか」

「ああ」


 彼は否定しなかった。ゆっくりと近づき、明佳の隣ではなく、彼女を導く者の位置として、正面に腰を下ろした。


「……帰りたいと願うことは、罪ではない。むしろ、それはこのトレーニングが完成に近づいた証拠だ」

「……でも、シルヴァンさん……。正直に言うのが、怖いんです」


 明佳は、震える唇を噛んだ。


「……ここにいると、楽なんです。現実の重みから逃げて、あなたに優しくされて、自分を磨くことだけに集中して……。それを『幸せ』だと思ってしまう自分が、一番最低な気がして……」


 母親が、子供のいない場所で「楽」を感じていいのか。自分自身の「人としての喜び」を優先していいのか。その罪悪感こそが、彼女をこの異世界に繋ぎ止めている最後の鎖だった。


「……ここでは、ちゃんと……『榛葉明佳』という一人の人間として、扱われている気がするから……。母親でも、誰かの妻でもない、ただの私でいられるから……」

「違う、明佳。それは『楽』をしているのではない」


 シルヴァンは、突き放すような強さで、はっきりと言った。


「あなたは、奪われていたものを取り戻しているだけだ。当然の権利を、当然の状態として、再構築しているに過ぎない」

「……取り戻す……?」

「ええ。母である前に、妻である前に……。あなたは、誰にも侵されない尊厳を持った一人の人間だ。その順番を忘れて、役割という泥沼に自分を沈めてしまったから、あなたの身体は悲鳴を上げ、ここへ辿り着いた」


 シルヴァンの言葉が、氷を溶かす熱源のように明佳の胸を叩く。


「自分という個の土台を失ったまま、誰かを愛し続けようとすれば、いつか共倒れになる。……帰る場所を正しく見失わないために、今、あなたには自分を愛する力が必要だった」

「……帰る……。そう、私は、あの子を救うために、私を救わなきゃいけなかったんだ……」


 明佳は、膝に顔を埋め、身体を小さく丸めた。「帰りたい」という願いが、もはや願望ではなく、魂の叫びとなって溢れ出す。


「……会いたい。……もう一度、あの声を聴きたい。……名前、呼びたい……!」


 その瞬間だった。脳裏で、ガチリと巨大な歯車が噛み合う音がした。暗闇の中に、一つの光の筋が差し込む。


「……そう……」


 微かに、喉が震える。肺に溜まったすべての空気が、一つの音を結ぶために収束していく。


「……ま……」


 息が詰まる。心臓が、肋骨を突き破らんばかりに鼓動を速める。シルヴァンの顔が、部屋の景色が、異世界の月光が、激しく揺らぎ始めた。


「……そう……ま……!」


 喉の奥で、せき止めていた堰が壊れた。


「……そう……!」


 名が、こぼれた。その刹那、明佳の視界を眩い白銀の光が埋め尽くした。


「……颯眞そうま!!」


 叫んだ。かつて命懸けで産み落とし、その名をつけた時の記憶が、奔流となって彼女の全身を駆け抜けた。あの子の笑顔。泣き声。温もり。重さ。すべてが、「母親としての自分」ではなく、「明佳という人間が選んだ愛」として、彼女の軸に統合されたのだ。


「……いい。そのままだ、明佳」


 光の渦の中で、シルヴァンが彼女の肩を強く、けれど優しく掴んでいた。その手の感触さえも、急速に透明になっていく。


「……思い出せば、戻れる。……あなたはもう、自分を支える術を知っている。……二度と、誰にもあなたの軸を奪わせてはいけない」

「シルヴァン……さん……!」

「……泣いていい。……笑っていい。……あなたは、最高の母親であり、最高の女性だ」


 シルヴァンの微笑みが、光の中に溶けていく。最後に聞こえたのは、この異世界で彼女を救い続けた、あの穏やかな声の残響。


「……さあ、目を開けて。あなたの戦うべき場所へ」


 ───世界が、一気に遠のく。浮遊感のあと、猛烈な重力が彼女を現実へと引きずり戻した。


 ……ピー、ピー、ピー……。


 規則正しい機械音。消毒液の匂い。重たい瞼を、震わせながら、ゆっくりと持ち上げる。


 そこには、異世界の青い空ではなく、真っ白な病院の天井があった。そして、枕元で信じられないものを見るような顔をして、彼女の手を握り締めている───夫・颯斗の姿があった。


「……そ……ま……」

「……明佳……!?  明佳、分かんのか!?  分かるのかよ!」


 夫の叫び声に、明佳は混乱の中で、自分の腹部にそっと手を当てた。異世界で鍛えた、あのしなやかな筋肉の感覚が、微かに、けれど確かにそこにある。


(……帰ってきた……。颯眞、お母さん……帰ってきたよ……)

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