14.似ているということ
朝のトレーニングを終え、呼吸を整えていた明佳の元へ、シルヴァンがいつもとは違う、どこか厳粛な足取りで近づいてきた。
「……明佳さん。来客です」
「お客、さん……?」
この屋敷に、シルヴァン以外の誰かが訪れるなど想像もしていなかった。明佳が戸惑うと、シルヴァンの声音はさらに慎重さを帯びた。
「ええ。少し……説明が必要な方です。ですが、今のあなたなら、会うべきだと判断しました」
ジムの重厚な扉が静かに開く。逆光の中に立つその人影を見た瞬間、明佳は心臓が止まるかのような衝撃を受けた。
───似ている。
最初に脳裏をよぎったのは、あまりにも直球な既視感だった。その女性は、明佳より数歳年上に見えた。艶やかな黒髪をエレガントにまとめ、上質な生地の服を纏ったその姿は、一分の隙もないほどに美しい。
だが、明佳が息を呑んだのは、その美しさのせいではなかった。目元の柔らかな曲線、微笑む時にわずかに上がる口角、そして何より、凛と立ちながらも周囲を優しく包み込むような「生気」の放ち方。
(……私? いいえ、でも……)
それは、今のボロボロになった自分ではない。出産という荒波に揉まれる前、まだ自分のために服を選び、未来に期待し、鏡の中の自分を愛することができていた───あの頃の「理想の自分」が、そのまま歳を重ねて成熟したような、そんな姿だった。
「初めまして。あなたが、明佳さんですね」
女性は、鈴の音のように澄んだ声で微笑んだ。
「ルチア・アルスターと申します」
アルスター。シルヴァンと同じ姓。明佳が驚きで言葉を失っていると、彼女はシルヴァンの隣に立ち、はっきりと言い切った。
「シルヴァンの……妻です」
「……妻、ですか……」
掠れた声で、明佳はようやくそれだけを絞り出した。隣に立つシルヴァンとルチア。二人が並ぶ姿は、絵画のように完璧な均衡を保っている。これほどまでに美しく、完成された二人を前にして、明佳は自分がひどく場違いな存在であるかのような、奇妙な疎外感に襲われた。ルチアは、明佳の動揺を慈しむように、ゆっくりと歩み寄ってきた。
「噂通り……いえ、想像以上に似ていらっしゃる。まるで、昔の自分を見ているようですわ」
「……昔の、ルチアさんに?」
「ええ。子どもが生まれた直後の、睡眠も取れず、自信を失い、自分の名前さえ忘れかけていた頃の……そんな私に」
その告白に、明佳は目を見開いた。これほど完璧に見える女性にも、自分と同じ「沼」の中にいた時期があったというのか。
「今日は、シルヴァンには内緒の“女性同士の話”をさせてもらいたくて来たのです」
ルチアはそう言って、シルヴァンを振り返った。彼は一瞬、過保護な親のような躊躇いを見せたが、やがて静かに頷き、その場を後にした。
「彼女には、あなたに『言えないこと』を聞いてもらう役目がある。……僕には、踏み込めない場所がありますから」
扉が閉まり、二人きりになった室内。ルチアは、明佳を小さなテラスへと誘った。
「……さて。単刀直入に伺いますね、明佳さん」
ルチアは温かいハーブティーを差し出し、真っ直ぐに明佳を見つめた。
「あなた……本当は、今すぐ“帰りたい”のでしょう?」
その一言は、明佳が心の奥底に封じ込めていた「ダム」を決壊させるのに十分だった。シルヴァンの前では、強くなろうとしていた。整えようとしていた。けれど、自分とあまりにも似た「先ゆく者」の眼差しに触れた瞬間、取り繕っていたすべてが崩れ去った。
「……帰りたいです……!」
声が震え、喉が熱くなる。
「……抱きしめたい。あの子の、あの柔らかい頬に触れたい。……私、お母さんなのに。あの子を一人にして、こんな場所で自分の身体を整えてるなんて、本当は最低だって分かってるんです!」
一度溢れ出した言葉は、もう止まらなかった。
「……名前を呼びたい。颯眞、そう呼んで、あの子が振り返るのを見たい。……忘れたくないんです。現実がどんなに辛くても、あの重みを忘れて生きるなんて、私にはできない。……帰りたい。今すぐ、あの子のそばへ……!」
明佳は顔を覆い、子供のように声を上げて泣いた。異世界に来てから、これほど剥き出しの感情を叫んだことはなかった。
ルチアは、何も言わずにただ寄り添っていた。彼女の放つ空気は、シルヴァンのような「導き」ではなく、すべてを包み込み、肯定する「共鳴」だった。泣き疲れ、呼吸が整い始めた頃、ルチアはそっと囁いた。
「……素晴らしいわね。それだけ強く、切実に願えているのは」
「……え……?」
「“帰りたい”と口に出せるようになったこと。それは、あなたの心が『自分自身を、再び愛する準備ができた』証なのよ。以前のあなたは、帰るのが怖くて、自分を罰するためにここに迷い込んだ。でも今は、あの子に会うために、ここを去ろうとしている」
ルチアの言葉が、明佳の胸の奥を静かに満たしていく。
「それは、とてもいい兆しです。あなたはもう、役割の奴隷じゃない。愛を選択できる、一人の自立した女性に戻り始めているのよ」
「……どうして、そんなに私の気持ちが分かるんですか?」
明佳の問いに、ルチアは少しだけ悪戯っぽく、けれどどこか寂しげに微笑んだ。
「さあ……。それは、私たちが『似ているから』かもしれませんね。あるいは……誰かが、私の存在にあなたの“理想”を詰め込んだからかもしれない」
その言葉の真意を、明佳はまだ理解できなかった───ルチア・アルスター。
彼女もまた、誰かの祈りや願いによって、この異世界に「形」を与えられた存在。今、目の前にいるこの完璧なルチアは、かつての生気に溢れていた明佳に、あまりにもそっくりだった。
「さあ、シルヴァンが心配して待っていますわ。……明佳さん、あなたの旅の第1章は、もうすぐ終わる。次はおそらく、あなたが最も向き合いたくない『現実』との対峙になるでしょう」
ルチアは立ち上がり、扉の方へと歩き出した。
「でも、今のあなたなら大丈夫。……自分を愛することを知った母親は、世界で一番強いのですから」
扉の外では、シルヴァンが微動だにせず待っていた。ルチアは彼に向かって、小さく、確信を込めて頷いた。
「……大丈夫。彼女はもう、前を向いているわ」
「……そうか」
二人の視線が交差する。そこにあるのは、言葉を必要としないほどの長い年月と、深い信頼の絆。明佳はその光景を見て、不思議と嫉妬を感じなかった。むしろ、自分もいつか現実世界で、あんな風に誰かと信頼を結び直せるかもしれない───そんな微かな希望が、胸の奥で芽吹いたのだ。
(……帰ろう。あの子の待つ、あの場所へ)
胸の奥の針が、はっきりと現実を指し示した。異世界の青い空が、ほんの少しだけ遠のいた気がした。




